其の弐拾壱 父子
四日目の夜を仲睦まじく過ごして、その翌日は自邸でうとうとと寝入っていた少将がアイオリアの控え目な咳払いで起こされたのは、日も高く昇った正午過ぎである。
「若君、今宵は宿直 ( とのい ) にございます。 そろそろお起きになりませんと。」
そう言われてようよう起き上がり、
「そちは元気がよいな。 昨夜は早く寝たか? 珍しいこともあるものだ。」
アイオリアほどではないが、ようやっとそのほうの実績を積み始めた少将がさりげなくからかうと、
「当大納言家にお仕えしている身ですので、どなた様かのように、朝まで寝もやらず、というようなことはございません。
」
すらっと言って少将を赤面させるところなどは、なかなかどうしてこの主従のあいだには堅苦しさはないようである。
「ところで父君はおられるか?」
「いいえ、とうに御出仕なされました。」
「さようか、では内裏でお目にかかろう。」
運ばれてきた食事を摂り、髪を整え、日記をつけて、さらに女房二人の手で三十分ほどかけて束帯
( そくたい ) を身につける。
「いつもながらこれが面倒でならぬ。 急ごうにも急げぬではないか。」
「仕方ございませぬ。 若君も大納言様ほどにご出世なされば、冠直衣 ( かんむりのうし
) で出仕するお許しを賜わる勅許もいただけましょう。 わたくしもその日を首を長くしてお待ち申し上げております。」
「いや、まだそれはよい。 束帯よりは着付けが早くて動きやすいのは助かるが、大納言では身の自由がきかぬ。
万事にご大層で、一挙手一投足に人目が集まり厄介なことこの上ない。 好きに動けるのも若いうちぞ。」
「さようでございますな。 お若ければこそ、四晩続けてお屋敷を空けられますので。」
「人のことは言えぬぞ、そちもさぞかし嬉しかろうに。」
途切れなく続くやり取りに、着付けの終わった女房が笑いをこらえながら打乱筥
( うちみだればこ ) に夜着を収めて下がってゆく。
「若君、お疲れではありましょうが、牛車の中でうたたねなどなさいませぬように。」
「まだ言うか。 そちこそ、居眠って道をあやまたぬようにせよ。」
笑い合った主従にさそわれて、控えていた女房がいっせいに笑みこぼれ、大納言邸はいかにものどやかなのである。
右近衛府で幾つかの政務を片付けた後、来合わせた将監 ( しょうげん=正六位上
) に父大納言の所在を訊くと、
「近衛大将様は朝議のあと校書殿 ( こうしょでん ) にお出向きなされました。」
とかしこまって言う。 大納言は近衛府の大将を兼任することが多いが、来春に内大臣になれば、むろんこの兼務ははずれることになる。
頷いた少将は近衛府を出ると武徳殿の横を過ぎ陰明門から内裏に入った。
近衛府には男しかいないので気楽なものだが、ひとたび内裏に入るとそちこちに女房の姿が見え、遠くの方からも少将を認めると目礼をし、すれ違いでもしようものなら頬を染めてそわそわとし、度胸のある者は時候の挨拶など言いかけてくる。
少将も慣れたこととて、にこやかに相槌を打って少しばかり話に応じてからその場を離れるのだが、ひどいときには長い渡殿をゆく間に二度三度と足止めをされることもあり、目的地になかなか辿り着けず厄介なことこの上ない。 それでもここで女房たちに愛想よくしておかぬとどんな噂を立てられるかわからぬし父大納言の評判にもかかわると思うので、勢い少将の応対にも熱が入る。
その結果、女房たちの評判がさらに上がり、ますます話しかけが増えてくるという悪循環であった。
さいわい今日は女房とは二度談笑しただけで済み、目指す建物までやってきた。
紫宸殿の西南にある校書殿は古文書を納めてある古い建物で、隣の弓場殿 ( ゆばどの
) から弓を撃つ鋭い音が聞こえてくるほかはいたって静かなものである。
北向きの書庫に入り種々雑多な古い文書を積んである棚を片端から見てゆくと、ようやく見つけた大納言は古色蒼然たる薄手の文書に付箋をはさみ、棚に戻すところである。
「父君、ここにおわしましたか。」
「ミロか、ここは滅法冷え込んでならん。 話ならほかで聞こう。 北向きの部屋など、まったく人の居るところではない。」
あとの片付けを舎人 ( とねり ) に任せて書庫を出る大納言についてゆきながら、少将の想いは姫の上に飛んでいく。
思えば、姫の住まうところも北向きの冷たく暗い部屋なのだ。
南面した部屋でさえ夜は冷えるというのに、どれほどつらいことだろう…
どうにかして、姫をあの屋敷から連れ出さねばならぬ!
