其の弐拾六 元旦
元旦の朝は早い。
まだ暗いうちから起き出して朝食ののち歯固めの祝いの屠蘇 ( とそ=数種の薬草を組み合わせた屠蘇散を浸して作った薬酒
) と、大根、瓜、押鮎、焼鳥などの固い食べ物を摂り長寿を祈る。 そのあとで朝早くから清涼殿東庭での小朝拝
( こちょうはい ) に参列するのだからかなり忙しいのだ。
大納言とともに小朝拝に列席する少将も、それに間に合うように屋敷に帰らなければならぬのは言うまでもない。
北の方のお声掛かりで大晦日の夜を中納言邸で姫と睦まじく過ごした少将にはいつもの朝より早い別れだが、こればかりはいたし方がないのだ。
とはいえ部屋の外にアイオリアの迎えに来た気配にも、すぐには離れがたくて幾度も唇を寄せて別れを惜しむ。
「夜が短すぎてならぬ……もう少しカミュとともに居たいのに……」
「今宵はおいでくださらぬと思っておりましたのに、こうしてお目にかかれてこれほど嬉しいことはありませぬ。」
「五月には新邸が出来上がる。 吉日を選んでそなたを連れてゆき、その折には父上と母上にも引き会わせよう。
カミュに会うのを楽しみに待っておいでだ。」
「嬉しゅうございます…」
頬を染めたカミュからやさしい口付けがそっと返され、ますます名残り惜しくなった少将が姫のなよやかな身体を引き寄せて飽かぬ別れを惜しんでいると、外でかすかな咳払いの音がする。
「あ……」
「これはいかぬ。 あとが恐い。」
くすくすと笑った少将がようやく立ち上がる。
「まだ冷えるゆえ、カミュはそのままで。」
そう言いながら手早く身支度を整えると、かがみ込んで褥の姫に口付ける。
「また今夜……」
「お待ち申し上げておりまする……」
後ろ髪を引かれる思いでやさしい手を振りほどき褥の中に入れてやると、音のせぬように妻戸を開けて忍び出る。
「待たせた。」
「お早く牛車に。 この屋敷の者が起き出して参ります。」
声をひそめたアイオリアに急かされて闇に紛れてひそかに裏門を抜け脇辻に待たせておいた牛車に近付くと、手をこすり合わせてしゃがんでいた牛飼い童や舎人が急いで立ち上がる。
「すまぬことをした。 帰邸したら羹 ( あつもの ) をとらせよ。」
少将も寒いことは寒いが、道に待つ供の者はもっと寒いのだ。 元旦の空が白むころには小朝拝に参列する公卿の牛車で混み合うはずのこの道も今は人の姿もなく静まり返り、通り過ぎる方々の屋敷内から起き出した人の気配がかすかに伝わってくるのみである。
ぎいぎいと車の軋む音を聞きながら少将は独り思いにふけるのだ。
「カミュ、これをそなたに。 母上からの賜わり物ぞ。」
「まあ……こんなに立派なものを…!」
携えてきた若草色の綿入れを着せ掛けてやるとカミュの頬が嬉しさにほころんだ。
以前北の方からもらってあった煤けたような色の古びた綿入れとは違い、若々しい鮮やかな色がなんと姫に似つかわしいことだろう。
「ほんによくお似合いになります!」
かたわらで見ていた魔鈴も喜びを抑えきれないらしく、惚れ惚れと見とれている。
こちらの北の方様に比べて、なんとまあ、大納言様の北の方様のおやさしいこと!
真新しい綿入れをお持ちくださったところをみると、
少将様は北の方様に、カミュ様のお受けになっているお取扱いについてお話しなさったに違いないわ
恥ずかしいことだけれど、いつまでも隠してはいられないし、
そのおかげで北の方様のおやさしさがわかって嬉しいこと
今まさに年も暮れようという大晦日の夜に、本来なら来られなかったはずの少将がやってきた嬉しさと若草色の綿入れがもたらした春のような暖かさとが侘しかった部屋に灯りをともしたようでその嬉しさは限りない。 頬を染めている姫を少将に託してそっと部屋をすべり出た魔鈴にアイオリアが寄ってきて、寒さのせいもあり二人して急ぎ足で魔鈴の部屋に入る。
「明日の朝はいつもより早目に帰らなければならないが、そのかわりにこれを北の方様よりことづかってきた。」
「え? 何かしら?」
藤色の絹に包まれた箱を手渡された魔鈴がそっと開いてみると、中から現われたのは美しい紅梅模様の蒔絵の箱である。
蓋を開けた魔鈴が声を上げた。
「まあ、これは……!」
中には鹿肉、干し柿、押し鮎、大根、瓜、かち栗などがきれいに詰められており、それは元旦の朝の歯固めの祝いの食膳にのぼせる品々なのだ。
歯は齢に通じるということで固い物を食べて長寿を祈るのだが、中納言の屋敷では姫の食膳に供されるのは大根や瓜ばかりで押し鮎などかつて出たためしがない。
そんなことは姫にはとても言えなくて毎年悔しい思いをしていた魔鈴だが、この大納言家の北の方の気配りには涙が出る思いがするのだ。
