其の弐拾四  貴鬼


八歳になる一の君の貴鬼は北の方と中納言との間に生まれた二人目の子で、二の姫のアフロディーテとは十ほど離れている。遅く生まれたただ一人の男君というので中納言もたいそう可愛がるし、北の方も二の姫と同じく貴鬼を大切に扱っている。 そのため貴鬼の望みで叶わぬということはないが、幸いなことにあの北の方の子にしては性格も素直で、屋敷の皆から愛されているのは中納言の温厚な性格をもらっているのであろうというのが使用人の間での一致した意見である。
子供ゆえに、男子といえども姉のアフロディーテの部屋にも出入り自由だし、北の方から  「 風邪をひいてしまうから行ってはいけないよ。」 ときつく止められている姫君の北向きの部屋にもその目を盗んでこっそりと遊びに来たりする。 むろん女房、家人たちは気付いているのだが、余計なことを言って北の方の機嫌を損じては、と みな見て見ぬ振りをしているし、無邪気な貴鬼の訪問が不遇な姫君のお慰めになればとも思うものだから、ますます貴鬼の行動の自由は保たれているのだった。

「姉上様、この鏡筥は、落窪姉さまのところにあったものでしょ? どうしてここにあるの?」
屋敷中の部屋に出入り自由な貴鬼はいろいろなことを知っている。 それに比べて、二の姫アフロディーテは落窪の部屋に行ったことがないのである。
「えっ? これは姉上様のものなの? まあ……お母さまったら、またそんなことを…」
二の姫の美しい眉が曇る。 先日、北の方がこの鏡筥を持ってきたときは、「これはわたくしの母方の家に古くから伝わったもので、たいそう立派なお品だから、新年が来る祝いにそなたに譲りましょう。」 というので、その美しさ高雅さに感心した二の姫は頬を薔薇色に染めて受け取ったのである。
「落窪姉さまのことならなんでも知ってるよ。 この頃はずいぶんきれいな几帳や角盥やなんかが増えたものだから、落窪姉さまはいつも嬉しそうだもの!」
「まあ、それはよかったわ。 でも、あのお母さまが姉上様のところに新しいものなどくださるものかしら?」
「ううん、お母さまじゃないよ、あれは魔鈴が伯父さんのところから借りてきたんだって! あんまり古いものばかりだから落窪姉さまのことが気の毒になって、お金持ちの伯父さんに頼んだらどんどん届けてくれたんだよ。」
几帳の脇に寝そべった貴鬼は先日デスマスクが持ってきてくれた双六で遊び始めた。小さい弟ができたのが嬉しいらしいデスマスクは、来るたびに貴鬼の喜びそうな遊び物や甘菓子などを懐から出してくれるのである。

小さいときの二の姫は同じ屋敷内に暮らす姉の存在を知らずに育ち、あるとき、通ったことのない渡殿があるのに気付いて恐る恐るそれを渡って北側の薄暗い簀子縁に足を踏み入れたとき北の方の手に引き戻された。
「あちらに行ってはいけないのよ! 恐ろしい鬼が出て可愛い姫を食べてしまうかも知れません!」
びくっとした二の姫に、二度と向こうへは行かぬようにと誓わせた北の方は大急ぎで母屋へと連れ帰り、それきり二の姫はあの渡殿を越えたことはないのである。 目の中に入れても痛くない二の姫が一の姫の存在を知ったら会いたがるかも知れぬと考えた北の方は周りの女房たちにきつく口止めをし、北の方の怒りを買うことを恐れた女房たちも一の姫を不憫がりながらなんともしようがない日々を送っていたところに生まれたのが貴鬼である。
大きくなるに従って貴鬼は屋敷中を探検して歩くようになり、さしもの北の方といえどもそれを止めることなどできるはずもない。
あるとき貴鬼があの渡殿を越えたところを見つけた北の方が 「 恐い鬼がいるから!」  ときつく戒めたところ、 「 それなら退治する!」 と言い出してなだめるのに一苦労したことがあるのだ。 そのときは、大きくなって刀を使えるようになったら、と諦めさせたつもりの北の方だったが、貴鬼の方はそうは考えなかった。

   お母さまは鬼がいるというけど、魔鈴が時々平気な顔して向こう側に渡っていくじゃないか!
   鬼なんかいないに決まってる!