「で、話とは例の姫のことか? 主上には先ほど、定まった姫がおる由申し上げて快くお聞き届けいただき、内々でお祝いのお言葉までも賜わったゆえ安心するがよい。
」
大納言は紫宸殿前庭をへだてて向かい合った宜陽殿 ( ぎようでん ) までゆき、南庇の議所
( ぎのところ ) で談笑していた参議数人をあっさりと立ち退かせた。 正四位下の参議からみれば、正三位の大納言は遥かな高みの存在なのだ。
なるほど、いざなわれて座したそこは風の当たらぬ陽だまりで、なかなかに居心地がよい。
まもなく年も暮れようというのにここだけは春の暖かさなのだ。
「は…その儀ですが…」
さすがに切り出しにくくて言いよどんでいると、じっと見ていた大納言が一言。
「さては、子でもできたか?」
「…そ、そ、そんなことがあるわけはありませぬっっ!一昨夜、三日夜の餅を食べたばかりで、どうして子ができるのですっ!!」
一足飛びの結論にあっと驚き、顔を真っ赤にして慌てて否定する。 だいたい、四日経っても抱きしめてすこしばかり可愛がっているだけなのだ。 あれでは、子のできよう筈もない。
「ほほぅ〜、そういうことか。 あまりにも話がないので、これは晩熟 ( おくて
) かと心配しておったが、さすが、わしの血を引いておる。 そうか、三日夜の餅か!
いや、上出来、上出来。」
手をたたいて褒められて、なんと言っていいのかわからない。
「しかし、四日目といえども、子ができていないとはいえぬぞ。 できるときは一度でもできるものだ。
早う孫の顔を見せよ。」
「……なにやら身に覚えがおありのような口振りですが。」
「なに、一般論だ。 わしはそなたの母一筋でな、詳しく聞きたいか?」
「……いえ、それは遠慮させていただきます。」
どうも、この父にはかなわない。 少将は本題に入ることにした。
「それで、父上、その姫ですが、あちらに通い続けるわけにはいかぬ事情がありますので、この機会に新邸を設けてそちらに引き取りたいと思います。
この儀、曲げて御承諾いただけましょうや。」
形を改めて切り出すと、大納言が、ほぅ!、と頷き、
「以前からの約束ゆえそれはかまわぬが、そろそろどこの姫か聞かせよ。 やんごとなきお血筋とはいずれのゆかりだ?」
「は……金牛 ( きんぎゅう ) 中納言の一の姫にて、亡くなられた母君は先帝の内親王にあられます。」
「なに! 金牛の? ほほぅ、なるほど! 先帝には七人の内親王がおられたが、金牛に降嫁されたのは女四の宮の玲子様のはず。 母宮は式部卿の宮の一の姫で、入内なされてすぐに玲子様をお生みあそばされたが、産後の肥立ちよろしからず、すぐにお亡くなりあそばされた。 そののち式部卿の宮も亡くなられ、後ろ盾のなくなった玲子様は金牛中納言、いや、当時は少納言であったが、望まれるままに降嫁なさったのだ。 内親王様が少納言に嫁するというのはあまり例がないが、先帝も幸薄い玲子様の行く末を案じられたのであろうよ。 その後、玲子様も早くに亡くなられたと聞いてはいたが、そうか、姫をお生みあそばされていたとはついぞ聞きつかぬことであった。 とすれば、畏れ多くも主上の姪にあたられる姫ぞ。 そちの姉は中宮、さらに妻が主上の姪となればわしも鼻が高いというものだ。」
中納言の名を言っただけでこれだけのことをそらんじる父に、少将は驚かぬわけにはいかないのだ。
姫を我が妻と思い定めてからは、アイオリアを通じて魔鈴から詳しく聞いてあるのだが、当たり前のように話されるとやはり圧倒されるものがある。
