其の拾四  紫苑


帰邸するや、姫君への文をアイオリアにことづけた少将が楽しい夢に耽っていると、取次ぎの女房がやってきた。
「父上が? わかった、すぐに参るとお伝えせよ。」

   今夜に備えて少しばかり横になっておくつもりだったのだが、そう うまくはいかぬようだ
   まさか今上 ( きんじょう=当代の天皇 ) からの思し召しではあるまいな……

一抹の不安を覚えながら父大納言の部屋に顔を出すと、案の定、母 北の方も横にいる。
同じ屋敷に住んでいるといっても、広い寝殿造りのこととて毎日顔を合わせるとは限らない。 少将も成年を迎えて東の対屋に一人で住むようになると、一軒の家を構えたようなものでまことに自由な日を送っているのだった。
「父上、母上には本日もご機嫌麗しく…」
と言い掛けると、
「わかりきった挨拶はよい。 で、どうだ、あの話のほうはすすんでおるのか?」
参内するといかにも重々しい挙措で、さてこそ、と衆目を集める大納言だが、ひとたび帰邸して衣冠をはずし寛いでいるところは冠位を思わせぬ闊達さである。
「は……その儀なれば…」
いきなり問われ、さすがに照れて言い淀む。
「聞けば、昨夜も出掛けていたというではないか? 二晩続けてとは隅に置けぬのう、相手はいずれの姫か?」
忍びで出かけているつもりでも、やはり牛車を使うと屋敷内には筒抜けである。 おのれが当主であれば内密にもできようが、大納言に問われて口を割らぬ者などいようはずもないのである。 牛車を止めさせたあたりには公卿の屋敷も数多く、すぐには姫の存在が知れる筈もないがこうも単刀直入に言葉に出されると面映くてならぬのだ。
「あちらの御名に関わることでもあり、まだ申し上げるわけには参りませぬが、いましばらく時をいただけますれば必ずやお喜びいただけましょう。」
前回とは違い、自信を持ってそう言うと大納言はいかにもほっとしたように嘆息する。
「ならばよい、重畳じゃ。 昨日 参内のおり左大臣から耳打ちされたのが気になっておったところだ。 」
「と申されますと?」
「内大臣の孫といえばそちも大学寮で知りおろうが、主上から内々の思し召しがあり、このたび縁組が整ったというぞ、聞いておるか?」
「えっ!内大臣様の孫というと衛門佐 ( えもんのすけ ) の……たしか、まだ十七では?」
どきっとした少将は、宮中でも顔見知りの衛門佐のちょっと幼さの残る顔を思い浮かべる。
「まだ十七だが、年が明ければ十八だ。 決して早すぎはしないが、といって主上がお気に留められる年というわけではない。」
「ではなぜ?」
「あれは、内大臣がいかん! 年を取ると、人間、そのあたりの判断がどうも鈍くなるらしい。 よせばいいのに、秋の除目が終わって肩の荷が下りて気が緩んだのか、菊の宴の席の主上のお耳に入るところで、早くひ孫の顔が見たい、などと言いおった。 聞いた我らはどうなることかと思っておったが、つい一昨日、兵部卿のご息女との縁談を仄めかされて否応なしに呑まされたそうだ。」
半年前の先帝の崩御により新帝となった嵯峨帝のことゆえ、老齢期に達した内大臣の繰り言を生真面目にお聞き届けになったのに違いない。 孫可愛さに言わなくてもいいことを言った内大臣の読みが甘すぎたのだ。
「兵部卿の……はて、あちらにそのような姫がおられましたか?」
「知らぬのも無理はない、まだ小さい時分から伊勢の斎王に付き従って都を離れておられたが、この秋の斎王の交代にともない、帰洛なされたばかりだからな。」
天皇の内親王とは限らないが、皇族の未婚の姫から選ばれた斎王は二年間の精進潔斎を経たのち伊勢へ赴き、原則として天皇の崩御によりその任を解かれ、退下 ( たいげ ) して都へ戻ることが許される。
初めてこの制度を知ったときの少将の驚きは相当なものであった。

   冗談じゃないぜ!
   もしもご幼少で帝位につかれ、そのまま60年も御在世が続いたらどうなるんだ??
   一生、都に戻れないではないか! 内親王に生まれなくてよかったな!

決して大きな声では言えないが、そのころ大学寮でこの話題が出たときは、友人達と一緒になって安堵の胸を撫で下ろしたものである。
斎王の選定は占いで決まるというが、どうやら、母親の身分が低かったり、寵愛が薄かったりした姫が選ばれることが多いらしく、そのあたりにも不満が残る。 体のいい人身御供なのではないか、と少将がひそかに考えるのも当然だろう。 運よく年若いうちに帰れても、考え方の古い大人の中には、斎王を経験したら結婚すべきではない、と考える者がいることを知ったときさらに腹が立ったものだ。

   若いみそらで花の都を離れ、遠い伊勢くんだりまで行かされて、挙句の果てに、結婚するな、はないだろう?
   それが皇族の未婚の男子だったらどうしてくれるっっ!!

というのも、少将の母方の祖母は先々帝の内親王なのである。 いささかつながりは遠いとはいえ、斎王が男子だったとすれば選ばれる資格は十分なのではなかったろうか。 見知らぬ姫の不運に同情しながら、おのれが男であることにほっとしたのも事実なのである。
「しかし、必ずしもその姫がよろしくないとも思えませぬ。 むろん、わたくしは自分で姫を探す気でおりましたが、畏れ多くも主上のお声掛かりであれば、のちのちも悪いようにはなりますまい。」
「そちは知らんのだ。 むろん、兵部卿の姫も才色兼備で親の後ろ盾もたいしたものだが、おん年二十五、年が明ければ二十六になられる。」
「………え?」
「伊勢で斎王にお仕えしているうちに妙齢といわれる年を過ぎられたのだ、いたし方あるまい。 親の兵部卿が心中嘆かれて密かに主上に泣きつかれたと聞いておる。」
「そ、そうでしたか……」

   十八と二十六って………兵部卿の姫には悪いが、俺はそういう縁組はお断わりだ!
   やはり……こう…なんだな…………
   カミュのように可愛くていとしくて手の中に包んでいつくしみたいような気持ちにさせてくれる愛らしい姫が最高で…♪
   昨夜もじつによかったな………俺がカミュにそっと……

「ミロ、なにを笑っておる?」
「は……」
つい、昨夜のあれこれを思い出してにんまりしていたところを見咎められて赤面すると、黙って横に控えていた北の方がなにを察したものか忍び笑いをしている。
「ともかく、今日は参内したら直ちに御前に参じ、もはや決まった姫がおるよし申し上げてくる。 こちらから先に内奏申し上げればご無理を通されるようなことはなさらぬゆえ、そちは安心するがよい。」
「かたじけのうございます。」
ほっとして頭を下げると、ちょっと身を乗り出した大納言が扇の陰で囁いてきた。
「で、もう ものにしたのであろうな? 首尾はいかに?」
「は…」
思わぬ問いかけに真っ赤になった少将がそのまま固まっていると、
「紫苑 ( シオン ) 様っ!」
北の方になじられた大納言が首をすくめた。

                                       ⇒ 続く