牛車を出す間際にやってきた紗伊奈に 「 北の方様より、これを姫君に、とのことでございます。」
と蒔絵の箱を手渡されたアイオリアも横から覗き込んで 「 ほぅ!」 と目をみはる。
「これは見事な! 姫君様の分には多すぎるほどだ、お前も一緒にお相伴させていただくがいいだろう。」
「ええ、ほんとに! 佳い元旦を迎えられるわ、これもみんな少将様のおかげね、なんて嬉しいこと。」
声を弾ませた魔鈴をアイオリアが引き寄せる。
「どうだ? 俺の言った通りになったじゃないか。 五月には新邸も出来上がる。
若君にお任せしておけば間違いはないのさ!」
「ええ、ほんとに…」
「それじゃ、俺も褒美をもらおうか。」
上気した魔鈴がたおやかに抱かれていった。
「若君、まもなくお屋敷に着きます。」
さきほどまでの楽しい夢にとろとろとまどろんでいた少将がアイオリアの声にはっと目覚めると、舎人が門を開け、車寄せに牛車を引き入れようとするところである。
牛をはずすのを待ちかねたようにして車から降りると、主従とも嬉しい夜を過ごして帰ってきた大納言邸は暗いうちからかなりの人の気配がするではないか。
「これは……遅すぎたか?」
「いえ、さようなことはございません。 台盤所の手回しがよすぎるだけでございます、当家は中納言邸とはちがいますので。」
「そんなことで張り合うこともなかろうに。」
笑いながら東の対に忍び戻ると、まるで見ていたかのように紗伊奈がやってきてさっそく更衣にかかり、朝帰りの少将をどぎまぎさせる。
少将が屋敷を空けたことは知らぬ者はないといってもよいほどなのだが、やはり平然としていられるような性分ではないのだ。
「もう、そんな刻限か?」
まだ夜も明けやらぬ部屋の内のわずかばかりの灯りでは赤面しているのも悟られぬのだが、とりつくろって聞いてみる。
「はい、若君様と歯固めの祝いをなされるのも今年限りということで、大納言様も北の方様もとうにお支度にかかっておられます。」
なるほど、五月にカミュと新邸に移れば来年の元旦は二人で祝うことになり、この屋敷には挨拶にやってくることになる。
カミュと二人で楽しく歯固めを祝うことを思い描いた少将の胸のうちを知っているのかどうか、てきぱきと答える紗伊奈はもう一人の女房と手際よく直衣を着付けてゆく。
やがて少将が母屋に渡ってゆくと、蘇芳の匂、紅梅の匂など新春の襲色目 ( かさねいろめ
) も美しい女房たちが新年の挨拶をするのも目出度くて、ようやくあたりには清々しい朝の気配が漂い始める。
丸い餅を二枚重ねにした餅鏡 ( もちかがみ=鏡餅 ) などの元旦の飾りを美しくしつらえた部屋で新年の祝辞を述べ合い朝食を摂るのは身が引き締まる。 それに続く歯固めの祝いも親子で祝うのは今年限りかと思うと、なかなかに感慨深いものがあるのだった。 邪気を払い長寿を祈るという屠蘇を含みながら、北の方の心尽くしで姫と魔鈴も今ごろは心豊かに祝っていることを思うと少将の胸も弾むのだ。
祝いを済ませたあとで急ぎ東の対に戻り、今度は衣冠束帯を身につける。 女房二人が手際よく着付けてゆく間にも朝の光が差し初めてゆき、新春の気は部屋に満つ。
「参る。」
着付けが終わり威儀を整えた少将が長い裾 ( きょ ) を軽やかにさばいて出てゆく姿がいかにも美しく、控えていた女房たちがひそかに溜め息を洩らして目をみはるのも無理はない。
新年の朝の凛と張り詰めた空気が少将の白い頬を紅潮させ、さらに理想の姫を得た喜びがあふれる若さをいっそう輝かせているのであったから。
「今朝の若君様のなんて麗しくていらっしゃること!」
「ほんに命の延びる思いがいたします。」
口々に誉めそやしながら今度は女房たちも自分たちの祝いの準備を始めるのだ。
東の対から中門廊を通り車寄せにゆくとすでに大納言が牛車に乗り込むところである。
続いて少将も乗り込み、左右に向かい合って座ると正装のことゆえさしもの広い檳榔毛車
( びろうげのくるま ) もいっぱいになる。
「今年の除目ではそちも中将になる。 佳きことの多き年ぞ。」
「は、 心いたしまする。」
緊張した面持ちで返答するうちに随身の声がかかり、牛車はようよう動き出す。
大路に出れば、内裏に向う牛車が道を埋めているが、先触れの声に大納言の車と見て慌てて道を空けるものも多く、諸車の軋みの中を先んじて進むのも若い少将には面映い。
大納言と同乗することは珍しいことなのだった。
「そのうちに慣れようぞ。 いずれはそちの前に道が開かれることになる。」
頬を紅潮させた少将に笑いかける紫苑の目は、さすがの余裕を見せて先を見据えている。
朱雀門を通る少将の胸を晴れがましい思いが満たしていった。
⇒ 続く