其の十  後朝 ( きぬぎぬ )


夜中過ぎにアイオリアが寝入ってからも、魔鈴の方はとても眠れたものではない。 ほんのわずかの隙に少将に忍び込まれた姫君がどれほど驚き、思いもかけぬ悩ましい目に遭ったかと思うと居ても立ってもいられないのである。 といって今さら行っても、アイオリアの言うとおりで、どうなるものでもないのだった。 今の魔鈴にできることは、朝になるのをひたすら待つことだけである。

   ほんとに憎らしいこと!
   姫君様がどんなおつらい目に遭われたかと思うと、お気の毒でお気の毒で……!

なにしろ、一人淋しく暮していた姫君にとっての恋というものは、いにしえの絵物語にあるように、貴公子が尋ねてきて ともに月を眺めて歌を詠み ついに立派な屋敷で末永く仲睦まじく暮らす、というたぐいのものである。 日毎夜毎にそれを眺めて暮してきた姫君が現実の貴公子に突然踏み込まれてどう思ったことか。
姫の部屋に入ったことのある男性といえば、父中納言とまだ小さい一の君の貴鬼だけである。 そのほかには、庭を行き来する郎党を御簾内から遠目に見かけるくらいのもので、二の姫の婿となったデスマスクさえ話に聞くだけという日々だったのだ。 いささか淋しすぎるとはいえそれなりに静謐な日々を送っていた姫君が突然の闖入者に蹂躙されて泣き濡れているさまを思い浮かべると、隣のアイオリアが一人安らかな寝息を立てているのも腹立たしくて、憤懣やるかたない魔鈴なのである。 悔しくなってちょっと小突くと、なにやらつぶやきながら腕をからめてきて押しのけようにもどうにも動かない。

   ええいっ、まったくもうっ!
   ほんとに男っていうのは、自分のことしか考えないんだからっ!
   明日から……明日から、あんたになんか抱かれてやらないからっっ!!!

ようやく長い夜が明け染める頃、背を向けている魔鈴の様子を窺っていたらしいアイオリアがそっと寝床を抜け出して、身支度を整えると静かに部屋を出て行った。 いつもなら魔鈴が髪を直してやるのだが、今朝ばかりはどうしようもなくて、困ったように手で撫で付けながら出て行く後ろ姿にちょっと溜飲が下がる。
戸が閉まるとすぐに魔鈴も身支度を整えてそっと姫君の部屋に向かい、まだ暗い渡殿の柱の陰からさし覗くと、外でひざまずいて待っていたアイオリアがちょうど中から出てきた人影に頭を下げているのが見えた。

   あれが少将様…!

夜明け前の闇に溶け込むような色目の装束を着た丈高い人がアイオリアに頷いて、それから振り向いて室内に向ってなにか言ったようである。 それから音を立てぬように戸が閉められて、二人の影は門のほうに消えていった。
どのような公達かを見極めたかった魔鈴としては夜明け前の暗さが恨めしいのだが、むろん、明るくなってから帰るのは迎えた女の側の恥ともなるし、風情がないことおびただしい。 望んで迎えたわけではないが、少将の進退の良さにほっとするのだ。
さてこうなると姫君の様子が気にかかるのだが、少将が帰ったあとを 見ていたように駆けつけるのもかえって気の毒なようでためらってしまう。 結局、部屋で悶々としてしばらく過ごし、朝の光が差し染めてからおずおずと部屋の外から声を掛けてみた。
「あの……カミュ様……魔鈴でございます。 入ってもよろしいでしょうか。」
いつもなら元気よく声をかけて蔀戸を開け始めるのに、今朝はさすがにそんな気になれるものではないのだ。
しばらくそのままで待っていると、やがて蚊の鳴くような声で 「 よきに…」 と返事があった。 恐る恐る戸を開けて中に入ってすぐに気がついたのは馥郁たる高雅な香りである。

   まぁ……これは伽羅だわ!

