其の拾七 祝餅
雨は激しく降り続き、通り過ぎる渡殿の匂欄 ( こうらん ) もすっかり濡れて、簀子縁
( すのこえん ) の中ほどまでも湿っている有様である。 なるべく乾いたところを選んで歩きながら姫君の部屋に入ると、雨の音のあまりの大きさに人のやってくる気配がわからなかったものとみえ、姫君は几帳の向こうで脇息に寄りかかり、じっと物思いに耽っているらしい。
丈長い黒髪が艶々と美しく、少将の目を惹き付ける。
「姫君様、少将様のお越しでございますよ。」
嬉しさを隠せぬ魔鈴の声にはっと顔を上げた姫の頬が見る見る赤くなり、なにか言おうとするのだが恥じらって声も出ない。
「急な雨でこちらに参るのが遅くなり、姫には心配をかけたろうか。 無事にお逢いできてこれほど嬉しいことはない。」
まずは、と几帳を隔てて座ると、
「この雨ではおいでになれないかもしれないとご心配なさるので、必ずおいであそばします、若君様が姫君をお忘れになるはずはありません、とお慰め申しあげていたのですよ。」
魔鈴が嬉しそうに言い、
「もう一度、参ります。」
と言い残して出て行った。
二人だけになってしまうと、赤い顔をしてうつむいてしまうばかりの姫君を扱いかねて、少将もいささか面映いのだ。 側に寄って肩など抱いてしまえば一足飛びに馴染めるものを、魔鈴が戻ってくると言ったばかりに、几帳の向こうに行くわけにもいかず、手持ち無沙汰でなんともしようがない。
「私が来ないのではないかと、心配を……?」
「ええ……あの………このような雨の日には、牛車を出せぬと思っておりましたゆえ…」
「牛車ではありませぬ、徒 ( かち ) で参りました。」
「えっ……少将様の…いえ、ミロ様のご身分でそのようなことを…!」
言葉をなくした姫が大きく目を見開き、やっと少将の借り着に気付いたのか、あっと息を呑んだようである。
「おかげで雨に濡れて身体が冷えました。 今宵一夜は、姫のもとで暖めていただけましょうや?」
笑みを含んで言い掛けて姫をさらに恥じらわせて楽しんでいるところへ、魔鈴が高杯
( たかつき ) を捧げて戻って来た。
「少将様、姫君様、こちらを召しませ。」
几帳の前に据えられた高杯には紅白の丸餅が盛られていて、いかにも愛らしい。
「これは……あ!………これが、あの!」
「はい、三日夜 ( みかよ ) の餅にございます。」
三日夜の餅といえば、結婚の三日目の夜に新郎新婦が食べる祝いの餅で、話に聞いてはいたが、少将も見るのは初めてなのである。
こんなものまで用意して自分を待っていてくれたのかと思うと、豪雨を押してやってきてよかった、と胸を撫で下ろす少将なのだ。
もし来なければ、どんなに淋しい思いをさせたかと思うと、安堵の想いが心を満たす。
「さて、これは幾つ食べれば良いのだ?」
「女君は三つ、殿方はお幾つでもよろしゅうございます。」
「では、私も三ついただこう。 カミュは紅いのがよろしかろう、私は白を。」
魔鈴が几帳の裾を持ち上げたところで姫がそっと手を伸ばし紅い餅を一つつまむ。
お互い二つずつ食べて姫が三つ目の餅を手にしたとき、
「そうだ! 三つ目は色を取り替えよう! その紅いのは私がいただくゆえ、カミュはこの白いのをお食べになるとよい。」
すっと几帳のそばに寄った少将が姫の手から紅い餅を取り、代わりに白い餅を載せる。先に
紅い餅を食べてにこと微笑むと、恥じらいつつ白い餅を口にした姫がぽっと頬を染めた。
三日夜の餅を取り交わすなどとは魔鈴の考えもしなかったことで、少将と姫君の固い契りを目の当たりに見た思いの魔鈴である。
まあ………なんと仲睦まじくていらっしゃるのでしょう!
