其の弐拾  縫物


やがて魔鈴が申し訳なさそうにして母屋の手伝いに行ってしまい、部屋の中は少将と姫の二人きりになった。
少将がこの屋敷を忍び出るには夜を待たねばならず、それまではここで息をひそめていなければならぬのだが、おろおろとしている姫に比べて少将は平気なものだ。
「心配は要らぬ。もう北の方も来ないだろうし、冬のこととて暗くなるのも、もうじきだ。石山寺から帰ってきたのだから、この屋敷の人々が寝入るのも早いに違いないのだ。 それまでは、ここでカミュとゆっくりしていられるのだから……」
あの北の方に比べて、姫はなんと可愛いのだろうと思うと、少将は嬉しくてたまらない。心配そうに頬に当てているその手を引いて胸に抱き寄せてやると、
「まあ、いけませんわ、じきに小侍従が参りますのに…」
「でも、まだ来てはおらぬ…」
困り果てた姫が小声で訴えるのを軽く聞き流して、甘くやさしく口付けてゆく。
「おわかりか、カミュ………私は…こんなに……あなたのことがいとしくてならぬ…」
「あ……ミロ様……ミロ様…………そんなこと…」
真っ赤になった姫がのがれようとしても、そんなことを許す少将ではない。 それでも髪の乱れるのを案じて横にすることはしないのだが、抱きすくめて白い首筋に唇をおとしてゆくと、まだそうしたことに慣れぬ姫は頭をのけぞらせて緊張のあまり息をとめてしまうのだ。
「これは困った。もう、しないから……ほら、大丈夫だから息をして…」
ようやくそれに気付いた少将が苦笑いしながら離してやると、真っ赤な顔をしていかにもほっとしたように大きく息をつくのがたとえようもなく可愛いのだった。

そうこうするうちに小侍従がやってきた。
「カミュ様、小侍従でございます。」
戸を開けようとする気配に、
「お願いですから、ここでお静かになさっていてくださいまし。」
少将の耳元でささやいた姫が几帳の陰からにじり出ていって、少将が一人残された。
どれどれ、と几帳の隙間から覗き見してみると、せんだって見かけた若い女房が山のような練絹を広げながら縫い物を始める様子である。 北の方の云っていた 「 白馬の節会 ( あおうまのせちえ )」 とは、正月七日に紫宸殿で行なわれる行事で、少将と父大納言も参列するのだが、どうやら二の姫の婿のデスマスクも近衛武官として参列することになったらしく、そんなことも北の方の鼻を高くしているに違いない。
几帳に半ば背を向けた姫の方は少将の視線を感じているので緊張気味なのだが、一方の小侍従は、口うるさい北の方の目から離れてここに来たのが嬉しいらしい。 嬉々として布を裁ちながら、さっそくおしゃべりが始まった。
「ほんとにカミュ様もおいでになれればよろしゅうございましたのに! 琵琶湖は噂に聞くとおりとても広うございましたし、それに、船のゆらゆら揺れることといいましたら! つい、きゃあきゃあ騒いでしまいまして、北の方様に怒られました。 船べりからは泳ぐ魚も見えましたのよ。」
「まあ、楽しそう。 わたくしもそのうちにご一緒いたしましょう。」
「そうですわ、カミュ様がおいでにならないなんて、北の方様のなさりようはあんまりだと、みんなでこっそり話していたんですのよ。 同じ中納言様の姫君様でいらっしゃいますのに、あんまりなお扱いですもの。 二の姫様ばかり、お大切になさって!」
悔しそうにしながら小侍従が布の寸法を決め、鋏を持った姫がそれをまっすぐに裁ってゆく。 女たちが裁縫をするのをそばで見ていたことのない少将には一つ一つが珍しい。 姫の味方になってくれているのも嬉しいし、誰も聞いていないと思っている小侍従の気取らない話し方も新鮮だ。
「それで、北の方様もご機嫌でいらしたの?」
「ええ、船の酒手もたっぷりと振舞われたので、とりわけ新しい船に乗れましたし、お寺に着いてからも、都の権門一行の参籠だというので下にも置かぬもてなしでしたわ。 北の方様も、あ、もちろん中納言様もたいそうご機嫌がおよろしくて。」

   ふんっ、北の方め! 中納言風情がなにを偉そうにっ!
   たかが中納言くらいで下にも置かぬもてなしならば、我が大納言家は天の上にでも置いてもらうのか?
   権門というのも大納言から上の階級のことをいうのだ、中納言など、都には掃いて捨てるほどいるわっ!

