其の七  宵闇


「なんだか忙しそうだな、ずいぶんざわついてるがどうしたんだ?」
「二の姫様の御懐妊祈願に御屋敷中で石山詣でをなさることが急に決まったので、大急ぎでその準備にかかっているのよ。 この日取りを逃すと来年の春まで良い日がないんですって。」
「ふうん、そいつはたいへんだ。 で、お前の姫君様も行かれるのか?」
「いいえ、姫君様はお残りになられるわ。 北の方様から皆様の新年の装束を頼まれておいでになるのでお忙しいの。 もちろん、私も一緒に残らせていただくけれど。」
「じゃあ、その間は姫君様の御世話だけだから、お前とゆっくり過ごせるってわけだ!嬉しいね♪」
「あら……そんな…」
俺に引き寄せられた魔鈴が頬を染めた。

あれから毎日のように若君はお文をお書きになり、俺も毎日魔鈴に逢えるので嬉しいことこの上ない日が続いている。 それまでは若君のお側仕えという手前、そうそうお屋敷を空けるというわけにもいかず魔鈴を淋しがらせていたものだが、大手を振って出かけられるというのはいいものだ。 二日に一回は泊まるお許しもいただいたので魔鈴の機嫌もたいそうよいのだった、 といっても、若君の意を受けて、中納言家の人々が外出 ( そとで ) をする機会を探るという目的もあるのだが。
石山寺は都の東、琵琶湖の南の瀬田川河畔にあり、ご本尊の如意輪観世音菩薩は安産や厄除け、縁結びにご利益があると古来から崇敬を集めている霊場だ。都からは粟田山を越えて山科から打出の浜へ出て、そこから船に乗り換えてゆくのだが、のろのろと進む牛車での旅はたいそう時間がかかり、参籠もするのでどうしても何日か留守にすることになる。 上つ方の女人は屋敷を出るということがたいへんに珍しいので、ひとたび出かけるとなると支度を整えるのに大騒ぎなのだ。 大納言家で昨年の春に石山詣でをした折には女人方を乗せた牛車を十数台も連ね、そのにぎやかさはしばらくの間、都人の語り草になっていたものだ。
そんな石山詣でに誰も彼もが行きたがるというのに、中納言家の北の方様が姫君様に縫い物をいいつけて屋敷に残しておくというのはどう考えても酷いお扱いなのだが、これは願ってもない好機ではなかったか。
魔鈴に聞くと、こんなときだけはけっこう気前のいい北の方は、たくさんの牛車を連ね、供の者を大勢引き連れていく方が中納言家の威勢を示すことになるというので、希望する者は下働きの小女まで連れていくという。 つまり、ほんのわずかの留守居役を残すだけで屋敷はほとんど空になるということだ。
五日後の当日は、まだ夜の明けないうちから女達を牛車に乗せて供の者大勢とゆるゆると進むことになる。 なにしろ牛車は遅いので、寺に着く頃にはとっぷりと日が暮れている。 そのまま三晩 参籠し、再び帰ってくるのは四日目の夕方遅くになるのだった。
「若君、吉報にございます!」
この予定をお知らせ申し上げると、若君は俄然 勢いづかれた。
「よしっ、五日後だな!その日は俺と一緒に日が落ちてから中納言の屋敷に行き、そちは想い人を姫から引き離すようにせよ。 そのまま朝までそばに引きつけておけ。 よいな、アイオリア!」
「はっ、その儀はお任せを。」
ここまできたら魔鈴がどう言おうと、あとは若君にお任せするのみなのだ。

