其の五  文箱 ( ふばこ )


「あの……アイオリア…」
「ん? どうした?」
「この白檀だけど……あのぅ…」
それきり黙ってしまった魔鈴は、膝の上の薄紫の絹を撫でながら頬を染めている。
「いいよ、お前の大事な姫君様に差し上げても。」
「え……」
「そうしたいんならかまわないさ、それはお前のものなんだから。」
やさしく言ったアイオリアが魔鈴を抱き寄せた。
「あ……」
「そのかわり今夜だけは二人でそれを楽しもうじゃないか……高貴な香りに包まれて、というのもたまには悪くあるまい。 どう?」
「ええ……」
枕元に忍ばせた白檀の仄かな香りの中で過ごす夜は格別で、それを意図したわけではないが、少将の選択はアイオリアをいたく満足させたのである。

   ふうん……白檀の香りをこんなに身近に楽しめるとは、まったく少将様のお陰だな
   それにしても、上つ方というものはなんと贅沢なものだ!

本来、香木は遠火で焚くものなのだが、普段は香りの中で暮していない二人は、そばに置いておくだけの淡い香りでも十分に酔いしれることができるのだ。
はるばる異国からもたらされる香木は極めて高価なもので、ほんの小指の先ほどの大きさものでも、庶民の一家がゆうに半年は暮せるだけの代価を必要とする。 中納言家でも客人があるときに焚くくらいで、そうそう燻らせるというものではない。 それだけに少将の優雅さ、鷹揚さに魔鈴は圧倒されるのだ。
「素敵だわ……なんていい香りなの……」
「喜んでもらえてよかった♪」
「ほんとに少将様って、ご親切なお方……」
「そのことだけど…」
「なあに…?」
腕の中の魔鈴は思いもかけぬ白檀の香りにいかにも満足そうである。 頃合と見て、アイオリアは例の話を切り出すことにした。
「実は少将様には、こちらの一の姫様にお逢いになりたい御意向がおありだ。 どんなものだろうか?」
「えっ、なんですって?!」
これが驚かずにいられるだろうか。 アイオリアの仕える大納言家のミロ少将といえば都でも評判の花の公達で、女たちの集まるところで話題にのぼらぬことはない。  しばしば魔鈴を訪れるアイオリアが少将の乳兄弟らしいことが同輩たちに知れてからは、魔鈴にも羨望の眼差しが向けられているのだ。
「だって…どうして少将様が姫君様に……なにかの間違いじゃなくて?」
「お前に聞かされた姫君様の話を徒然に少将様にお話し申し上げたところいたくお心を動かされ、このたび内々の思し召しがあったのだ。 実は少将様から姫君様へのお文もお預かり申し上げている。」
「まあ……!」
よほどに驚いたらしく魔鈴は口も聞けぬ有様である。
「もう姫君様もおやすみになっておられるだろうから、明日の朝になったらお文をお目にかけてほしいんだが。」
「あ…あの……」
魔鈴は大きく息を吸った。 大事なことを確かめねばならない。
「少将様のお気持ちは本物なんでしょうね? 姫君様にお逢いなされたらきっと大事にしてくださるのよね? お屋敷にお迎えくださって、ただ一人の女君としてもてなしてくださるお気持ちがおありなの?」
「え…」
「それでなくてはだめよ、けっして浮ついたお気持ちで逢っていただきたくないの。 姫君様には幸せになっていただかなくてはならないんですもの。 どうなの?」
畳み掛けられたアイオリアは、はたと当惑した。 少将は、逢ってみなければわからぬと言うし、魔鈴は、約束しなければ逢わせぬと言う。
「それは、少将様は浮ついた気持ちのお方ではないから大丈夫だとは思うが……しかし、自分のことではないから確約はできぬ。 ともかく少将様のお文をお目にかけてくれないか? 」
「それは…もちろんお目にかけるけど……」
むろん魔鈴とて、降って湧いたようなこの話に心が動かぬはずはない。 なにしろ相手は数ある公達の中でも飛びぬけて評判の高いあの大納言家の少将である。 魔鈴はむろん会ったことなどないのだが、内裏に仕える女房たちは目が合っただけでも卒倒しそうになり、通りすがりに袖でも触れ合おうものなら末代までの語り草に、とまでのぼせあがっているという噂は中納言家にも届いているのだ。 ましてや一夜の情けをもらえるのなら命も惜しくない、とひそかな願望を持つ女房達がいったいどれほどいることか。
しかしである。 大事な姫君を、忘れられる身を嘆く恋の道に落とすことなどどうして魔鈴にできようか。 魔鈴がずっとかしずいてきた姫君は、百戦錬磨の恋多き女房などとは違うのである。 この姫君こそ、ただ一人の女君として大切に扱われなければならぬのであった。
危ぶむ魔鈴の気持ちは,アイオリアにも手に取るようにわかる。
「少将様の真面目なお心をおわかりいただきたいものだ。 そして、俺の今の気持ちも……」
「あ……」
耳元でやさしくさやかれ、双の手で抱きしめられた魔鈴が満面に朱を散らす。 白檀の香りが身にも心にも沁みていった。

