其の拾壱  魔鈴


姫君に朝の給仕をしながら魔鈴は部屋の中を見回した。

   今宵も少将様がおいでになるとすると、とてもこの部屋のままではお迎えできないわ!

北向きで暗いのは仕方がないとして、調度は古びて数も少なかったし夜具もまた然りである。 昨夜は不意のこととてどうしようもなかったのだが、二日目の今夜はできるだけのことをして美しく整えられた部屋で少将を迎えたいのである。 姫君に恥をかかさぬようにするのが魔鈴の務めなのだ。
「全部わたくしがいたしますので、どうぞ、カミュ様にはお休みになっていてくださいませ。」
そう言っておいて、魔鈴はまず部屋を隅から隅まで磨きたてることにした。 これまでも忙しい中に暇を見つけては掃除をしていたのだが、今日は一日中かかりきりになれるし、なにより目的が違う。 大事な姫君のもとに舞い降りた素晴らしい婿君を迎えるためなのだから気合いも入ろうというものである。
こんなときは姫君には寝ていてもらうのが一番で、事実、食事のときもぽっと頬を染めてぼんやりしているばかりなのだった。
「カミュ様、きちんとお食べになりませんとお身体に障ります。」
まさか、体力をつけておかないと今夜お困りになります、とも言えず、そう勧めてなんとか食事を終わらせたのだ。

部屋を磨き立ててから魔鈴は暇をもらって外に出た。 五条の伯父の屋敷へ行くのである。
この伯父は、姫君の乳母だった魔鈴の母の兄で、魔鈴が小さいときから可愛がってくれている。 母がなくなった際 、引き取って養女に、という話もあったのだが、姫君から離れることはできないので、と魔鈴が断ったときには伯父はたいへんに残念がり、「 困ったことがあったら何でも言うように 」 と言ってくれている。
久しぶりに訪ねていった魔鈴を伯父のカノンはにこにこと迎えてくれた。 男の子しかいないカノンはただ一人の姪の魔鈴が可愛くてならないのだ。
「伯父様、お願いがあるのですが。 ちょっと必要があるので、几帳や角盥 ( つのだらい ) などお借りしてもよろしいかしら。」
「ほぅ、私はかまわないが。 よいとも、なんでも持っていきなさい。」
万事に鷹揚なカノンが気の効いた女房に手伝わせてくれたので、魔鈴は思い切って寝具一式まで借りることにした。 この伯父は越後・周防など大国の守 ( かみ ) を歴任し、中央政界には縁がないものの、その内証は実に豊かなのである。 屋敷の北側には大きな蔵が八つも立ち並び、その財力を如実に示していた。
魔鈴が次々と選び出した器物の山を見ると 「 ほぅ!」 と目を丸くしてなにも聞かずに中納言の屋敷に運ぶ人手を出してくれたのも有り難い。
「どうもありがとうございます、このお礼はまた改めて参ります。」
「なに、お前の役に立てて何よりだ。 またいつでも頼るがいい。」
気前がよくて何を頼んでも嫌な顔一つしないこの伯父がいなかったら、まったくどうなっていたことかと思う魔鈴である。

さて、たくさんの品々を姫君の部屋の前に運ばせると、あとは魔鈴一人の働きにかかっている。
「姫君様は、どうぞそのままでいらしてくださいませ。」
驚く姫君に一声かけてから、誰も見ていないのを幸い、袖をからげた魔鈴は古い調度を次々と脇の塗籠 ( ぬりごめ=納戸 ) に運び込み、伯父の屋敷から借りてきた漆の色も新しい几帳や文庫を配置した。 魔鈴に甘いカノンに頼み込んで、使っていない部屋の御簾まで借りてきたので、みるみるうちに古く煤けたようだった室内が美しくしつらえられ、姫君が目を丸くする。
「……まあ、魔鈴! これはいったい?!」
「わたくしの伯父のところから借りてまいりました。 これで今夜はカミュ様も、少将様に恥ずかしい思いをなさらなくともようございます。」
胸を張って言う魔鈴がいかにも嬉しげなのも当然だ。 大事な姫君が男君に逢えぬままに終わるのかとひそかに危惧していたのに、大納言家の少将という願ってもない都一の貴公子が現われたのだ。 腕を振るわずにはいられないというものではないか。
「それからカミュ様、まことに畏れ多いことですが、今宵は、わたくしの小袖と袴でよろしければどうぞお召しくださいませ。昨夜は急なことでしたけれど、もう二の姫様のお下がりで少将様にお逢わせするわけには参りません。 表着には、少将様が下された二藍をお召しになればようございます。」
聞いていた姫君の顔がぱあっと明るくなった。
「まあ、魔鈴、ほんとによく気がついてくれて……昨夜、少将様がおいでになったとき、着物の古いのが恥ずかしくてならなくて………」
姫君は恥ずかしそうに顔を伏せ、魔鈴もほんとうに気の毒に思うのだ。 女にとって、訪ねてきた男君に見苦しいなりを見られることがどれほど恥ずかしいことか想像に余りある。 灯り一つで相当に暗かったとはいえ、日頃から極上の衣のみを身につけている少将にそれがわからなかった筈はないのである。
姫君の返事をもらった魔鈴はさっそく二の姫の対の屋へ行くと無人のそこから伏籠 ( ふせご ) を持ってきた。 誰もいないとはいえ、一応は 「 お借りします 」 と声をかけて礼儀は尽くしたつもりである。
姫君の部屋の火桶に火を起こすと、せんだってアイオリアからもらってあった白檀を燻らせ、伏籠をかぶせて衣をふうわりと広げ掛けてやるのも胸をときめかせる。姫君のために、どれほどこんなことをしたかったことだろう。
「カミュ様、先日お話しいたしました白檀をlこんなときに使えますとは、なんとありがたいことでしょう。 これで今夜は少将様をゆっくりおもてなしできますわ。」
香を焚くことなど一度もなかった部屋にゆっくりと広がった白檀の香が嬉しくて、姫君も微笑まずにはいられない。 魔鈴も二の姫のところでは経験しているものの、ここで嗅ぐ雅やかな匂いはまた格別なものがある。 ずっと守ってきた大事な姫君が男君を迎えるために香を燻らせる日が来るとは正直なところ想像もしていなかったのだ。