姫君様へのお文はあれから十日以上も続き、あい変わらずお返事はもらえなかったものの、姫君様にも若君のことが少しはお分かりいただけたらしく、魔鈴の話では毎日のお文を楽しみになさっておられるという。 そうなると姫君様としても魔鈴に若君のことを聞いてみたくなるのは当然で、都でも噂に高い大納言家の御曹司であることはどうやらお分かりいただけたようだ。
「それはよかった!」
うんうんと頷いていると、
「でもだめよ! 姫君様とはお文だけのご交際にしてちょうだい!姫君様は、ただ一人の女君として大切にかしづかれなくてはならないの。 少将様は御立派なお方でしょうけれど、そんなお立場の方はお一人の女君だけで済むはずはないわ。 女は何人もの中で愛されるよりもたった一人の女人として愛されたいのよ、姫君にはそんな結婚をしていただきたいんですからね!」
さっそく姫君大事の魔鈴にぴしっと決め付けられた。

   理想はそうかもしれないが、そんなこと言ってたら花の季節が終わりかねないじゃないか!
   若君のほかに、いったい誰がここに花を愛でに来るというんだ??
   なあに、若君は悪いようにはなさらんさ♪

「わかってるさ。 それより明日は中納言様が石山詣でに行かれるんだろう? 昼間っからお前のところに来たいのは山々だが、お屋敷の用事もあることだ。 暗くなってから来るから、朝までゆっくりさせてもらうよ♪」
「あら……」
嬉しい予感に恥じらう魔鈴がいとしくて、もう一度抱き寄せたことだった。

さて、当日である。
若君には目立たない牛車にお乗りいただき、中納言邸からやや離れたところに停めさせると  「 夜明け前にお迎えに参れ 」 といって牛車を返してしまった。 若君をご案内してそっと裏門に近付くと、なるほど門の側の小屋で顔見知りの老爺が眠りこけているだけであたりには人影もない。
「牛車溜まりにも一台も停まっておりません、首尾よくお出かけになったようでございます。」
「そうでなくては困るというものだ。」
今宵の若君はお忍びということもあって、目立たない紺藍色の直衣に蝦茶の指貫 ( さしぬき=袴のこと ) をお召しになっておられる。 宵闇の中でも匂うような立ち姿で、これならどんな女人も惚れ惚れと見とれることだろう。 それはよいのだが衣装に焚き込めた香が匂い、これで気付かれずに忍び込めるのかといささか心配になる。
「若君、風下にお立ちになりませぬと、部屋にお入りになる前に姫君様が白檀の香りにお気付きあそばすかもしれません。」
勝手知ったる屋敷内を、姫君様のお部屋近くまでそっとご案内しながらささやくと、
「うむ、そうか、そうだな、心しよう。 それから今宵の香は伽羅だ。」
「さようでございますか、次は伽羅をいただきませんと覚え切れませぬな。」
「なるほどな。 この逢瀬が叶ったら伽羅でも沈香でも望みのものをとらせよう。」
さすがに緊張した面持ちの若君からけっこうな言質をいただいたのだった。

姫君様のお部屋近くの暗がりに若君様をお隠ししてから、かねてからの打ち合わせ通りに少し離れた渡殿の柱を数回叩く。 乾いた音が響き、やがて魔鈴が現われた。
「どう? 姫君様のご用事は終わった?」
「少し待っててね、北の方様がお持ちになられた縫い物を小侍従と一緒にお手伝いしてさしあげていたところなの。 もう少しで終わるから部屋で待っていて……」
そう言った魔鈴がちょっと身を寄せてきた。 どきっとしたが、いつもこんなときには、あたりに人がいないのをみすましてさっと唇を合わせるのが俺たちの習慣なのだ。 闇の中から若君の視線を感じて一瞬 迷ったが、ここで魔鈴に怪しまれてもよろしくないし、どうぜ若君にもこのあとで夢の逢瀬が待っているではないか。

   ええい、かまうものかっ!
   今宵ばかりは、若君にも俺を見習ってもらうことにしよう♪

腹をくくった俺の口付けはいつもより長くて、腕の中の魔鈴を、そして宵闇の中に立つ若君をも瞠目させたのだった。


                                      ⇒ 続く