其の弐拾五  母子


今年も押し詰まり、ついに今日は大晦日である。
一年を締めくくる夜を姫と過ごしたかった少将だが、連夜の忍び歩きに加えて大晦日まで屋敷を空けるのもさすがにはばかられて、姫には細やかにやさしい言葉を書き連ねた文を届けさせることにした。
「急ぐことはない。 ゆっくり戻って参れ。」
「…は?」
「俺が行けぬからといってそちまで独り寝をすることもない。 朝まで暇をやるゆえ、魔鈴と過ごすが良かろう。」
「あ…これはかたじけなく……では、姫君様よりのお返しの文を若君にお届けしたのちに、そうさせていただきます。」
「ただし、今年限りぞ。 来年の大晦日にはそちに夜道を歩かせるわけにはいかぬ。」
「……と申しますと?」
少将の真意を測りかねたアイオリアが首をかしげた。
「知れたこと。 五月には新しい屋敷が出来上がり、姫とともに魔鈴もそこに引き移ることになる。 さすれば同じ屋敷内ゆえ、もうこれまでのような苦労は要らぬ。 夜道を通わぬ理屈であろうが。」
「あ、なるほど! これは気がつきませんでした。 そういたしますと、いつぞやの大雨の外歩きも懐かしい思い出になるというわけでございますな。」
「懐かしいが二度とは御免だ。 とはいえ…」
苦労はしたが、あんな大雨の中を歩いて姫に逢いに行ったことは育ちの良い少将にとってはわくわくする冒険だったし、そのあとで心配した姫に冷えた身体をやさしく暖めてもらったことはなかなかどうして忘れがたい嬉しい思い出なのだ。 つい口に出しかけて心の中に押しとどめ、あれやこれやと反芻していると、
「とはいえ、なんでございます?」
笑みをこらえているらしいアイオリアに問われて、
「いや、なんでもない。 よいから、早う行って参れ。」
慌てて言って顔が赤くなり、それをまたアイオリアに見られてしまい、ついに二人してぷっと吹き出した。 むろん、女房たちは次の間に遠ざけてあるのでこうした話を聞かれはしないのだが、少将が赤くなって笑っているのは見えるのだから、アイオリアが大事そうに文箱を受け取るのをみればおおかたの想像はつこうというものである。 互いにそっと目くばせしてくすくす笑いをやっと我慢している。

「では、行って参ります。」
笑いをおさめたうえで立ち上がったアイオリアがいかにも真面目な顔で文箱を抱えて行ってしまうと、もう少将にはやることがない。 昨夜の疲れはゆっくりと朝寝をしたので取り戻せたし、このうえは一人でいても女房たちにからかわれそうな気がして面映い。
「母君のところに参る。 」
その声に一人の女房が様子を伺いに出てゆき、すぐに戻ってくる。
「いつにても、とのことにございます。」
頷いた少将が立ち上がると、先ほどとは違う女房が先導に立つのもいつものことだ。 親の部屋を訪ねるのもやたらと手間がかかるが、なにしろ時間もたっぷりならば屋敷も広い。 ありあまる人を使っていかにも優雅に暮らすのが上つ方というもので、それを当たり前に思っているところがさらに上流の証拠ということである。 贅沢をしていると思うようでは一流とはいえぬのだ。
実の子の訪問とはいえ、そこは片付け物などあるかもしれぬのでわざとゆっくり歩きながら先導の女房に冗談など言いかけると、当意即妙のうまい答えが返ってきて少将を感心させる。 紗伊奈 ( しゃいな ) というこの若い女房は少将付きの女房の中でも機転がきいて教養もある。
大納言家では奥向きの女房から牛飼い童に至るまで出自人柄を吟味しており、人の和を乱すような好ましからぬ人物は即刻に暇を出す。 そのため、今では斡旋人も人を吟味して寄越すし、この屋敷ならば、と勤めたがる者が引きも切らずという有様なのだった。

   新しい屋敷にカミュを迎えるときには良い女房も揃えておかねばならぬが、この紗伊奈はどうであろう?
   魔鈴とも気が合いそうだし、なによりカミュを立てて親身になってくれそうだ