「あの…魔鈴………ちょっと聞きたいのだけれど…」
これからのことを考えて魔鈴がうっとりとしていると、姫君がなにやら言いよどむ。
「はい、いかがなされました?」
「あの……殿方というものは、みなあのような……」
「…え?」
見ると、真っ赤になった姫君はうつむいてしまい首筋まで染めている。
「……あのようなことを……なさるのかしら………」
「あ………あの……そうでございますね………ええ、はい……そのように思います…」
むろん答える魔鈴もうつむいてしまい、とても顔など上げられるものではない。
「魔鈴は………あの……恥ずかしくない?」
「……それは、あの……恥ずかしくはございますが………そのうちに…日を重ねるごとに慣れまして……」
なんと言ったらいいものか、さすがの魔鈴もてきぱきと答えられようはずもない。 少将とアイオリアとの関係もそうなのだが、乳姉妹である姫君と魔鈴も固い絆で結ばれていて、互いを信頼することは他の比ではない。 主従関係でありながら一種の運命共同体のようなところがあり、とりわけ日の当たらない環境にあった姫君と魔鈴は、共に手を携えて暮してきたといっても過言ではないのだ。 魔鈴がアイオリアと知り合ってからは、それを知った姫君が自分のことのように喜び祝福してくれたことは魔鈴の記憶に新しい。 この主従には、秘密などあったためしがないのであった。
「昨夜はさぞかしお驚きなされましたでしょうけれど、なにごとも少将様にお任せになれば間違いはございません。 そのうちに心から馴染めるものでございます。」
「そう……そうですね。 そなたのいい人もやさしくしてくださるのでしょう?」
「あ………はい…」
やさしいだけではないときもあるけれど、基本的にはたしかにやさしいアイオリアのあれこれを思い出して魔鈴はさらに真っ赤になった。 いくら親しいといっても、身分の違う姫君にそれ以上なんの話をできるわけもなくその場はそれで終わりになった。

冬の日は早い。
じきに夕暮れになろうという頃、魔鈴は姫君の身支度を整え、あとは少将の訪れを待つだけとなる。
炭小屋から遠慮せずにもらってきた炭を火桶に赤々とおこして部屋も十分に暖めて、これも借りてきた蒔絵の燈台に灯をともしてしばらくした頃、外で忍びやかな衣擦れの音とアイオリアの咳払いが聞こえてきた。
ドキッとして急ぎ戸を開けると、すっと入ってきた少将の凛々しさ麗しさに魔鈴は圧倒された。
今宵の少将は昨夜とは違い、藤色の単 ( ひとえ ) に浅葱の直衣、差貫は紫という鮮やかさで魔鈴の目を奪う。 外からの風とともに身に帯びた沈香の香が匂いやかに流れ入り、その華やかなことは限りないのだ。
「そなたが魔鈴か? このたびは世話になる。」
涼やかな声で爽やかに笑いかけられて魔鈴はくらくらっとめまいがしたほどだ。 なんと身のこなしが鮮やかで、人並み優れた男君であることか!

   なんて素晴らしいお方なのかしら!
   二の姫様の婿君もご立派でいらっしゃると思ったけれど、まあ、とんでもない!
   少将様こそ、姫君様にふさわしい非の打ち所のない婿君だわ!

「今宵は白檀をお使いか、カミュにはふさわしい香ぞ。」
そう言いながら、几帳のうちで頬を染めている姫君に微笑む様子がいかにも楽しげである。

   まあ、もう姫君様のことを御名でお呼びになられて……!
   それほどまでに仲睦まじくおなりとは、なんと嬉しいことでしょう!

「では、わたくしはこれで。 カミュ様、おやすみなさいませ。」
心から安堵した魔鈴が深々と頭を下げて外に滑り出ると、待ち構えていたアイオリアに袖を引かれてつかまえられた。
「どうだ! うちの若君は! たいしたものだろう♪」
自慢げに言うところはさすが乳兄弟である。
「しっ、こんなところではだめよ、お邪魔になるわ。」
にこにこしているアイオリアをひっぱって急ぎ足で渡殿を通って部屋へゆく。
「ええ、少将様はほんとに素晴らしいお方だわ! うちの姫君様を見てもらえないのが残念だけど、とてもお似合いでいらっしゃるのよ!」
「姫君様がどれほどお美しいかは若君から散々聞かされたよ。 なにしろ帰りの牛車の中ではぼ〜っとなさっておられたらしく、お屋敷について声をおかけしてもなかなかお気付きあそばされなくてね。お部屋に戻られてすぐさまお文をお書きなされてからは、すぐに今夜の衣装をあれこれとお選びなさり始める有様だ。 その合間には俺に、そちにはわからぬであろうが実に素晴らしい姫だ!とくり返し仰せになる。いやはや、まったく参ったよ。」
そう言うアイオリアも嬉しくてしかたのない顔をしているのだった。
「ねえ、少しだけどお酒を用意してあるのよ、寒いからちょっと暖まったらどうかと思って♪」
「それはいい! 体が暖まったら次はお前の番だ♪」
「まぁ……」
主人達に習って、二人の影も部屋の中に消えていった。

                                         ⇒ 続く