   いや、ここの中納言殿には恨みはないが、それでも実子だというのに、この姫の扱いはいったい何事だ?
   それよりも問題はここの北の方だっっ!!あれこそ諸悪の根源!
   中納言殿もとんでもない女を娶ったものだ、一生の不作とはこのことだ!

黙って聞いているしかない少将は憤懣やるかたないのだが、縫い物にいそしんでいる女二人はそんなことなど知るよしもない。
喋りながらも小侍従の手は休みなく動き、姫と一緒になって次から次へと布を裁ってゆく。 なるほど、この手際の良さなら縫いあがるのも早いと思われた。
「それはよかったこと!  空模様もよろしくて?」
姫は早くも針を持ち、指ぬきをはめると手馴れた様子でちくちくと縫い始めた。 日頃、じっとすわって歌を詠んだり手習いをしている女人を見慣れた少将には縫い物をしている姫の姿が物珍しく、さらに可愛く思われる。
「ええ、山の上からは琵琶湖がよく見えて!ほんとうに琵琶とそっくりの形をしていますのよ。 それに遠くの山は雪で白くなっていましたの!」
「まあ、雪が…!」
縫い物の手を止めた姫が、うっとりとして宙を見た。 この屋敷から出かけたことが一度たりともない姫には、山に雪が積もっている有様など絵巻物の世界と同じなのだろう。
少将と同じく二十歳にもなるのに、海や野山はおろか、賀茂川や東山さえ見たことがない姫の境遇に少将は涙せずにはいられない。 姫をここから連れ出したら、桜も紅葉も雪も琵琶湖も、およそこの世のありとあらゆる美しいものを見せてやろうと心に誓う少将なのだ。

   そうだ!住吉詣でに連れて行って海を見せてやろう、
   そこから海を渡って須磨にも行こう!
   夏の蛍も秋の野も、賀茂の祭りも見せるのだ!
   どんなに喜ぶことだろう

そんなことを考えてあれこれと楽しい計画を練っていると、また話が始まった。
「明日は二の姫様の婿君さまがおいでになりますから、また忙しくなりますわ。」
「では、北の方様もお喜びでいらっしゃるわね。 わたくしはまだデスマスク様にはお目にかかったことがないのだけれど、どんなお方なのかしら?」
「デスマスク様はお背が高くていらっしゃって、たいそう男らしいお顔立ちをなさっておいでです。 お声も凛々しくて、ここだけの話ですけれど、わたくしどもみんな憧れておりますのよ。 あんな素晴らしい殿方に愛されておいでの二の姫様が羨ましくてなりませんわ。」
「まあ、そんなにご立派なお方なの! 二の姫様のお幸せなこと。」
「ええ、北の方様は、デスマスク様をまたとない立派な婿君というので、それはそれは大切にもてなしておいでですわ! 魔鈴姉さまも、あまりこちらのお世話ができなくなりそうで心配しておいでしたけれど、みんなで手分けして働いて、何とかしてカミュ様のお世話をいたしますのでご安心くださいませ。」
「ありがとう、みなのおかげでわたくしは暮せるのですもの。 なにもお礼ができなくて、ほんとうに申し訳ないわ。」
「そんなことをおっしゃらなくともよろしゅうございますよ、いまにきっと、カミュ様にもよい婿君が参りますわ。」
「さあ、どうかしら………?」
少将に逢う前の姫ならばそんな慰めにはなんの希望も持たなかったろうが、今の姫にはわずか三日目といえども確かな愛を誓った少将がいるのである。 微笑みながら針を運ぶ姫の後ろからその少将がそっと見守っていることなど、小侍従にわかる筈もない。
「わたくしのところなどに来てくださる殿御がいらっしゃるものかしら? 」
「だって、このままではあんまりですわ。 それはデスマスク様みたいにお家柄の立派な方は無理かもしれませんけれど、きっとどなたかおいでになります。」
「そうね、待つことにいたしましょう。 素敵な殿御が来てくださるといいのだけれど。」

   デスマスクが立派なお家柄??
   あいつならよく知っているが、同じ近衛府の衛門佐 ( えもんのすけ ) で、三歳年長だが官位は俺より一つ下の従五位上、
   親は弾正台 ( だんじょうだい ) の大弼 ( だいひつ ) で従四位下、父上の言われるにはあれ以上の昇進は有り得ない。
   来春には内大臣になられる我が父君とは雲泥の差ではないか。
   とすれば、デスマスクの昇進もそれほどのものではないに決まっている!
   姫の婿がこの俺だと言えぬのが、ええいっ、口惜しいものだ!

