其の八  馥郁 ( ふくいく )


アイオリアと別れた魔鈴が部屋に戻って来たのをみすましてから、少将はあらかじめ見つけておいた戸の隙間に顔を寄せた。
なるほど床一面に様々な色の布が広げられ、仄かな灯りが室内をぼんやりと浮かび上がらせている。 一人の女がこちらを向いて針を動かしているが、うつむいているので顔立ちはよくわからない。 あとの二人は半ば背を向けているので顔はまったく見えないのだった。
「魔鈴姉さん、ここのところはどういたしましょう?」
こちらを向いている若い女がそう言ったところをみると、これが小侍従ということになる。 と、左側の女が小侍従の手元を覗き込み、なにやら教え始めたではないか。

   すると、右側にいるのが姫君というわけか…!

姫君は熱心に縫い物をしているらしく、少将のいる位置からではどのような女人なのかはまったくわからない。 しかたなく少将は魔鈴と思しき女房を観察することにした。
アイオリアの話ではなかなかいい女だということだったが、なるほど目鼻立ちのはっきりした美人でなにか言いかける表情も豊かである。 小侍従とも仲がいいらしく、時々笑い合っている声は若く華やいでいた。 それに比べると小侍従という女房はいささか地味で、優しげだがどちらかというとと十人並みの顔立ちといったところだろう。

   ふうん……アイオリアのやつめ、なかなかの女房をつかまえたものだ!

少将が感心したそのときだ。
「魔鈴、お前のいい人が来ているのでしょう? そろそろ片付けましょう。」
鈴をころがすようなやさしい声が聞こえ、少将をはっとさせた。
「カミュ様、まだよろしいのですよ。」
「いいえ、あまり待たせては気の毒というもの。 小侍従も疲れたでしょう、今宵はここまでに。」

   ほぅ! 姫の名はカミュというのか……なんとよい響きではないか!

初めて知った姫の名を口の中で繰り返していると、糸巻きでも転げたものか、姫君が左を向いて笑ったものだ。

   これは……!

ほの暗い中にあでやかな樺桜の花が咲いたようで、見つめていた少将は息を呑んだ。 少し首をかしげた拍子に 糸をよりかけたような黒髪が肩からさらと流れ落ち、少将の目を奪う。 糸巻きを拾おうと手を伸ばした仕草もたおやかでいかにも美しい。 もう少し明るいところで見たいのにと思っていると、縫い物を片付け終わった小侍従が挨拶をして一足先にさがっていった。
「カミュ様もどうぞお休みくださいませ。」
「物語を読みたいので、もう少し起きていましょう。 さあ、早くおゆきなさい、きっとお待ちかねよ。」
「はい……では。」
少し頬を染めたらしい魔鈴は寝所を整えると静かに出てゆき、あとには姫君一人が残された。
魔鈴を見送ったあと傍らの手文庫から巻物を取り出した姫君は灯りの近くににじり寄り、おそらく幾百回となく眺めて細部まで覚えてしまったであろう絵を辿りながらゆるりと巻き広げ始めた。 ときおり溜め息をつきながら見入るさまがそれこそ絵のようで見つめる少将の胸をときめかせるのだ。
最後まで見終わった姫君が巻物を丁寧に巻きなおして平打ちの紐で巻き締めようとしたときだ、かすかな軋みが聞こえると同時に灯りが揺らいだ。
「……魔鈴なの?」
声を掛けてこないことを不思議に思った姫君が振り向こうとしたとき芳しい匂いが流れ込んできた。

   魔鈴ではない…!

はっとして目を上げたとき、そこに一人の貴公子が立っていたではないか。 仄かな灯りの中では装束の色目もわからず、ただ美しい顔立ちの青年だということが感じられた。

   あ……これは………幻…?

常日頃 眺めていた物語に出てくる貴公子よりも美しい姿に姫君の目は吸い寄せられる。 やさしい面差しがこちらを見て微笑んでいた。

   …ほんとにきれい…!

うっとりと眺めていた姫君を驚かせたのは、幻であるはずの青年が発した言葉だった。
「姫………ようやくお目にかかれました。」

   ………え?

なにが起こったのかわからずに茫然とする姫君の前にひざまずいた少将に袖を捉えられて初めて、姫にも事態が呑みこめた。 それが幻などではなく実体を持った人間であることに気付いたときの恐れと羞恥は如何ばかりであったろう。
「あ……あの…」
「文をいただけぬつれなさが私を姫のもとに呼び寄せたのです。 」
思わぬことに身を返して逃げようとしたとき、膝もとの絵巻物が転がり落ちて部屋の隅まで長く広がっていった。 それに目をやった少将、
「竹取物語をお読みか。 月には帰しませぬぞ、今宵こそは我がもとに。」
落ち着いた声音でそう言いながらその場をのがれようとする姫君の長い裾を踏み、ついで艶やかな髪ごと身体をとらえて動きを封ずると、軽々と抱き上げ御帳台へ運んでゆく。 その拍子に倒れた几帳が乾いた音を立てた。
「……誰か………魔鈴、魔鈴…!」
気も動転した姫君が少将の腕の中で顔をそむけ、恐れおののきながらか細い声で魔鈴を呼ぶが、そんな声には耳も貸さずにそっと褥に抱きおろす。
「魔鈴は朝まで参りません。 姫の夜伽は、この少将がつとめましょうぞ。」

   …え? ………では、この方が少将様!

それと悟ったとき、馥郁たる伽羅の香りが姫君を包んでいった。


                                        ⇒ 続く