翌朝、そっと身支度を整えた魔鈴が部屋を抜け出したのは空が白み始める頃である。 かすかな衣擦 ( きぬず ) れの音に目覚めたアイオリアが少し間を置いてから暗がりに紛れてあとを追ってゆくと、すぐ側の渡殿の向こう角を曲がる後ろ姿が見えた。すっと背の高い魔鈴の長い黒髪が青い衣に映えて美しく、ひそかに誇りたくなるのも男の性というものか。
角まで行ってそっと窺うと、そのすぐ先の蔀戸を上げた魔鈴がなにか言いながら中に入ってゆくのが見える。 してみると、そこが目指す部屋に違いなかった。 ほっとしたアイオリアが人目につかぬよう、急いで部屋に戻っていると、かなりしてから魔鈴が顔を見せた。
「姫君様の御用事はすんだのか?」
「ええ、待たせちゃってごめんなさい、今、こっちも用意するわね。」
「いや、俺のことはいいから若君様のお文を姫君様にお届けしてくれないか。 首尾をお気に掛けておられるに違いないのだ。 早くお返事を賜わればそれに越したことはない。」
そう言ってアイオリアが恭しく渡したものは、空飛ぶ雁に三日月を配した見事な蒔絵の文箱で、瑠璃色の細めの紐を相生結びに締めてある。
「まあ…!」
息をのんだ魔鈴が袖でそっと包むように抱きかかえると、すぐにまた部屋を出て行く。

「カミュ様、カミュ様、これをごらんくださいまし。」
出ていったばかりの魔鈴がすぐまた戻ってきて目の前に据えたものは艶やかな黒漆に金蒔絵も美しい文箱であった。三日月の青貝が光を放ち、日のささぬ部屋の中にいた人の目を惹きつける。
「……これは?」
不思議そうに見つめる姫の目に美しいものを見た喜びが宿る。 身の回りの由緒ある品々のほとんどは理屈をつけた北の方が持っていってしまったのだが、まだ手元に残されてある幾つかは亡き母の遺愛の品として姫の淋しい日常を慰めるよすがとなっている。 突然目の前に現われたこの美しい文箱は、姫の心を惹きつけるに十分だったのである。
「お驚きなさいますな。 いつかお話し申し上げました大納言家の少将様からのお文でございます。」
「………え?……少将様から…わたくしに?」
当惑したらしい姫の白い頬にわずかに朱の色が刷かれ、おずおずと伸ばされた細い指が瑠璃の紐を解く。
そっと蓋を取ると、松の小枝の添えられた文がおさめられており、焚き込められていた白檀の香りが広がった。
震える指で文を広げた姫の頬が濃い朱に染まり、白に紅梅を重ねた薄様の文字を追う目は恥じらいを宿す。
「返しを待つ、とのお心に違いないけれど………」
小さく呟いた姫が松の小枝を手に取りうつむいた。 膝に涙の雫がひとつこぼれた。


                                      ⇒ 続く