そうしてこっそり魔鈴の後をつけた貴鬼は、とうとう姫君を見つけ出したのだ。
その日も縫い物をしていた姫が物音に顔を上げると、戸に隙間ができていて、誰かがいる気配がする。
「魔鈴? どうしたの?」
いつもの通りにやさしい声で呼びかけると、戸がもう少し開き、ずいぶん低い位置から大きく見開いた目がこちらを見つめている。
「あなたはどなた? お入りなさいな。」
そういうと、今度は戸がもっと開いて、入ってきたのは噂に聞く一の君に違いなかった。
「あらまあ、貴鬼様ですのね、はじめまして。」
にっこり微笑むと、びっくりしたようにその子が目を見開いた。
「どうして名前を知ってるの? 鬼じゃないだろうから、それじゃ、あなたは……だれ?」
着ているのものは古びているけれど、子供心にも姫の気品は判ったと見え、自然と言葉も丁寧になっている。
「わたくしは……貴鬼様の姉ですのよ、わたくしの母はもう亡くなりましたので、身分違いの身をここにおいていただいております。」
「えっ! アフロディーテ姉さまのほかにも姉さまがいるのっ?!
「はい。 せっかくこうしてお近づきになったのですもの、これからはどうぞ仲良くしてくださいましね。」
にっこりと微笑むそのやさしさに、貴鬼はたちまちこの初めて見る姉が好きになったのである。
そこへ戻って来た魔鈴がこの様を見て驚き、ここに来たことを貴鬼に口止めして、これからはけっして見つからぬようにするならこっそり来てもよい、ということに相談がまとまったのであった。

子供にもわかるように、しかし北の方に悪い感情を持たぬように配慮しながら魔鈴が姫の置かれた状況を話してやると、利発な貴鬼はすぐに事情を飲み込んでくれた。 もとより姫は、血のつながった妹の二の姫とおりふしの便りを交したいと思っていたし、回りに誰もいないときに貴鬼から姉の存在を耳打ちされた二の姫も同じ気持ちになったのだから、その後のささやかな交流が始まったのも当然だったろう。
魔鈴も以前から二の姫に姫の存在を知らせるすべがあれば、と思ってはいたのだが、主筋のことでもあり、また北の方から固く口止めされていたため果せずにいたのだが、中納言家の嫡男の貴鬼のすることならそれなりに筋は通っているのだった。
こうして今では二人の姫はおりにつけてはほんのささやかなものではあるが季節の便りなど交し合い、まだ見ぬお互いを思いやっているのである。
姫にはことのほかつらく当たる北の方も、二の姫の裳着 ( もぎ=女子の成人式 ) が近付くにつれ、姫の裳着をしないわけにもいかなくなり、不承不承に姫の存在を屋敷内に公表してから、二の姫の裳着の前日に裳着をおこなったものである。
ただし、本人が恥ずかしがり屋なので、という理由をつけて祝宴などは開かずに式が終わるとさっさといつもの部屋に帰したものだから、そうとうなお扱いだ、と奉公する者たちの間で話題になったものだ。
中納言の姫と正式に認められても、それからは一時が万事この調子で姫の境遇はなにも変わっていない。 笛が上手いので貴鬼に教える役目もありはするが、縫い物の腕を見込まれてからというもの、
「お前をここにおいてやっているのは、中納言様の暖かい思し召しと裁縫の腕あってのことなんだからね。 手を抜いたりしたらここにはいられないとお思い!」
「はい、お母さま、わかっておりますわ。」
恐ろしい口調で念を押された姫君は、こうして縫い物に明け暮れる日々を送っているのだった。 もとより素直な姫君は特に不満もなかったが、今は少将の登場で将来に思いもかけぬ夢を持つようになっている。
そんなことは貴鬼も知らないのだが、このところの姫の明るい様子は子供心にもわかるのだ。

墨をすり始めた二の姫の横で一人双六にも飽きた貴鬼が立ち上がる。
「姉上様、この双六を持っていって落窪姉さまと遊んでもいい?」
「わたくしはかまいませんけれど、でも…」
「わかってるよ、お母さまには絶対に見つからないようにするからね♪」
くすくす笑い合ってから部屋を出て行こうとした貴鬼を二の姫が呼び止めた。
「姉上様にはお変わりないかしら? 自由に会えるあなたが羨ましいわ。」
「うん、お元気だよ、このごろ着物を縫うのに忙しそうだけど。 そろそろ出来上がるみたいだから、今日は遊んでもらえるかもしれないし。」
それからちょっと考えた。

   こないだから落窪姉さまのところに、デスマスク様みたいな素敵な男の人が来てるのを教えてあげたほうがいいかな……?
   
朝早くからこっそり部屋を抜け出して、庭の霜柱を一番に見つけようと考えていた貴鬼は、夜の明ける前にそっと部屋を忍び出る少将と戸口で飽かぬ別れを交わす姫を二度ばかり見かけたことがあるのだった。

   よく見えなかったけれど、とっても立派そうな男の人だったっけ……
   でも、やっぱり言わないでおこう!

実は、アフロディーテのところに通ってきたデスマスクを最初に見つけたのは、やはり夏の明け方に樹の汁を吸う虫を捕まえようと早起きをしていた貴鬼で、なにげなくそのことを北の方や二の姫がいるところでしゃべったところ大々的な騒ぎを引き起こしたのである。 結局、めでたい話だったので丸く収まったが、そのとき以来、小さい貴鬼といえども余計なことは言わぬほうがいいという知恵がついている。

   また大騒ぎになったら、落窪姉さまが可哀そうだし……

懐に双六を忍ばせた貴鬼が出てゆき、あとには二の姫が頬を染めながらなにやら文を書き始めた。 今年も残すところあと一日なのであった。


                                    ⇒ 続く