日頃、香を焚くことなどない部屋だけに少将の残した伽羅の香はたいそう趣き深く感じられるのだ。 姫君は……と見ると、几帳の向こうの御帳台に臥せっていて様子がわからないのだが、昨日まではなかった二藍の衣が掛けられているのは、さては少将が残していったものに違いない。 どきっとして、昨夜の首尾はどうであったのか、果たして姫君はどうお思いになったのかと思い切って声を掛けてみた。
「あの……昨夜は思いがけず少将様がおいでになったようで……あの、わたくしもまったく存じませず、さぞかしお困りになられたことと思いまして……ほんとうに申し訳ございません……」
つかえつかえ やっとそれだけ言うと、そっと姫君の様子を窺ってみるがなんの返事ももらえない。 これはやはりとんでもないことになったと思うと胸が詰まってなにも言えなくなりそうなのだ。
「カミュ様……あの、なんとお詫びを申し上げたらよいか……どんなにおつらくておいでのことかと思いますと……わたくしは…」
涙声で途切れ途切れにやっとそれだけ言ったとき、姫君の困ったような声がした。
「あの………魔鈴…そなたが泣くようなことはなにもないのです……少将様はとてもおやさしくていらして………」
「……え?」
「あの……それで…今夜もまた来るとおっしゃって…」
涙の滲む目で姫君を見ると、衾 ( ふすま=夜具 ) の下から顔を出し恥ずかしそうにして目をそらしている。 指先ではそっと二藍の衣の端をつかみ、朱を散らした頬が魔鈴の目から見てもいかにも美しいのだった。

   これは………姫君には、お嫌ではなかった…?

ちょうどそのとき、外で柱を叩く音がした。
はっとして急いで外に出てみると、息せき切ったアイオリアが立っている。
「喜べ、魔鈴! 若君には いたくお喜びで、お屋敷に帰るなりすぐさまお文をしたためられた。 」
それからすっと近寄って魔鈴をつかまえて耳打ちをする。
「俺の見るところ、若君は姫君様に惚れ込んでおられる。 間違いない、あれは本物だ!今夜もこちらにおいでになられるゆえ、そのつもりでいてくれ♪」
「まあぁ、ほんとに? …それ、ほんとなのね!ああ、どうしよう、こんなことってあっていいのかしら! 私、まだ、姫君様になにもお聞きしてなくて……!」
アイオリアはおろおろしている魔鈴に抱えていた文箱を押し付ける。
「だからなにも心配することはなかったんだよ、若君は軽いお気持ちで姫君様とお逢いになられたのではないのだからな。 どうだ、俺の言うとおりだったろう?」
「ええ、ほんとだわ!待っていてね、かならずお返事のお文をいただくから♪」
大納言家との間を何往復もした見慣れた文箱を大事に抱えた魔鈴がいそいそと姫君の部屋に入ってゆき、アイオリアは満足そうに深い溜め息をついた。

「カミュ様、少将様からのお文が届きました!」
「え……」
今度は嬉しくて思わず笑みがこぼれてしまうのも無理はない。 一晩中 案じていたけれど、朝になってみればこれはどうだろう! 見事、少将は姫君をいとおしく思うようになったというではないか。 ありがたいことには姫君の方も満更でもなかったようで、魔鈴は安堵の胸を撫で下ろす。
「さ、今度こそはお返事をお書きあそばしませ! 料紙も墨筆も先日 少将様がお贈りくださいました。 おまちかねでいらっしゃいますよ。」
助け起こして後ろに回って髪を整え、御前に小机を据えて墨をする。 そのあいだに少将からの文を読んだ姫君は魔鈴の物問いたげな視線に恥じらって顔を伏せてしまう。
「それで、少将様はなんと?」
「……あの……昨夜は物足りぬゆえ……今宵も逢いたいが、どうお思いかと…」
「ま…!」
隠すということを知らぬ姫君があまりに素直に答えるので、魔鈴の方も負けずに赤くなる。
「それは……それは、ようございました。」
「あの……お返事はどうすればよいかしら…」
「カミュ様のお気持ちの通りにお書きになればよろしいのですよ。 素直が一番でございます、さあ、料紙をお選びくださいまし。」
恋になれた女君なら、こんなときには 「 あなたの心が頼みがたくて不安です」 とか 「 そんなことをおっしゃるのもきっと今だけなのだわ 」 とか書くのが常套文句だろうが、そんな手練手管はこの姫君には似合わない。
魔鈴の言葉に素直に頷いて、色とりどりの薄様を指でなぞりながらちょっと首をかしげている様がいかにも愛らしいのだった。

やがて墨のあとも瑞々しい文を収めた文箱がアイオリアの手に渡されて、魔鈴は溜め息をついた。 あとは姫君の恋を成就させるのだ。

   さあ、これからだわ! なにがなんでもやり遂げなければ!

アイオリアの後ろ姿を見送った魔鈴は急ぎ足で姫君のもとへ戻っていった。


                                        ⇒ 続く