其の四 白檀 ( びゃくだん )
その日も若君にお暇をいただき、日が暮れてから中納言家に出かけていった。
昨夜に続いて今夜も部屋を空けてもらうのだからと、同室の女房に水菓子やら揚げ菓子やらとりどりに詰めた籠を手土産に持っていくと、喜んでいそいそとどこかに行ってしまった。
なにしろ今夜は若君の意を含んでの公認の外泊である。 上首尾のためには手間暇を惜しまず、費えには糸目をつけぬ若君から白紙委任状をいただいたようなものなので、手土産の中身も豪勢になり、女房をかなり驚かせたような気がする。
若君のご意向は、今夜にでも、とのことだったがいくらなんでもそれは無理無体な話だとお諌め申し上げ、ともかく今日は若君のお気持ちをお伝えするということに話がまとまっている。
話の持っていきようをあれこれ考えながらしばらく部屋で待っていると、やがて魔鈴がやってきた。
「あら、嬉しい!二日続いて来てくれるなんて!」
息をはずませて頬が上気しているところを見るとだいぶ急いで来たらしく、少し乱れた髪に手をやって恥ずかしそうになでつけているところなどたいそう魅力的なのだ。
魔鈴はこの屋敷の女房の中でも若くて美しく、客人 ( まろうど ) のあるときには必ず接待に駆り出されるので忙しいことこの上ない。
見目良い女房をかかえていることは屋敷の格を上げることになり、どこでも引く手あまたである。
魔鈴ほどの女房ならば、家格が高いとはいえないこの中納言家よりももっといい勤め口、例えば我が大納言家でも十分に勤まるのだが、姫君大事の魔鈴は
「 姫君様を置いてよそ様に行くなんてことはできないわ。」 と、他家を世話する話があっても見向きもしない。
「忙しいんじゃないの? お屋敷のほうはだいじょうぶ?」
気に掛けてくれながら手早く火桶の用意をしてくれるところなど十二分にやさしくて俺を満足させる。
「ああ、若君もお前のことはよくご存知で、今日はほら、いいものを持ってきた♪」
懐から薄紫の絹包みを差し出してやる。
「え? なあに?」
不思議そうに受け取った魔鈴が膝の上で丁寧に開いて、あっと声を立てた。
「これは白檀じゃないの! こんな高価なもの、いったいどうしたの?」
さすがに奥向きの御用を務める魔鈴は香のことにも詳しいのだ。 思わぬ高貴な香りが広いとはいえぬ部屋に満ち、目を輝かせた魔鈴はうっとりとしている。
「若君にお前のことをお聞かせ申し上げたら、お手元の香函 (こうばこ ) から取り出されて持たせてくださったのだ。」
「まあ……少将様がお手ずから…!」
思ったとおり、さりげなく垣間見せた大納言家の豊かさに魔鈴はぼうっとなったらしい。
香木は赤紫の薄様 ( うすよう =薄紙 ) で包まれており、それを包んでいる絹も最上の品で、見る人が見れば唸るような代物なのだ。
絹も薄様も若君がお選びになったものだが、こういった色合わせにはたいそう見識がおありで、およそ人任せになさるということがない。
文を書かれるときの薄様も様々な色をお持ちで、用向き・季節・などに合わせた色目の料紙にさらさらと筆を走らせ、季節の花を添えられて使いに出されるのがいつものことである。
これが女君に宛てたものなら艶っぽいのだが、あいにく若君にはいまだにそんな方はおいでにならないので、お文が届けられる先はご友人やらご親戚の尼君やら、およそ色気のないところばかりなのが残念といえば残念なのだ。
中納言家も豊かといえば豊かだが、なんといっても我が大納言家とは雲泥の差である。
中納言は従三位なのに対して大納言は正三位、その差は大きく、まして若君のお父君は来年あたりには内大臣に昇進されることが確実視されている実力者であられるのだ。
若君も中将、参議を経ていずれは大臣の座まで上り詰められるのは間違いのないところなのだった。
「よろしいですか、若君。 女人というものは誰しも美しいもの、贅沢なものを好みます。」
人払いをした部屋で俺と若君はじっくりと策を練ったのだ。
「しかし、姫君様はお淋しいお暮らしなので、いわゆる贅沢なお品はあまりお持ちではなかろうと思われます。」
「ふむふむ、すると姫に小袿でも贈ればよいのか?」
