其の弐拾弐  宿直 ( とのい )


その夜は内裏での宿直で、屋敷に帰ることもなければ、むろんのこと姫のところへも行かれはしない。 そのことはあらかじめ姫にも伝えてあり、今朝がた飽かぬ別れを交わしてきた少将なのだ。
宜陽殿を出たところで父大納言と別れた少将は再び右近衛府に戻り、宿直の刻限まで同僚と四方山話などして過ごすことにした。 この時代の政治形態・規模などはのちの世とは比べ物にならぬほど小さく、政務といってもそれほどのものはありはしない。 着付けに苦労し動きにくい衣冠束帯も、どちらかというと政務よりは儀式のためにあるようなものである。

四方山話といっても、いくら暇を持て余した男同士とはいえ最初からくだけた話など出るはずもなく、「 誰それはどこぞの上国の国司を狙っているらしい 」 だの 「 元旦の小朝拝 ( こちょうはい ) の席次をご存知か?」 だの、もっぱら政治向きの話題に花が咲くのが普通である。
そして、ひとしきりこの頃の流行りの話題が途切れると、そろそろ例の話が顔を出し少将を困らせる。
「ところで少将殿には、いまだ決まった女人はおらぬというが、それはまことでござろうか?」
「そのことよ、このような場所ではなんだが、年頃の娘を持つと気にかかってならぬものでな。」
「いやいや、わたくしごとき若輩、とてもそのような……」
声をひそめて聞かれて、少将も真面目くさった顔をして話をそらすのだが、切り抜けるのもなかなか難儀なものだ。
「都で一番の公達で手付かずといえば少将殿に相違ない!」
「なかなかお相手が決まらぬのは、大納言殿の御めがねに叶う姫が見つからぬからだと聞くが、それはまことでござるかの?」
「実は、従姉妹にとびきり美しい姫がござって……」
「いや、もう、その儀は……」
無碍に断ることもならず、言を左右にしているのも疲れるのだが、どうぜ向こうもここで色よい返事をもらおうと思っているわけでもない。 ほんの暇つぶしということもあれば、頼まれたから一応話だけは出しておかねばならぬ、とかいろいろな理由があるのである。 内心では溜め息をつき、また、姫君のことを思い浮かべながら、話を途切れさせないのも殿上人としての心得なのだ。

