其の拾六  雨中


星明りさえ望めぬ雨の宵には、あたりが夕闇に包まれ始めるころに出てゆかぬと、一寸先も見えぬ闇の中で立往生する破目になる。 中納言家に着く頃には夜になるよう、時間を見計らってそっと出てゆくのだが、なにしろこの雨である。
「若君、お寒うはございましょうが、やむを得ませぬ。 さ、この温石 ( おんじゃく ) を懐にお入れください。 急げば、冷めるまでには中納言家に着きましょう。」
そう言われて手渡された温石は手のひらほどの大きさで、柔らかい布に包まれ、ほかほかと暖かい。 うむ、と頷いて懐にねじ込むと、それぞれに大傘を差し、ざんざんと降る雨の中を歩き出した。 子供の頃はいざ知らず、物心ついてからは、はだしで地面を歩いたことのない少将である。 ましてや、この雨のぬかるみは歩きにくいことこの上ない。 およそ土に触れたことのない柔らかい足裏に小石が当たって痛いというのも珍しい経験である。 指貫 ( さしぬき=はかま ) は膝の下までまくり上げ紐できつく結んであるのだが、傘に当たる雨の音も凄まじく、いくら気をつけて歩いていても早くも腰の辺りまで湿ってきたようだ。
「これは凄い! こんな夜に出かけたことがあるのか?」
「いえ、ここまでの降りは初めてでございます。」
問う声も答える声も、どうどうという雨音に消されがちで、聞き取りにくいことおびただしいのだ。

「次の角を曲がりましたら、あとはまっすぐでございます。」
頷いて角を右に曲がったとき、雨の音を通してぎいぎいと車の軋む音がして、どうやら向こうから牛車がやってくるようなのだ。 供の者はずぶ濡れで、ぬかるみのため、ただでさえ遅い牛の歩みはまるで蝸牛 ( かたつむり ) のようである。
「こんな晩に……まさか、物の怪ではあるまいな?!」
「まことの物の怪であれば、この雨に難渋するようなことはありますまい。 すべるが如くにするすると進んでくるのではありますまいか。 人も牛も歩みが遅く、ぬかるみに足を取られていることろを見ると、まことの牛車でありましょう。」
なるほどと思った少将が雨を透かして目を凝らすと、車の左右に随人 ( ずいじん=警護の者 ) がついている。
「これはまずい! どこぞの公卿の忍び歩きかも知れぬ。」
「若君、この塀に身を寄せてやり過ごしたほうがよろしゅうございます。」
道の両側はどちらも長く延びた築地塀で、隠れるところなどありはしない。 しかたなく傘を傾けて牛車の通り過ぎるのをじっと待っていると、目の前で立ち止まった随人 が、
「こんな時刻に怪しげな奴輩 ( やつばら ) だ! 盗っ人ではあるまいか!」
大声で呼ばわるのに驚いたアイオリアが、
「滅相もない! これは主家の使いに行く者でございます!」
少将を背中でかばいながら慌てて抗弁したところを、
「わかるものか!」
どんと胸を突かれたアイオリアが後ろにいた少将にぶつかり、二人して泥の中に突き倒された。
「おいおい、無茶をするな! 見れば夜目にも白い臑脛 ( すねはぎ ) ではないか、こんな生っ白い足の奴は盗賊ではあるまいぞ。 きっとどこぞの下人が女のところにでも行くのであろうよ!」
「どけどけ!こちらは少納言様の御車ぞ!」
「下郎にかまうな!この雨ではたまらぬ、先を急ぐがよい!」
供の下人がげらげらと笑いながら、差していた傘が転がって道を塞いでいたのを足で蹴って脇に寄せると、牛車はまたのろのろと進みだした。

「若君っ、大事ございませぬか?!」
ざんざんと降る雨の中、泥中に倒れた少将の手を引いて助けおこすと、濡れるだけのはずだった衣装が散々のていたらくである。
「少納言風情にひどい目に遭った! こんな格好ではとても姫には逢えぬ! なんとしたものか!」
「いえいえ、こんな雨の中を苦労して参るのでございます。 若君のおこころざしをどんなにかお喜びなされましょう!」
曲がった烏帽子を直し、傘を拾い上げてみると、一つは破れてもう使い物にはならぬのだ。 残った傘を少将に差しかけて、後は走るようにして中納言家に辿り着いたのだった。