二の姫のお下がりしかお召しでないことが印象的らしい若君はそちらの方を思い付かれたらしいが、そもそもそんなかさばる物は持ち込むことさえたいへんだ。
乳母日傘でお育ちになった若君は、そういった下々の苦労はお分かりではない。
「といって、若君から姫君様にいきなり高雅なものをお贈りになるというのも考え物ではあります。
魔鈴から聞いたところでは、姫君様はお若いにもかかわらず堅実なお考えをお持ちで、急にそのようなことをなされれば、このようなけっこうな品物をいただくわけには参りません、とお受け取りにならぬことも有り得ます。
お手回りの品々がお淋しいことをこちらが知っていると思わせてもよろしくございませんし。」
「では、どうすればよいのだ? やはり文か?」
文のようなまだるっこしいものを省略してすぐにでも姫君にお逢いになりたい若君は、不満そうになさる。
「そこでです、将を射んと欲すればまず馬を射よ、と申します。」
「ほほぅ、漢籍が出たな。」
「魔鈴はあれでなかなかしっかりした女なので、こちらがいい加減な気持ちだと思われたら、姫君大事の魔鈴はたとえ若君のような都一の公達でもはねつける気位
( きぐらい ) を持っております。」
「ほぅ♪ それではそちもいろいろと苦労するであろう?」
「それはもう! 先日など賀茂の祭りに誘いましたら…いえ、わたくしのことはよろしいのです、若君。
魔鈴を懐柔するためには当大納言家の豊かさをちょっと味わわせればようございます。
」
「なるほど!すると 姫に直接贈らずにそちを通じて魔鈴に贈るのか!」
若君も合点のいったお顔をなされる。
「はい、それも普通では手に入らぬような品よきものをさりげなく贈れば、魔鈴のことですから必ず姫君様に差し上げようと考えるはずです。
そうすれば……」
「我が名が、姫にも届くという寸法か!」
「さようにございます。 さすれば姫君様も若君のことをお心にお留めになり、また、魔鈴も若君のことを、姫君様を託すにたる頼もしい殿御と思うに相違ありません。」
「ちょっと待て、アイオリア!」
「……は?」
「俺は姫と逢いたいとは言ったが、一生連れ添うとは言ってはおらん。」
「え?」
「確かにお前を通じて、こよなく美しく気立てがよく非の打ち所のない姫君だと魔鈴が言っているのは知っている。
しかし、そんなことは自分の目で確かめなければなんともいえぬではないか。
そのために忍んでゆくのだから、見込み違いであったらそれ以上通うわけにはいかん。そこのところは頭に入れておいてもらわぬと困る。」
「は、はぁ…」
俺は頭を抱えてしまった。 たしかに、魔鈴が褒め上げるからといってそれが姫君の真実の姿とは限らない。
あれだけ口を極めて言うのだからあながち間違いではあるまいが、たとえ掛け値なしの真実だとしても人間には相性というものがある。
もし若君が姫と逢ったあとで、落胆するようなことがあったら……。
せんだって、魔鈴に無理矢理読まされた源氏物語の末摘花の試しもあるのだ。
読んだときには笑ったが、なんだか他人事ではないような気がしてきたではないか。
この時代には、高貴な姫君が男に顔を見られることは、そのまま結婚と等しい意味を持つ。
たとえ若君が姫君になにもしなくても、忍んでいって顔を見たという事実があれば関係が成立したと受け止められるのが常識だ。
その結果、若君が通わなくなったら………!
捨てられたも同然の姫君はひどく傷つき、自分よりも姫君のことが大事な魔鈴は怒り狂うことだろう。
あらゆる事態を思い浮かべた俺が蒼ざめていると、
「心配するには及ばぬ。 魔鈴の言葉が真実ならば、それこそ理想の姫なのだからな。
そちは自分の想い人を信じぬのか?さて、贈るものは……そうだ、香木がよい!
かさばらぬし高雅で値も張るはずだ。 沈香と白檀と、どちらがよかろう?そちはどう思う?」
明るく言った若君はあれこれと香木をお選びになり始め、いかにも楽しそうである。
「は……白檀がよろしいかと。」
「うむ、俺もそう思ったところだ、やはりそちとは気が合うな♪」
俺はひそかに溜め息をついた。
⇒ 続く