少将様もおやさしくて、ほんとにお似合いのお二人でいらっしゃること
新婚の二人の甘い様子に当てられた魔鈴が頬を紅潮させながら火桶に炭を足し、高杯を持って下がろうとすると、少将が声を掛けた。
「 中納言家の人々が帰邸するのは明日の夕方と聞いている。 今宵は三日目ゆえ、朝はゆっくりとしていたい。
そのように計らってもらおうか。」
一晩目、二晩目は人目に付かぬ夜明け前に帰らなければならないが、三日目ともなれば正式に結婚したとみなされるので慌てて帰ることもない。
そんなこともあろうかと、すでに朝餉の用意も整えてある魔鈴である。 めでたく姫の結婚が成立したことを思うと、そう言ってくれる少将の気持ちが嬉しくてならないのだ。
「では、カミュ様、明朝また参ります。」
すべてを心得た魔鈴が下がっていった。
「そちらに行ってもよろしいか?」
雨の音だけが聞こえていた部屋に少将の声が響く。
「……あ……はい…」
とても顔を上げられなくてうつむくばかりの姫君が気付いたときには、もう少将にそろりと肩を抱かれているのだ。
「あ…」
「逢いたかった…」
唇を重ねられて身を固くしたとき、姫は少将の身体から香の匂いがしないのに気がついた。
きっと……雨にお濡れになったから……
それに着物もご自分のものではなくて………
そんなに日に わたくしに逢いにきてくださったのだわ
「ミロ様……どんなにか、お寒くていらっしゃいましたでしょう………こんなにお手が冷えて…」
肩にかけられた手にそっと指先で触れると、すぐにその手は少将にとらえられている。
柔らかく押し当てられた唇も、今 気がつけば、やはり少し冷たいのだった。
「私のことを気にかけてくれる…? それなら…」
あっ……
ふわりと抱き上げられて奥の御帳台に運ばれるのを感じた姫が思わず目を閉じてひしとしがみつく。
幾重もの衣に包まれていても姫のなよやかな身体が震えているのがわかり、いとおしさに片時も手放したくないと思う少将なのだ。
「お逢いしたい一心でここまで参りましたが、冬の雨は身に滲みました。 姫に暖めていただけたら、どれほど嬉しいことかしれはせぬ……お願いできようか?」
「…え? ……あのぅ…」
そっと褥に抱き下ろした少将が隣に寄り添い、なよやかな白い単衣を残してすっと肩から衣の重ねを脱ぎ落とさせる。
それをそのまま掛け物にして横たえてゆくと、少将の腕の中で小さな喘ぎが洩らされた。
「こうしていると、身も心も暖まる。 カミュは私の身体が冷たくていやかな?」
魔鈴の部屋でかなり暖まってはきたのだが、そっと唇を押し当てた姫の暖かさに比べればまだまだ冷たいのに違いない。
「いいえ………こんなに冷たくていらして、おいたわしくて……少しでもわたくしが暖めて差し上げられたら、こんなに嬉しいことはありませぬ。」
ささやくように言った姫がおずおずと少将の肩に頬を寄せ、その仕草が少将の胸を躍らせる。
それは三日目にして初めて見せた、姫の心の現われではなかったか。
「カミュ………あなたはほんとうにやさしくて……凍えた手足もこの胸も、春の日の暖かさにあったような気がする。」
「ミロ様……」
その夜の少将がどこまでカミュをいつくしむつもりであったのかはよくわからぬのだが、姫と心を通わせたわりには、そちらのほうはあまりうまくいったとはいえなかったろう。
なにしろ、ほんの少し触れただけでも 「 あっ…」 と声を上げて身を引かれてしまうのだ。 そのたびにドキドキした少将もつい手をとめてしまう破目になり、
「姫は……こうしたことはおいやだろうか?」
「…え………あの…」
これを繰り返すばかりで、そのたびにうつむいて頬を染めてしまい困り果てているさまを見ては、少将もひそかに溜め息をつくしかなかったのだ。
なかなか思うようにはいかぬものだが、この初々しさもなんと可愛いことだろう!
ゆっくりと気持ちを通わせているうちに……そのうちきっと……
凍えていたはずの身体もすでに暖かく、姫を抱きしめるのになんの遠慮も要りはせぬ。
そめそめとやさしいことどもをささやきながら包みこむようにしていると、時折り洩らされる甘い喘ぎがなんともいえず愛らしいのだ。
雨の音の聞こえなくなった頃には、寄り添う二人の寝息も一つに重なっていった。
⇒ 続く