たかだか二百人ほどで構成されている狭い貴族社会では各々の官位・役職などは余すところなく知れわたっており、今後の昇進についても本人の能力如何に関わらず血筋・家柄・親の役職などが物を言う。 宮中で遠くにいる相手を見かけただけで、官位・役職・縁戚関係などを即座に思い浮かべて上下関係を推し測るのが常識というもので、それができなければ、この世界ではやっていけないのであった。
こうしたわけで、血筋・家柄・親の役職と三拍子揃った少将としては、デスマスクあたりと比較されるのが面白いわけがない。
今すぐにでも几帳を跳ね除けて名乗りを上げたいのをじっと我慢しているのも、けっこうつらいものなのだ。 そんな少将の憮然たる思いを知ってか知らずか、縫い物はどんどんすすんでゆき、やがて夕闇が迫ってきた。 熱心に針を動かしていた姫がふと気付くと、たもとが後ろからつんつんと引っ張られているではないか。
「そろそろ終わりにしたほうがよいかしら?」
あわてて言うと、
「そうですわね。 これでは、もう縫い目も見えませんわ。 あらかたできましたので、続きはまた明日にいたしましょうか。」
さすがに疲れたらしい小侍従がすぐに賛成してくれた。
「そうね、小侍従もさぞや疲れたでしょう、あとはわたくしが片付けますから、もう行ってお休みなさい。」
「あら、そんなことは申し訳なくて…」
「いいのよ、私はずっとここにいたのですもの。 出かけていたあなたは疲れているのでしょう? さあ、さあ!」
少将の我慢もいよいよ限界に来たらしく、先ほどよりもたもとを引く力が強くなる。
「では、申し訳ございませんが、お先に失礼させていただきますわね。」
針山に丁寧に針を刺してからお辞儀をした小侍従が下がってゆき、姫がほっと溜め息をついたところに少将が姿を見せた。
「やれやれ、ずいぶんとおしゃべりを聞かされたものだ。」
「でも、いつものことですもの。 それに、黙っていたらミロ様の寝息が聞こえるかもしれませんし。」
伸びをする少将に縫い物を片付けながら姫が微笑みかける。
「あ、それはひどい! 大事なあなたを見ていられるのに、どうして眠くなることなどあるものか。」
ちょっとふくれてみせながら、床一面に広がった縫い物を一緒に片付けようとすると、
「いけませんわ、殿方がそんなことをなさっては!」
あわてて止めにかかる姫に少将が笑顔を見せる。
「結婚すれば、いろいろなことを二人でするものだ。 姫も少しはお分かりかと思うが?」
「……え……あのぅ…」
最後の布をたたんで脇に押しやった少将がすいっと姫を抱き上げた。
「きゃ…」
「私のほかに、いい婿君が来るのを待っているって本当に?」
「あの、それは……」
「それにデスマスクなんかと比べてもらっては困るな、カミュは私では不足なの?」
困ってしまって横を向いた姫のふっくらとした耳朶が濃い桜色に染まる。
「不足だなんて………そんな……そんなこと…」
「では、私では物足りないか、ためしてみてほしいんだが。」
姫が真っ赤になった。
「きっと…もうすぐ魔鈴が…」
「魔鈴もアイオリアもまだ来ない。 ずっと待っていたのだから、今度は私の番ということでよいかな?」
「でも……あの……もし、来たら…?」
「待たせておくさ。 ご主人たちも忙しいということだ。」

あとは几帳の陰で甘い睦言が交されてゆく。
おそらくは気配を察した魔鈴とアイオリアもそれに倣ったのだろうか、少将が帰ったのは朝方近くになったということだ。


                                  ⇒ 続く