風薫る五月には完成するはずの新邸にカミュと引き移る日のことを思うと心躍るものがあるが、建物ができてもそれだけでは人が住めるものではない。 奉公人から始まって、調度やら牛車やら庭の植栽やら、そのほか今の少将の目に映っている全てのものが整っていなければカミュを迎えることなどできはしないのである。 これが普通の暮らしをしている姫を迎えるのならば時々普請の進捗状況を見に行くだけで終わったろうが、なにしろこれといったものを何一つ持たず、やっと魔鈴の伯父からの借り物で暮しているカミュを迎えるのだから、いかに鷹揚な少将といえども気を回さずにはいられない。 贅を尽くし心を込めた調度を誂えて、淋しい暮らしを続けてきたカミュを喜ばせたいと考えているのだった。

   カミュに似合いそうな装束をたくさん用意してやろう
   美しい衣をとりどりに広げたところに連れてきたらどんなに喜ぶことだろう

そんなことを楽しく思い描きながら母屋の御簾をくぐり、
「母上にはご機嫌麗しゅう…」
と言いかけると、
「ほほ、良いのですよ、あらたまっていかがなされました?」
「年の暮れのご挨拶と、それから…」
少し言葉を探してから、
「新邸に姫を迎えるにつきまして、その……調度などを整えねばなりませぬゆえ、母上にご相談いたしたく参じました。」
一気に言ってしまってから、かっと頬がほてるのはどうしようもない。 普段は気にも留めぬのに、こんなときばかりは周りにいる女房たちの視線が妙に気になるのだ。 調度どころか姫の装束まで用意してやらねばならぬ身の上なのだと、いったい誰が想像するだろう。
「そのことならば、わたくしもとうに考えておりまする。 中納言邸にミロ様が通うのであればさしたることはありませぬが、このたびはこちらが全てを新調するのですから、それはもう楽しみで!」
ムウの話によると、必要な什器備品などは早くも誂えにかかっており、あとは蒔絵の絵柄を決めるだけなのだという。 少将が姫の初々しさにのぼせ上がっている間に、ことはどんどんと進んでいるのだった。
「それで姫のお手回りのお品にはどのような柄がようございましょうね。 お好みの花などありましたら、それを描かせたいと思いますが、姫はどのような花をお好みでしょう?」
「……花ですか? ……さあ?」
いろいろな話をするようになってはいるが、そんな話題は出たことがない。 なにしろ恥じらうカミュをそっと抱きながら与える口付けも肩だの首筋だのにとどまっていて、その先には一向に進んでいないのだから夢中になるということがない。 初めのころこそどきどきしたが、この頃ではゆとりをもってカミュのやわらかい感触を楽しんでいるのだった。 カミュの方もそんな抱かれ方に慣れたようで、むろんこれ以上のことがあるなどとは思ってもいないようなのがちょっと気になるところなのだが、少将としても、ようやく馴染んでくれたカミュに無理強いをして恐れをいだかれるよりは、もうしばらくはこの穏やかな関係を保ってゆっくりと心を通わせたいと考えるようになっている。
そのため寝物語だけは数多く交されているが、それはもっぱら少将が内裏のことや大納言邸のこと、そしてまた季節の祭りのことなどを話して聞かせているだけで、そうしたことに縁遠かったカミュが感嘆し憧れるというのがいつものことなのだ。 北向きの部屋からほとんど出たことのないカミュは、哀しいかな、見知った花も少なくて、少将が話題にしたとしてもあまり成果は上がらなかったに違いない。
「わからなければ次の機会にお伺いしてみてくださいませ。 でなければ内親王様の御遺愛のお品にお印の花が描かれているはずですから、それにいたしてもよろしいですわね。 その方が姫もお喜びかもしれませぬ。 姫のお手元のお品にはなんの花が描いてありますの?」
帝に親王や内親王が生まれると手回りの品々につける花が定められ、それはのちのちまで大切な印とされるのだ。 少将の母方の祖母も内親王であったため、それを譲り受けたムウの手回りにある文箱や手文庫などにはその印として定められた花橘の紋様が描かれているのは少将もよく知っている。
とすれば姫の身の回りに唯一残されていた母譲りのあの鏡筥にも、なにか印の花が描かれていたに違いないのだが、あいにく少将は北の方が抱え込んでいるのを几帳越しに見ただけで、どんな花が描かれていたのかはさっぱりわからないのである。
「それが……その…」
まさか話がそこへいくとは思ってもいなかった少将は絶句する。 あの北の方の行状を知らせたくはないのだが、ここまできてはどうしようもない。
困り果てた少将が控えている女房たちにさっと視線を走らせると、それと察したムウがすぐに人払いをしてくれるところはさすがである。
「これならよろしいでしょう、いったいどうなさいました? なにか御事情がおありでも?」
問われた少将がしかたなく、北の方が鏡筥を持っていってしまった顛末や落ち窪んだ部屋に住まわされていることなどをそれでも控え目に話すとさすがに唖然としたようである。
「まあ………なんということを! ……それだけではありますまい、ほんとのところ、姫のお暮らしはどうなのです?」
仕える女房の数やら衣装のことやら、あれこれと細かいところまで訊かれて、ついに洗いざらいしゃべらされてしまった少将である。
「なんとお気の毒な! 新邸ができるまでお待ちいただくなど、おいたわしくてなりませぬ! 今すぐにでもお連れできないのですか、なにをのんびりと構えておいでです?!」
詰め寄られて慌てた少将が、
「いえ、姫は今のところはあの暮らしにも慣れておりますし、新邸のことを話しましたら楽しみに待っていてくれますので慌てることはないかと。」
「ミロ様はご自分が暖かいお暮らしをなさっているので今一つお分かりにならないのです。! この冬の冷え込みに北向きの部屋にお住まいとはなんということでしょう!姫はお寒くはないのですか?!」
きっと睨まれた少将が、
「それならば、あの、綿入れが…」
つい言葉を濁してしまい、しまった、と思ったときにはもう遅い。
「………綿入れとは、どのような綿入れです?」
「あの……それは……」