「魔鈴、魔鈴! 今、若君が参られた! 着替えを頼みたい!」
勝手知ったる邸内を急ぎ足で進み、魔鈴の部屋の外から呼びかける頃には、温石も冷め果てて身体がすっかり冷え切っている。
「まあ! これは少将様! この雨の中を……ああ、そんなにお濡れあそばして……! 早くこちらへ!!」
驚いた魔鈴が二人を招じ入れ、あとは二人して濡れた着物を衝立の陰で脱いでいる間に、魔鈴は火桶に炭をどんどん足して火をおこす。 表面の灰が見えなくなるほどたくさんの炭に赤々と火がおこると、さすがに部屋の中は暖かみが増してきた。
屋敷のどこからか かき集めてきた布を衝立の陰にいるアイオリアに手渡すと、二人が身体を拭いているうちに、今度は着物を幾枚も持ってきた。
「粗衣ではございますが、とりあえずこれをお召しくださいませ! ただ今 御酒をお持ちいたしますから、どうぞ火桶の側においでになりお暖まりくださいますように!」
魔鈴が再び出て行った後、かじかんだ手を火桶にかざす少将の烏帽子を取って髪を整えていたアイオリアが、こらえきれずにひとつくしゃみをする。
「そちにもひどく苦労をかけた。 風邪をひかぬとよいのだが。」
「わたくしはこのようなことには慣れておりまする。 それよりも若君こそ、真冬にここまで濡れそぼられて、まことに申し訳ないことにございます。」
「なに、恋に冒険はつきものだ。 それにしても少納言め! 内裏では愛想笑いを振りまいている浅薄  ( せんぱく ) な奴に、とんだ目に遭わされたことよ!」
少納言といえば太政官の従五位上で、正五位下の近衛少将よりも官位が低く、ましてや父大納言の正三位とは雲泥の開きがあるのだ。 恋に官位は無関係とはいえ、そんな軽位の者に泥中に転がされた少将としては面白くないことこの上ないのだった。
「色男には障害はつきものと申します。 これで若君も、立派な濡れ場の先達者になられたというわけですな♪」
「なにを馬鹿なことを…! 濡れ場は、そちの方が場数を踏んでおろうに♪」
「いえいえ、若君もこれからでございます。」

主従でからかいあっているのも賑々しくて、どうやらここに来るまでの苦労は吹き飛んだものとみえる。
幸い、烏帽子をかぶっていたおかげで、髪はそれほど濡れてはいない。 魔鈴が手回しよく用意しておいた新しい元結で髷を直して烏帽子をかぶったところへ魔鈴が熱くした酒を捧げて戻って来た。
「ああ、これは良い! 生き返った心地がするではないか!」
「まことにまことに! 魔鈴の気働きには助かる!」
盃を空けながら途中でひどい目に逢った話をすると、さすがに魔鈴が蒼ざめた。
「まあ、そのような恐ろしい目に……!」
「これもみな、姫君様にお逢いになりたいという若君の真心の表われだ。 どうだ、この君こそ三国一の婿君であろう!」
「三国一にしては妙に濡れ鼠だったが、そこは姫君には勘弁していただかねばならぬ。」
「濡れにぞ濡れし 色は変わらず、と申します。 若君のお気持ちは変わるものではございません。」
顔を見合わせて笑い合ったあと、待ち焦がれているであろう姫のもとへ案内してもらう運びとなった。 上気した魔鈴がいそいそと手燭の用意をしている隙に、少将がアイオリアに耳打ちをする。
「今宵はそちにも苦労をかけた。 このあとは、 心ゆくまで暖めてもらうが良いぞ。」
「わたくしのことより、若君こそ。 さぞかし、おまちかねでありましょう。」
忍び笑いを抑えかねているアイオリアに見送られ、やや頬を赤らめた少将は魔鈴に先導されて姫の部屋へと向っていった。


                                   ⇒ 続く