其の六  焦燥


大納言邸に戻ったのは昼近くである。
若君のもとへ参上すべく東の対の屋へ急いでいると、ちょうど大納言様と北の方様がお揃いで若君のお部屋からお出になられたところに行き合わせた。
「これは御渡りであられましたか。」
「アイオリアか。 ミロにも困ったものよのぅ、そちからも、よう ゆうてやってくれい。」
「……は?」
平伏した俺に、ほほと扇の陰でお笑いになられた大納言様が仰せになったのは、いったい何のことだろう??
「それでは、吉報をお待ちしておりまする。」
「ご案じくださいますな。」
北の方様がお二人に続いて出てこられた若君に にこやかに仰せになり、若君も微笑まれつつお返事をなされたのだった。

「言わぬことではない!」
お見送りのあと部屋にお戻りになられた若君は、打って変わって、見るからに憮然となさっておられる。
「どうなさいました?」
「お揃いで来られて何事かと思えば、昨日の朝議のあとの四方山話で互いの子女の話になり、二十歳を迎えても独り身なのは珍しいと話題になったそうだ。」
「え……」
「父上もお困りになられて、あれこれと言を左右にしてその場を取り繕っておられたのだが、同席していた公卿に ちくりちくりとつつかれて、挙句の果てに、それまで黙って聞いておられた主上が御簾の向こうで 、花の咲くまでには… 、と洩らされたという! よいか、これはもう、桜の咲く頃までには縁組を整えよ、もう待てぬ、と仰せられたも同然だっ!なんの進展もなければ、年明けにも俺の縁談に関して叡慮がくだりかねんっっ!!!! で、中納言の姫のお返事はいただけたのかっ?」
大納言様をお見送りになられたときのにこやかさはどこへやら、若君は相当にイライラなさっておいでである。 お持ちになっておられた扇で脇息をぱしっと一つ叩かれて、こちらをぎっと睨まれた。
「あの…大納言様にはなんと?」
「父上には以前から、我が妻にふさわしい姫は自分で見つける、と申し上げてあるゆえ今までお待ちくださってはいるものの、昨日のように主上の御前で引き合いに出されてはもうそんな悠長なことを聞いてはくださらぬ。」
「それにしては、先ほどの大納言様はたいそうご機嫌麗しくあられましたが。」
「畏 ( かしこ ) きあたりのお血筋の姫のことを仄めかして、その場を切り抜けた。」
「ええっっ!!」
「長らくご心配いただいている母上も、いたくお喜びであられた。 で、首尾はどうなのだ??」
先行きの不安に冷や汗が出てくるのも当然であったろう。
「……それが、まだお返事はいただけません。」
「なにっっ!……いや、しかし、すぐに返しがあるとは俺も思ってはおらん、こういうことは最初は知らぬ顔をして気を持たせるのが常套だからな。 すぐに色よい返事を書かぬほうが奥床しいというものだ。」
若君はお一人で納得してうんうんと頷いておられるが、こちらの見るところ、ことはそう簡単ではなさそうなのだ。
「それが、どうもそういうのとは違いますようで。」
「なにが違うのだ?」
ご自分に絶対の自信を持っておられる若君にはお分かりにならぬかもしれないが、魔鈴から具体的に姫君の日常を聞かされていた俺にはおぼろげながら想像がつこうというものだ。 現に、若君からのお文をお読みになられた姫君様のご様子は意外なものだった。


「ごめんなさい……お返事は差し上げられないわ。」
「だめか……まあ、初めてのお文ではしかたがない。 さぞかし驚かれたことだろうが、二度、三度と少将様がお文をおつかわしになるうちには、姫君様のお気持ちもほぐれてお返事を賜われよう。」
「それが……」
「ん?なにか?」
「姫君様は少将様のお文をご覧あそばされて……あの……」
それきり黙ってしまった魔鈴がうつむいているばかりなので俺から聞いてみた。
「姫君様にはどうなされた?」
「……お泣きになって、そのまま伏せってしまわれたの……」
「……え?」


「なぜ泣くっ?? どうして俺からの文を読んで泣かねばならんのだ? 泣かせるようなことを書いた覚えはない! 普通は頬を染めるのではないのか?!」
それは当たり前で、顔も見たことのない女君に初めて贈る文には、まだ見ぬ憧れや一目逢いたい心情などを綿々と綴るものなのだ。 畏れ多くも若君のお書きになったお文の内容などお伺いすることはできないが、この場合もそうに決まっている。
「わたくしの思いまするに、申し上げるのもはばかりあることですが…」
「もったいをつけずともよいから、早う申せ!」
いつもはゆるりとことを運ばれる若君も、いつ主上のお声掛かりがあるかわからぬ情勢にかなり焦っておられるようだ。
「では申し上げますが、当大納言家とは違い、中納言家の北の方様はかなり家計を引き締めておいでのようです。ですから、ただでさえうとまれておいでの姫君様にはろくなお身の回りのものもないように拝察されます。 そのようなお淋しいお暮らしの中で若君からのお文をお受け取りあそばされれば、ますますご自分の身の哀しさが思われてお嘆きになられたのではないでしょうか。」
「……え?」
「おそらく、お文を返そうにもお手元にはろくな料紙も筆もなく、文箱もおありかどうか、あやしゅうございます。 ましてや、若君がお出向きなされてもお迎えする部屋の調度も整わず……」
「……料紙が…ない?………わかった……もうよい…」
蒼白になられた若君が、ふっと横を向かれた。 うつむいてお待ちしていると、やがてかすかな衣擦れの音がしてこちらをお向きになられた気配がする。
「アイオリア」
「は…」
「帰ったばかりですまぬが、もう一度文を届けてもらいたい。 姫君にこちらの誠意をお分かりいただかねばならぬ。 それから今日は泊まることはならぬ。 それとなくそちの想い人に探りを入れ、中納言の屋敷が人少なになる機会はないか聞いて参れ。」
「しかと承りました。」
水浅葱に白の薄様を重ねて筆を走らせておいでの若君のおそばに侍りながら、姫君様のお心が和むのを願うことだった。

 
                                    ⇒ 続く