其の拾九 継母
魔鈴の整えた心尽くしの朝餉を終えて、大納言邸に牛車を呼びにいったアイオリアが戻ってくるのをゆっくりと待っていたときだ。
ふいに表門のあたりがざわめき、牛車の軋みや馬のいななきまでもが聞こえてきた。
はっとした魔鈴が立ち上がり、様子を見に行ったかと思うと息せき切って駆け戻ってきたではないか。
「たいへんでございます! こちらのお屋敷の皆様方がお戻りになられました。
夕方頃にお戻りのはずでしたのに、いったいどうしたことでしょう!」
それを聞いた姫は気も動転して口も聞けぬ有様である。
「案ずることはない。 このままここにいて、暗くなってからそっと忍び出ればよいのだ。」
安心させるように微笑みながら手を握ってやると、
「でも、恐ろしゅうございます。 もし、お母さまに見つかりでもしたら……」
ぶるぶると震えて蒼ざめているのがいじらしくて、少将は几帳があるのを幸い、やさしく抱きしめる。
「大丈夫、この中にまでは入っては来られないでしょう。 心配することはないのですよ。おかげで姫と一緒にいられるというものです。」
そんなことを言ってさまざまに慰めていると、廊下の向こうから大きな声で呼ぶ声がする。
「魔鈴、魔鈴! いったいどこにいるのだい? 出迎えもせず、まさか遊んでいたのじゃないだろうね!」
大慌てで膳を下げに行っていた魔鈴が駆けつけて、北の方に挨拶をしている声が几帳の陰で息をひそめている二人に聞こえてくるのだ。
「とんでもございません、北の方様。 このようにお帰りがお早いとは思いもいたしませんでした。」
「女房の一人が具合を悪くしたので、早立ちをしてきたのだよ。 みんな疲れているのだから、向こうに行って急いで手伝ってやっておくれ!
今日は早く休むことにするからね。」
陰で聞いている少将には、早口でつんけんした北の方の口調は、どうにも品がないように思われる。
ふうむ………これが中納言の北の方か!
人前ではまさかこうではあるまいが、もう少し何とかならないものか………
いずれ姫と結婚するつもりの少将にしてみれば、こんな北の方でも一応は義理の母になるのである。 これで美人でなければ救われないな、などと考えている間も、姫の方は近場で北の方の声を聞かされて気が気ではないらしい。
引き寄せて頬に口付けてから、無言でいろいろとやさしくしてやると少将にすっかり頼り切ってすがり付いているのがなんとも可愛らしいのだ。
魔鈴と北の方が行ってしまったので二人でひそひそと話をしていると、突然大きく呼ばわる声が聞こえて二人をどきっとさせた。
「落窪、落窪! 頼んでおいた縫い物は、できているのかい?!」
母屋のほうからずんずんと近付いてくるその気配に、抱かれていた姫が 「 あっ
」 と小さく叫んで少将の胸に顔を伏せた。
「また北の方の声のようだ。 それにしても、落窪って、おかしな名前だな? いったい誰を呼んでいるのだろう?」
少将が呟いたとき、なんと北の方の足音がこの部屋の前で止まり、戸が勢いよく開けられた。
姫が全身を固くする。
「落窪、そこにいるんだろう? お高くとまっていないで、出ておいで! 」
とげとげしい口調で呼ばれた姫が、今はどうしようもなくて少将の手を振りほどき、真っ赤な顔をして几帳の向こうに出て行ったときになって初めて、少将は姫の呼び名が落窪であることを知ったのだ。
………あれは姫のことだったのか!
知らぬこととはいえ、可哀そうなことを云ってしまったものだ……
この部屋に由来しているのだろうが、それにしてもひどすぎる!
憤懣やるかたない少将だが、今は黙って聞いているほかないのである。
「なんだい?まだできていないのかい?」
「あともう少しですわ、お母さま。 ちょっと風邪を引きましたので……」
「そういえば赤い顔をしているね。 お前が具合を悪くしたら縫い物ができなくて困るのだからね、気をつけなけりゃだめじゃないか!」
「はい、お母さま。」
几帳の陰に潜んでいる少将は、面白くないことおびただしい。
なんという物言いだ! それでも親か!
姫のことを使用人だと思っているのではないのか?
気にいらぬっっ!