一部始終を聞いたムウの怒るまいことか!
「ああ、もう、なにをぐずぐずしているのですっ、すぐさまこれを届けさせなさい! いえ、届けさせるよりそなたが自分で持っていって着せ掛けておあげなさい! そのくらいの思いやりがなくてどうします?!」
自ら立っていって唐櫃を開けると、鮮やかな若草色の綿入れを取り出した。
「え? あの、わたくしは今宵はここで新年を迎えようかと……」
「なにを悠長なことを言っているのです? そのようなお淋しい部屋で姫にたった一人で新年を迎えさせるおつもりですか? こんなときにそなたが行かなくてどうするのです! ええい、腹立たしい! ここにある唐櫃全部送り届けたいくらいです! そなたはそうは思わないのですか?!」
「は………そんなことをしますと、却って目立ちすぎてよくありませぬゆえ、どうぞ、あの、こたびは綿入れだけがよいかと。」
ふんわりとした綿入れを抱きながら、なんとかなだめてその場を辞去した少将がほっと溜め息をつく。

   いやはや、驚いた!
   普段は物静かな母上が、あのようにお怒りなされるとは思いもしなかった
   それは俺としても一日でも早くカミュを迎え取りたいのは山々だが、いきなりそれをやったらあまりにも不穏当だろう
   いくらなんでも、それはまずいんじゃないのか?
   それに、心尽くした新しい屋敷調度で迎えてやったらどれほど嬉しく思ってくれることか!

   それにしても母上のお声掛かりで今夜もカミュのもとへいけるとは思わなかった!
   どんなに喜んでくれるだろう

東の対へと帰る道筋には遠ざけられていた女房たちが控えており、その目の前を若草色の綿入れを抱きかかえて通る少将の姿は目立つことこの上ない。 女房たちの視線が一斉に集まり、少将は赤面せざるを得ないのだ。
カミュからの嬉しい返し文を持ち帰ってきたアイオリアが、なにやらかさばった包みをかかえて牛車に乗った少将とともに人目を避けるようにして裏門から出て行ったのは、それからしばらくしてのことだった。

                                     ⇒ 続く