其の拾五  驟雨 ( しゅうう )


参内する大納言を見送ったあと、少将は姫君に約束した絵巻物のことを北の方に頼んでみることにした。 周りに侍っている女房たちが気になるが、これはいつものことでいたしかたない。
「母君のお手元の絵巻物を幾つかお借りしたいのですが。 それから源氏物語もありましたら。」
「絵巻物と源氏を? それは、ご自分がご覧になるのではないのでしょう?」
ほほ、とうち笑まれて少将は思わず顔が赤くなる。
「は……それは、その…」
口ごもっていると、
「あちらの姫君にお見せになるのですね。 これは楽しみなこと♪ 源氏はわたくしの手元に、櫃に入りながら五十四帖ありまする。 絵巻物も、さっそくよいのを選んでみましょう。」
いそいそと女房たちに絵巻物を取り出させてあれこれと選び始める様子がまことに楽しそうで、とりどりにこれはと思う絵巻物を選んで膝元で広げる女房たちも笑いさざめくのだ。
「北の方さま、これがようございましょう! 山も川も木の花も、たいそう見事でございます。」
「いえ、それよりもこちらの男君をご覧あそばしませ、ひときわすぐれてうるわしゅうございます。」
「あら、その男君よりも若君様の方が!」
「若君様のお選びになった姫君様にお目にかけるのですから、ことに清らなものをお探し申し上げませんと。」
「どんなにおきれいな姫君様でしょう♪ 早くお目にかからせていただきたいと存じます!」
女房たちの後ろから首を伸ばして見ていた少将の方に一同の視線が集まり、どきっとして真っ赤になると、さらに明るい笑いが広がり、絵巻物の選定を北の方に任せることにした少将は、ほうほうの体でその場を逃げ出した。

さて、東の対の屋に戻った少将は少しばかり横になることにした。 さすがに二晩続けて寝ていないので、今宵に備えておきたかったのである。 夕刻からは内大臣の六条邸での管弦の宴に呼ばれているのだが、物忌みと称してすでに断りを入れてある。 少将の琵琶は、昨秋の萩の宴で先帝より 「 艶 ( えん ) なり 」 との賛辞を賜わったほどの腕前で、奏楽のおりにはあちらこちらからお呼びがかかる。 このごろでは、それにかこつけてその屋敷の姫のことを仄めかされることが度重なり、少将としてもいささか辟易しているのだった。

   琵琶は好きだが、呼ばれた先で、いちいちその屋敷の姫の噂を聞かされるのではたまったものではない!
   先日、琵琶の弾き手に欠員が出たとのことで、権大納言の屋敷に行った折には、
   二の姫が筝の琴、三の姫がやはり琵琶をよくするという触れ込みで、突然に合奏をさせられる羽目になったが、
   几帳からこぼれる出だし衣 ( いだしぎぬ ) が派手派手しくこれ見よがしで、どうにも奥床しさに欠けるし、
   肝心の腕の方もいま一つだったではないか!
   それでも、 「 お見事なお手に感服いたしました 」 などと言わねばならぬのだから、面白くないことおびただしい!
  
   はて? そういえば、カミュはなにか奏することができようか?
   手習いや歌詠みなどは見事なものだが、あの北の方のことだ、
   そのほかのことにどのくらい手をかけてもらえたか、わかったものではないな……
   今夜逢ったら、そのあたりも訊いてみよう なにか合奏できたらどんなに楽しいことだろう♪

眠るつもりで横になっていても、しばらくは姫のことばかり考えてしまい、なかなか寝付けたものではないのだ。 今夜逢ったら、ああもしよう、こうもしよう、と思うとさすがに興奮してしまうのも無理はない。 長い間捜し求めていた理想の姫にやっとめぐり逢えたかと思うと嬉しくてならないのである。
それでもとろとろとまどろみ、気がつくとあたりはすでに暗くなっている。 思いのほか寝過ごしたかと驚き、がばと跳ね起きたところにアイオリアが急ぎ足でやってきた。
「若君、お目覚めにございますか。」
「うむ、思わず長寝をしたらしい。 はや、夕暮れか。」
「いいえ、まだ昼過ぎにございますが、雲行きが怪しゅうございます。」
「なに! 雨になると申すか?」
眉を寄せ、ずんずんと廂の間に出てみると、なるほど、今にも雨の落ちてきそうなほどに灰色の雲が重く垂れ込めている。

   ……これはいかぬ!