よく見るとかなりの美人だが、この口の聞き方や性格はまったくいただけない。
噂では、中納言は人柄がいいと聞いてはいるが、それだけにこの北の方に丸め込まれているのだろうと思われた。
「それに、この部屋はなんだい? 妙に新しい道具や几帳があるじゃないか! どういうわけなの!」
不愉快そうにあたりを見回した北の方がずんずんと近付いてきて几帳の端を引っ張ったのには少将もはっとしたが、それよりも魂を消し飛ばせたのは姫のほうである。 このときほど、昨夜の大雨のせいで少将が香を焚き込めていないことをよかったと思ったことはない。
「あまり古いのは使いにくいということで、魔鈴が親類のところから借りてきてくれたのです。」
あわてて取り繕った姫君は、北の方の抱えているたくさんの練絹に話題を変えることにした。
「お母さま、その布帛 (ふはく=きれ ) は?」
「ああ、これをお前に縫ってもらわなきゃいけない。 今度の白馬の節会 ( あおうまのせちえ
)にデスマスク様が大事なお役目を受け持つことに決まったのでね、ほかの縫物は後回しにして、すぐにこれを縫っておくれ!」
「はい、さっそくかかりますわ。」
早く話を終わらせようと、姫は北の方から色とりどりの布帛を受け取るとさっそく広げ始めた。
「あとで手伝いに小侍従を寄越すから、急いで縫うんだよ。 早くできたら、ご褒美に綿入れをあげよう。」
「まあ、ありがとうございます。」
やっと北の方が出て行ってくれそうな様子と暖かい綿入れを貰える喜びに姫は ほっとする。
この冬は寒さがことのほか厳しくて、日の当たらぬこの部屋はひどく冷え込むのだった。
「それじゃ、急いでおくれよ。」
やっと出て行く様子に少将と姫が安堵の胸を撫で下ろしていると、北の方が戸口で振り向いた。
「そうそう、お前のところにいい鏡筥 ( かがみばこ ) があったわね。 あれを使いたいので、ちょっと貸しておくれ。」
「はい、そこの唐櫃 ( からびつ ) にございます、どうぞお持ちくださいませ。」
一刻も早く帰ってほしい姫がそう言ったところへ魔鈴が戻って来た。
「あら………その鏡筥をお持ちになるのでございますか。 こちら様でも鏡を入れる筥がないと困りますがいかがいたしましょう?」
「それはあとで代わりのものを届けさせよう。」
「さようでございますか。」
素晴らしい蒔絵の筥を抱えて得々とした北の方がやっと出て行き、姫は溜め息をついた。
「まあ、姫君様! あの鏡筥は、たった一つ残った母君様の御遺愛のお品でしたのに!
魔鈴は口惜しゅうございます!これで全部持っていかれてしまったではありませんか!」
あまりのことに涙を浮かべて嘆く魔鈴を姫が慰める。
「でも、ああでもしなければお母さまはお帰りになってはくださらないし……」
そこへ、几帳の陰から出てきた少将が呆れ顔で言う。
「なんだ、あれは! あれでも中納言家の北の方か!女の風上にも置けんっ!」
なにしろ育ちの良い少将のことゆえ、今まで身の回りにはいなかった種類の女の出現に唖然とするしかないのである。
「いえ、あの、お母さまもそんなに悪い方ではなくて……ただちょっと、美しいものがお好きなだけで…」
北の方の悪いところをあからさまに見られてしまい、すっかり困ってしまった姫がうつむいてしまうと、今度は少将が慰めにかかる。
「そのうちに、盗られたものは全部取り返してみせる。 心配することはない。」
今にも抱きしめそうな気配に魔鈴がもじもじしていると女房の一人がやってきて呼びかける。中が見えないように戸口で応対していた魔鈴がすぐに戻って来た。
「北の方様から、代わりの鏡筥が届きました。」
置かれたそれをみると、もとは黒かったらしい飴色の、その塗りさえも剥げかけた見る影もない代物である。
「これは驚いた! いったいどこからこんなものを探してきたのだろう? 北の方は、たいそう物持ちがよいとみえる。」
怒る気力も消え失せた少将が失笑し、姫と魔鈴もそれにつられて笑ってしまうのだ。
「とても時代がかったよいお品をいただきました、とお礼を言っておくれ。」
姫が魔鈴に言って、一同はまた笑い崩れたのだった。
⇒ 続く