「は、さようにございます。 ただ、玲子様が亡くなられたあと、後添えの北の方を迎えられて二の姫と一の君をもうけられてからは、遺された姫君をかえりみられることは少なくなり、お淋しい境遇にあります。 なにしろ、北の方が………」
さすがの少将も、今まで見聞きした北の方の人となりをあからさまに言うことははばかられる。
いずれは岳父 ( がくふ=妻の父 ) となる金牛中納言の恥でもあろうし、なによりも姫が悲しむように思えたのである。
ふと見ると、遠くの妻戸から、やはり陽だまりを求めたのか何人かの公卿が顔を出したが、大納言父子がいるのを見て、すぐにいなくなってしまった。
「まあともかく、あの屋敷で露顕 ( ところあらわし=結婚披露宴 ) などは到底期待できませぬし、なさぬ仲の北の方のもとでは姫もわたくしも安らぎませぬ。
そこで、気持ちも新たに新邸に迎えたいと存じます。」
「ふうむ、あの内親王様の姫君がそのような………しかし、いくら急がせても屋敷が出来上がるまでには相当な日数がかかるが良いのか? そちの住まう東の対に迎えても支障はないが。 それにしても、金牛中納言に話を通さねばなるまい。 あれも人は良いのだが、どうも、その北の方に牛耳られているようだな。」
察しのいい紫苑のことだけあり、少将が言わずともあらかたの事情は察したらしい。
「いえ、今はまだ忍びで通いたいと存じます。 当方が大納言家と知れたら知れたで、あの北の方が二の姫の婿と引き比べ、嫉妬してなにを仕掛けてくるか知れたものではありませぬ。
今のままの方が、姫の静かな暮らしが保たれると思いますので。」
「金牛の二の姫の婿というと、確か、衛門佐だったな。 ははぁ、その父親の昇進のありやなしやを聞きおったのはそれか!どうじゃ、なにげなく暮しておろうが、こうなってくると親の有り難さがわかるであろうが。 わしも次の春には内大臣となる。 金牛の北の方も継娘の婿が内大臣家の息と知ったら、さぞかし驚くであろうて。」
「いかにも。そのときの顔が見たいものでございます。」
二人して笑い合い、話は済んだものと少将が立ち上がろうとすると、
「ミロ、先ほどは、姫の暮らしを保つためにまだ表沙汰にはせぬと申したが、先方の親に歓待されてのちに、さあどうぞ、と案内されるのは面白くもなければ、いざ逢っている間も妙な想像をされているようで面映い。
それより人目を避けて忍び逢い、誰にも知れぬ秘め事にしておきたいというのが本音ではないのか?」
「え……あの………それは…」
思わずたじろぎ、咄嗟に返事ができないでいると、
「よほどによい姫とみえる。 存分に可愛がってやるがよかろう。」
さらりと言って立ち上がり宜陽殿を出てゆく紫苑について行きながら、少将は顔のほてりを抑えることができはしないのだ。
すれ違った女房たちが長局 ( ながつぼね ) に帰ったあとで、
「先ほど少将様にお目にかかりましたら、どうなさったのでしょう、珍しくお顔を赤くなさっておられてその初々しくお美しい有様といったらなかったんですのよ。 大納言様がご一緒においでになったので静かに目礼いたしましたけど、お一人でしたら、もうほうってはおきませんことよ!」
「まあ、羨ましい! そのような少将様、わたくしもぜひ拝見しとうございました!」
「わたくしも!」
「わたくしも!」
などと嬌声を上げたことなど、少将には想像もできぬことであった。
⇒ 続く