やっと宿直の刻限になり、少将は清涼殿の殿上の間に伺候した。年も暮れようというこの時期は火桶と円座が用意されているが、暖かいとは言いがたい。 それでも炭を惜しげもなくついでいれば、それなりに暖を取れるものだ。
「これは少将殿、今宵はよろしくお願いいたします。」
少し間を置いてやってきたのは同じ近衛府の衛門佐、かねてより顔見知りのデスマスクである。
「や、これは………今宵の宿直は衛門督( えもんのかみ ) 殿かと思っていましたが…」
「それが衛門督殿は急な物忌みということで、私が代わってお引き受けいたしました。」
「ほぅ、それはそれは。 さ、こちらへ。 火桶に当たられよ。」
陰陽道の盛んな此の頃はなにかというと物忌みが多く、そのあまりの便利さに、つい個人的な用事の言い訳に使ったりすることもある。 現に少将も、姫との初日の夜は宿直であったものを、物忌みと称して人に替わってもらい、ひそかに出かけていったというのが真相だ。 そうでもしなければ中納言の屋敷が手薄になるという願ってもない好機をみすみす見逃してしまうというものではないか。
そうしたことは日常茶飯事なので、そこはお互いに詮索などはしない。 人にはそれぞれ事情があるものなのだ。 それに少将としても、位が上の衛門督よりは年も近くてこちらの官位が一つ上の衛門佐のほうが気が楽である。
そして、なんといってもこの男、デスマスクは姫の継妹アフロディーテの婿なのだからその点からしても興味があるのだった。 といって、それほど親しいというわけでもないのでいきなり中納言邸のことを話題に出すのも妙なものだ。火桶に手をかざし、とりあえず 「冷えますな。」 というと 「 まことに。」 というもっともな答えが返ってくる。
しばらく黙っていたが、官位が上のこちらから話を出したほうがよかろうと考えた少将は、いかにも無難な線から切り出すことにした。
「ときに白馬の節会 ( あおうまのせちえ ) のお役目を賜わられたと聞いていますが。」
「これは…早くもお聞き及びでしたか! さよう、白馬の節会には儀仗を務めさせていただきます。」
「それは大切なお役目を。 わたくしもその日は階 ( きざはし ) の下に控えております。 なにしろ初めてのことゆえ、いささか緊張するというもので。」
「わたくしも同じです!」
大納言家の御曹司で都一の公達との呼び声の高い少将に親しげに話しかけられたのが嬉しいらしいデスマスクは、宿直での初の顔合わせという緊張が解けたのかほっとしたようである。
「このたびは急のお役目変更があり、突然のご沙汰にいささか慌てましたが名誉なことと喜んでおります。」
「たしか貴殿は金牛中納言殿の二の姫と……とすると、中納言家でもさぞかしお喜びでしょうな。」
普段はあまり話したこともないのだが、デスマスクが中納言家のことをどう思っているのか知りたくなった少将は水を向けてみた。
「これは……ご存知とは畏れ入ります。 ええ、確かに。この話が決まりましてすぐに、中納言家に人を走らせました。 中納言殿にもいたくお喜びになられ、さっそくお祝いをいただいた次第です。」
白馬の節会といえば、新年一月七日に紫宸殿で帝が白馬を見て邪気を祓い除くという行事で、たいそうめでたいものである。 それに愛姫の婿が抜擢されたというのだから中納言の喜ぶのも無理はない。
「新年早々縁起のいいお役目ですからな。 ところで中納言殿のお喜びは当然として、肝心の二の姫の方はどうでした?」
そういえば、二の姫の人となりについてはまったく知らないことに思い当たった少将である。
「いやぁ、 むろん二の姫もそれはそれは喜んでくれまして。 ええ、少将殿の前でこんなことを申し上げてはいかがなものかとは思いますが、二の姫はなかなかに麗しいみめかたちでして、文のやり取りをしていた時分にはここまでとは思いませんでした。 都にもあれほどの姫はそうはおりますまい。 あ……いや、これはとんだことを申しました。どうか、ご放念ください。」

   ふっ、二の姫がどれほど美人かは知らぬが、カミュほど美しい筈がない!
   どちらの顔も知っているのは魔鈴だけだが、カミュ様の方がおきれいなのに、というのが口ぐせらしいからな

「いやいや、わたくしもそのうちには佳き姫を見つけるつもりでおりますゆえ、お気になさらずに。 ほほぅ、 二の姫はそれほどに…! これはお幸せなことですな!」
「いやぁ……これはどうも、お恥ずかしい…」
だいぶ打ち解けた様子のデスマスクはどうやら饒舌な性質のようである。
「しかし、二の姫はまことによろしいのですが、中納言殿の北の方のもてなしぶりが大層すぎて、ちょっと閉口します。 行くたびに大仰な馳走が並び、選り抜きの女房が、酒よ、肴よ、ともてなしてくれる中で北の方がこちらを褒めちぎり、なかなかその場を離れられぬのです。 膳部の上の馳走より、こちらとしては少しでも早く、その、二の姫と…」
「ははは、わかります!男としては当たり前ですな!」
「いや、これは、どうも…」
とりたてて共通点もないと思っていたのだが、なかなかどうして話好きらしい。 少将はもう少し踏み込んでみることにした。
「ところで、二の姫というからには一の姫もおいででしょうが、そちらもやはり麗しい姫でしょうか?年上というからには、もう結婚を?」
ちょっとドキドキするが、ここのところを聞かずしてデスマスクとの宿直を終わる気はないのだ。
「ああ、一の姫ですか。 まあ、わたくしもちょっと興味を持ちまして二の姫に聞いてみようと思ったことがあるのですが、結婚したばかりで他の姫に関心があるのかと誤解されそうな気がして聞きづらく……かなり焼きもちを焼くほうなのですな、二の姫は。 みめ良い女房をちょっと褒めたところ、すぐに機嫌が悪くなったことがありまして。」
デスマスクはなにか思い出したふうで咳払いをする。