そう思ったとたんにばらばらっと音がして、大粒の雨が落ちて来た。 屋敷のあちこちで人声がし、大急ぎで蔀戸をばたんばたんと閉めている音がする。 少将のいる東の対の屋でも、何人もの使用人が駆け回ってあちこちを閉めてあるいたので室内は当然暗くなった。 急ぎ 灯りをつけにきた女房に 「雨の様子を見たいから 」 と、少し妻戸を開けさせて隙間から外を眺めると、庭を打つ雨足も真白に太く筋を引き、早くもそこここに大きな水溜りができようとしているのだ。 風もないのに細かい水煙が戸の隙間を通ってくるほどの激しさなのである。
「この降りでは出ることもままならぬ。 夜までには止むであろうか?」
「さて……しかし、まだ早うございます。 小止みになりましたら、牛車の用意を申し付けましょう。」
風はないのだが、冬だというのにこれほど降るのも珍しい。 ともかくいったん戸を閉めて中に入り、アイオリアと四方山話をして過ごすことにする。

「ときに、中納言の北の方はお幾つになられるのだ?」
「まだお若いように聞いております。 おいでになってすぐにお生みになられた二の姫様が十七ですから、まだ四十前ではありますまいか。 」
「たしか、二の姫の下に一の君もいたな。」
「はい、一の君の貴鬼様はおん年八つになられ、一の姫様にもよくなついておいでになります。」
「ほぅ!」
始めて聞く話に少将は耳をそばだてる。
「すると、姫の部屋にもたびたび参るのか?」
「いえ、それは北の方が禁じておいでになるようですが、そこは子供のことですから、北の方の目を盗んで時々はおいでになることもあるようです。 時々は姫君が一の君様の部屋へおいでになり、笛をお教えになられるそうです。」
「なに!姫は笛の妙手か?」
「なんでも、御母君の内親王様から伝えられた名笛をお持ちで、それを知った北の方様がぜひ一の君様に習わせたいと仰せになられたよしにございます。 魔鈴などは、それにかこつけて、いつかあの笛も取り上げておしまいになるのではないかと心配しております。」
「……北の方とは、そのようなことまでする性格か?」
「主家のことですから魔鈴はかなり控え目に云っているように思われます。 こう申してはなんですが、姫君様はあの屋敷で下級女房よりひどい御扱いを受けておいでになります。」
雨音がいっそう高くなり、沈黙が下りた。 いつのまにか短くなった灯心が、じじ…と音を立てる。 しばらくして少将が顔を上げた。
「この雨はとても止みそうにない。 牛車を出そうにも、牛飼いの童や供の者の難渋も気にかかることだ。 第一、これほど降れば、道がぬかるんで車が進めぬかもしれぬ。 どんなにか待っているであろうに、行かぬというのも心苦しくてならぬが、そちはどうする?」
「わたくしは参ります。 雨の外出 ( そとで ) も慣れておりますゆえ、苦ではございませぬ。 魔鈴も気にかけて待っておりましょうし、せめてわたくしが参りまして言い訳をいたさねばなりませぬ。」
「さようか、では、俺も行こう!雨のことなど気にしてはおられぬ!」
「しかし、若君! わたくしは徒跣 ( かちはだし ) で参りますが、若君はそうは参りますまい!」
「かまうことはない、何を履いてもどうせ濡れるのだ。 それに、今宵は三日目だ、雨どころか槍が降っても行かねばならぬ!」
「あ……さようでございましたな! では、二人して大傘をさしてまいりましょう、なあに、濡れましたらあちらで乾かしてもらえばよろしいのです。」
「ずいぶんと慣れた口ぶりだが、雨の夜も幾度も通ったか?」
「は…その儀は……どうせ脱ぎますので、濡れていても乾いていても同じことです。」
すらっと言ってのけてから、目の前の少将を絶句させたのに気付いたアイオリアが、言い過ぎたと思ったのだろう。
「あ……では、傘の用意をしてまいりましょう!」
口早に言って部屋を出て行った。

   いくら濡れたからといっても、まだ全部脱ぐわけにはいかぬ…!
   それほどに機は熟してはおらぬからな
   なにか着るものを貸してもらうことにしようか

ひとたび行くと決めると、心が楽になる。
いっそう強くなった雨音を聞きながら、少将の胸は雨夜の逢瀬に高鳴るのだ。


                                    ⇒ 続く