副読本 その32  「 」






午前中の乗馬を終えて馬を厩舎に戻した二人が昼食の場所に選んだのは、見晴らしのよい丘の上である。
気温が高く雨がほとんど降らないアテネとは違い、平均気温が10度以上低いこの土地の夏は爽やかだ。
じきに紅葉も始まるというが、目の前に広がる一面の緑が美しく、それだけでも二人の聖闘士の目を楽しませる。
背の高いポプラを背にして、宿の主人の心づくしのランチボックスを広げたミロがさっそく手を伸ばした。
「日本食もいいが、このカツサンドというのが俺は好きだね!ボリュームがあっていいじゃないか。
 俺た

副読本 その32  「 ミロ 」


「それにしても、まさか、昭王の名前が俺と同じとは思わなかったぜ! お前、二千三百年前から知って
 たんじゃないか!聖域で初めて会ったとき、気がつかなかった?」
「そんなことを言われても………」
いきなり途方もないことを言われたカミュが返答に困っているのを見て、ミロがくすくすと笑う。

   そんなに本気にとることはないんだよ、カミュ……ほんとに可愛いんだから♪
   しかし、俺が時々、 『 可愛いっ 』 なんて思ってることを知ったら、怒るのかな?想像がつかんな?

「まあ、もう少し飲めよ。 大丈夫だよ、このくらい♪」
最初についだ酒がほとんど減っていないのを見てとったミロが、鮮やかな群青の銚子を手に取った。
今夜の酒は冷酒で、細工の美しいカットグラスの酒器が使われている。 先日初めて見たときにそのあまりの美しさに惚れこんだミロは、カミュをせっついて宿の主人と交渉させて1セット購入することにしてあるのだ。

   こんなにきれいなグラスで、カミュと飲む酒の美味さといったらないな!
   宝瓶宮でも、ぜひこれで飲みたいもんだぜ

うながされたカミュがちょっと困った顔をしながら群青の盃を唇に運ぶ。 添えられた指先がきれいで、ミロは内心溜め息をつくのだ。
「ほんとにちょっとしか飲まないんだな……じゃあ、ちょっと貸せよ!」
ひょいっとカミュの手からグラスを取ったミロがあっという間に飲み干した。
「え…………?」
「はい、これを持って ♪」
空のグラスを持たせたミロが、いかにも嬉しそうになみなみと酒をつぐ。 澄み切った大吟醸のなかに金箔が舞っているのがえもいわれぬ美しさで、ミロは楽しくてしかたがない。
「あのね、たとえお前が飲めなくても、ついでやりたいんだよ、俺は。 」
ミロが幾度目かに空にした盃を差し出すと、さすがに慣れた様子でカミュが銚子を傾けた。
「俺はかなり飲める口だから、何度でもお前についでもらえるだろ?でも、ほうっておくとお前は盃一つで
 終わるからな。 それじゃ面白くないんだよ、俺は。 だから、お前の分を俺が飲む、うん、いい考えだと思
 うぜ ♪」

今夜のミロはやたら機嫌がいい。
昭王の名前が、元は漢字だが、発音としては 『 ミロ 』 だったというのが嬉しくてならないのだ。
王になったときに名を変えたとは思ってもみなかったので、これはフェイントだった。

   ふふふ………これで名実ともにミロカミュだぜ ♪
   満足だね、俺は!

それに、今夜の献立は、しゃぶしゃぶである。 これがまた、ミロの好物なのだ。
この宿に泊まった初日にしゃぶしゃぶが出てきたときには、箸が最大にして唯一の難関だった。 なにしろ、肉がうまくつかめないではないか!
皿に並べられているとろけるような牛肉は、かろうじて箸ですくうことができるのだが、それを湯の中で泳がせて色の変わったところで引き上げる、というのが難しいのだ。
今はすっかり馴染みになった仲居の美穂が見本にやってみせてくれたのだが、簡単そうにみえて、いざやってみるとミロには難しいことこの上ない。
肩が凝り、指が引きつってくる気がして音を上げたミロがふとカミュを見ると、これはなんとしたことだ!
優雅に肉を泳がせ、あっさりと引き上げるカミュがそこにいたではないか。
「お、お前っ………どうしてそんなに上手いんだっ??!!」
「箸の使い方は極めて論理的に理解できる。 上方の箸は人差し指と中指で挟み、親指の腹で固定す
 る。一方、下方の箸はこのように薬指の第一関節に乗せ、親指の付け根と、その向かい側の人差し指
 の付け根の下部で固定する。 どちらの箸も3点で固定されており、揺らぐはずがない。 非常に論理的
 かつ機能的なカトラリーだ。」
愕然とするミロに、カミュはあっさりと答えたものだ。 そして鍋の中に目をやり、ミロが引き上げかねている肉をすいっとすくい上げた。
「このままではせっかくの肉が固くなる。 お前の分は美穂にやってもらったほうがよいのでは
 ないか?」
あやうく、俺の分は、お前にやってもらいたいっっ!と叫びそうになったミロである。
スカーレットニードルのこともあり、指先の器用さには自信があったミロだが、こうして、しゃぶしゃぶに関しては軍配はカミュに上がったのだった。 これに懲りたミロは、その後訓練にいそしみ、ついにはカミュと遜色なく箸を使いこなせるようになったのである。

   その気になれば、俺だって黄金聖闘士だからな! このぐらいのことはわけもない♪
   それに、手先の器用さはスカーレットニードルや箸だけじゃないんだぜ♪

初日はカミュと美穂に牛肉を取り分けてもらわねばならなかった屈辱は、すでに過去のものである。 その後、しゃぶしゃぶが、離れに長逗留する二人の好物であることがわかったので、宿の方でもしばしば献立にのぼせてくれるのだ。 こうして楽しく食べている特選黒毛神戸和牛霜降り肉が多くの日本人にとって垂涎の的であることは、二人のあずかり知らぬことなのであった。
「そろそろ戻るか?」
「ああ、今夜は実に満足だ♪」

   このあとも、満足が、さらに追加されるからな。 いや、実に結構なことだ!

ほくそ笑むミロにはかまわず、カミュが立ち上がる。
足取りはしっかりしており、とても酔いが回っているという風情には思えない。

   ふうん………離れまで帰るので、さらに飲むのをセーブしてるってわけか……
   夕食だけでも部屋で取るように頼めないもんかな………そうすれば………♪

いろいろと考えることの多いミロである。