其の拾弐  懸念 ( けねん )


アイオリアと魔鈴の気配が遠ざかっていったところで少将は几帳のうちをさし覗く。
今宵はいったいどうしたものか、昨夜とはうって変わって室内の調度も美々しければ、姫君の衣装も白と浅葱の単衣 ( ひとえ ) を重ね、少将の贈った二藍を表着にしてたいそう美しいのだ。 さぞかし魔鈴が駆け回ったことだろうと、その心づくしが思われる。
「カミュ、逢いたかった……あなたも私のことを想っていてくれた?」
うつむいて頬を赤らめているのが可愛くて、裾を除けながら傍らに座りやわらかく肩を抱き寄せると、まだそうしたことに慣れぬ姫君はびくりと身体を固くする。
「あ…」
思わず声が洩れたことを恥じらってか顔をそむけたその頬にかかる髪をそっとかきやれば、 形のいい耳まで朱に染まっていて少将の目を楽しませずにはおかないのだ。 とてもそのままにはしておけぬ気になりやさしく含んでやると、丸みを帯びた小さなふくらみがどうにも心地よい。 その頃にはのがれようとしてもそれのできぬのに困り果てた姫君の身体は早くもしっとりと汗ばんでいる。
「それとも……私のことなど、考えてもくれなかった?」
「そんな……そんなことは………少将様…」
「ミロ、と呼んで…」
濡れ濡れと濃い朱に色を変えた耳朶に誘われて、向きを変えさせ今度は唇を重ねようとすると緊張のあまり唇を固く引き結んでおののくばかりでなんともしようがないのだ。
「カミュは私のことが怖い?」
「……いいえ、ミロ様…」
今のところは口付けはあきらめることにして、袖で包むように抱き寄せて尋ねればゆるゆると首をふり小さな声が返ってくる。 香には縁のない暮らしをしていた姫君には、頬を寄せている少将の胸元から香る沈香がえもいわれぬゆかしさを思わせた。
「ただ……」
「ただ……なに?」
「あの………どうすればよいか…わからなくて………」
やっとそれだけ言うと姫君はうつむいてしまった。 やさしく問われたのをきっかけに緊張の糸が切れ、みるみるうちにふくれ上がった涙の粒がはらはらとこぼれて少将の胸を濡らす。
「泣くことはないから、カミュ………もう一人ではないから……」
胸に抱いている人の震える様がこよなくいとおしくてならず、少将は艶やかな髪に、滑らかな額に口付ける。
「全てを任せてくれればよいから……あなたはなにも心配しなくて良いのですよ。」
耳元でそっとささやき、小さく頷いたのを確かめながら襟元にすいと手を差し入れて幾重にも色を重ねた衣をすっと肩からすべらせたときだ。
「なにを……なにをなされるのです?!」

   ……え?

色を失った姫君が目をそらして問う声はこの場に不釣合いなほど固く、ここに至って少将は一つの懸念をいだくことになる。

   カミュはまだなにも知らないのでは……?
   知っているなら、黙って身を任せるものではないだろうか?

思いもしなかった予感が少将を立ちすくませた。


宮中の宿直 ( とのい ) で若い公達が集まれば、政 ( まつりごと ) や除目 ( じもく ) のことで侃々諤々 ( かんかんがくがく ) の論を戦わせた挙句、話はやがて色めいた方向になるものだ。 そんなとき少将は話に加わりもせず黙って聞いていることが多いのだが、友人達の女人遍歴の経験談はそれなりに耳学問にはなっていた。 しかし、数ある成功例・失敗例の中で、そのことについてなにも知らぬ女人の話など聞いたこともない。
だいたい、屋敷の外に出る機会の多い男は、年長者と接するうちにそれなりに覚えてゆくものであるし、 友人の中には年若いうちから方々の屋敷に出入りして女人遍歴を重ねる剛の者もいる。
それに対して屋敷の奥深くで大切にかしずかれている女君がなにも知らぬのは当然だが、普通は結婚の話が出る頃には周りの女房がそれなりに男女のことを教えておくものだと少将は解している。
姫君が二十歳の春を迎えていることを聞いていた少将としては、そのことを知っているものとして忍んできたのだが、もしかするとなにも知らない姫君を抱いているかも知れぬのだ。

   もし、そうだとしたら?
   カミュの想いとあまりにも違っていたら、傷つけることになりはしないだろうか……?

昨夜は姫君のあまりの初々しさにとても手をつけるに忍びなく、つい、衣のままでそっと抱きながら朝を迎えることになり、帰りの牛車の中で我ながら初心なことだと半ば呆れて、今夜こそと思い定めてきたのだが、万が一、なにも知らなかったとしたら、どうして魔鈴が昼間のうちに教えておかなかったのか? 予想もしない少将の訪れに、慌ててそのことについて遅まきながらも教えておくのが当然ではないのだろうか。
少将の思いもかけぬ振る舞いに困惑した姫君が曖昧な言葉でそっと魔鈴に相談し、それを、まさか衣のままで抱かれていたとは思わなかった魔鈴が詳しく問いただすことをせずに肯定してしまったことを知らぬ少将としては、どうにも不思議でならぬのである。


                                      ⇒ 続く