   ……もしかしたら、魔鈴に色目でも使ったのではないのか、この男は?
   まあ、これは推測に過ぎんから、アイオリアには言わぬほうがいいだろうな
   魔鈴もアイオリアにぞっこんなのだから、なんの心配も要らないが

結婚しても、妻に仕えている女房と情人関係になるというのはよくある話で、その場合は妻も了承していることも多い。 むろん、それを歓迎する妻などいないだろうが、愛情を伴わない関係なので、しかたのないことと割り切って考えているようだ。
「そこで、一の姫のことについて、こっそり北の方に尋ねたのですよ。 年は二の姫よりも二つ上の二十歳、今の北の方のお子ではなく、最初に中納言殿に降嫁された内親王様がお生みなされた姫君なのだそうです。」
「ほう!それは、ゆかしいお血筋ですな、それにしては、二十歳になるまでご結婚なさらぬのはなにかわけでもおありなのでしょうか?」
身内以外の人間と姫のことを話題にするのは初めてで、少将は耳がほてり、胸の高鳴りを抑えるのに苦労する。 宿直の場所が紙燭一つでほの暗いのが幸いというものである。
「それがですな…」
火桶に手をかざしたデスマスクが声をひそめて身を乗り出した。
「どうやら一の姫は病弱で、みめかたちもさほどではないらしいのですな……」
「え…」
「ですから、姫君ご本人も結婚はできぬものと諦めておいでになるし、北の方もそれをひどく哀れに思って、世間の風にも当てずにあの屋敷内で大切にかしずいておいでになるのですよ。 まことにお気の毒なことです。」
「ええっっ!」
「どうかなされましたか?」
「い、いや………やんごとなきお血筋の姫のお気の毒さに、つい…」
「そこで、せめてなにか得意な慰みごとでもあればと、北の方が琴や笛を教えてみてもどうにも筋が悪く、ものにならぬのだとか。」
「う、う〜む…」
「ならば裁縫は、と手を取るようにして教えても、やはり覚えがよろしくないということです。」
「な、なんと………」
「できの悪い子ほど可愛い、と申しますし、北の方はそんな一の姫をたいそう哀れんで気をつかっているのだそうです。」

   くそっ、なにが哀れむだっ!
   鏡筥まで奪っておいて、気を使う、だと???
   北の方め、許せんな!!

「それはさておき、あの屋敷の良いところは、なんといっても装束の仕立てが見事なのですよ。 頼んだ衣は実に美しく縫いあがるのです!よほどよいお針子を抱えていると見えますな。」
「……ほう…… そんなに?」
黙って聞くしかない少将は心中穏やかではないのだが、ここで文句を言うわけにはいかぬ。。
「日数が迫っていても必ず仕上がって、その頼み甲斐のあることといったらありませぬ! この装束もそうなのですが、白馬の節会の装束も今から仕上がりが楽しみでして。」
袖をちょっと広げてみせるデスマスクは嬉しそうで、確かに暗い中でも仕立てのよさがよくわかる。

   おのれっ、カミュを新邸に連れてきたら、最高の布で心ゆくまで俺の装束を縫ってもらうから見ておれっっ!
   カ、カミュは……っ、俺のカミュは貴様の装束を縫うためにいるのではないのだからなっっ!!

新婚間もないデスマスクになんの罪もないことはわかっているのだが、鬱憤を晴らしようもなくていらいらした少将が滅多やたらと炭をつぎ、宿直者が名を名乗る名対面のころには殿上の間はかつてないほど暖かくなったのだった。


                                   ⇒ 続く