其の九 逢瀬
「あら? 今、なにか物音がしなかった?」
「…え? なにも聞こえなかったが……きっと気のせいだよ。」
「いいえ、そんなはずないわ! ちょっと姫君様のご様子を見てくるわね!」
立ち上がろうとする魔鈴をアイオリアが腕を伸ばして引き止めた。
「いいから、ここにおいで。 気にするなよ。」
「だって………もしも姫君様になにかあったら………ねえ、離して…!」
「姫君様なら朝まで大丈夫だよ♪」
「大丈夫って…………ちょっと、アイオリア! あなた、まさか…!」
魔鈴が顔色を変えた。
「まさか、少将様をお連れしたんじゃないでしょうねっ!!」
血相を変えた魔鈴に詰め寄られたアイオリアは考えた。
もう悟られたか……どうする?
ままよ、なるようになれっ! どうせ朝になれば知れることだ!
「今 行っても邪魔になるだけだ、なんの助けにもならないさ♪…それよりも…」
「なんてことを! 姫君様はなにも…あっ!」
素早く動いたアイオリアの唇が魔鈴のそれをやわらかくふさぎ、のがれようとするしなやかな身体はたくましい手でやさしく、しかし確実に動きを封じられる。
あ………姫君様っ……カミュ様っ………
姫君を案じる魔鈴の思いも、やがてアイオリアによって続けざまに与えられる甘美な感覚の渦に飲み込まれていった。
「姫……… よい名をお持ちだ、カミュとお呼びしてもよろしいか?」
あれから姫の震えはやまず、その初々しさが少将の胸をときめかせている。 顔を見られまいと必死にそむけているのもいとおしく、想いは募るばかりなのだ。
ついに理想の姫を得た喜びに強く抱きしめたいのは山々なのだが、あまりにあえかな姫の様子に、そんなことをすればはかなく消えてしまいそうで、そっと包み込むようにしていつくしむばかりの少将なのだった。
「突然のことでさぞかし驚かれたろうが、姫がお返事をくださらぬゆえこうして伺いました。
一言でもくだされば我慢できましたものを……私がここにこうしているのも、カミュ、あなたのせいなのですよ。」
「そんな……そんなこと………わたくしは…」
わざと困らせるようなことを言いかけてみると、腕の中の姫がそれはそれは小さな声でつぶやき、その可憐さが少将を有頂天にさせた。
流れる髪を一房取って口付けながらなおも言葉を重ねてみる。
「我が名を問うてはくださらぬのか? 姫の口から訊かれてみたい。」
名も知らぬ男に抱かれている不思議さを思ったのかどうか、少しためらったあと、紅い唇が少将にとっては宝珠にも等しい言葉を紡ぎ出す。
「……あの………御名は…?」
訊かれた嬉しさに頬が染まり、答える声は少しく震えを帯びるのだ。
「我が名は、ミロと申します。」
「………ミロ様…」
可愛い人の唇から洩れる我が名のなんと甘く聞こえることだろう。
「その名で私を呼ぶのは父上と母上のみだったが、今日からはカミュにもそう呼んで欲しい……おわかりか?」
その意味するところを悟り ぱっと頬を染めた姫の形のよい顎にそっと手を添えてこちらを向かせた少将がゆっくりと唇を重ねてゆくと、まだそうしたことに慣れぬ姫はやっと目を閉じ、息さえもとめてしまうのだ。 それと気付いて唇を離すと、今度は真っ赤な顔をして大きく息をつぎ身を震わせる。 そんな有様がどうにも可愛くてならず、今度はやわらかい首筋に唇を押し当ててやると 「あっ…」 と小さくあえいで身を縮めてしまうではないか。
「これは困った……カミュは、こうしたことがお嫌いか?」
「え……あのぅ…」
消え入らんばかりに恥じらって顔をそむけたその頬にかかる髪をかきやり、濃い朱に染まった耳朶を軽く含んでやると、こらえきれずに洩れる吐息はどこまでも甘いのだ。
「じきに夜が明ける………今宵も来てもかまわぬか? それからその次も? カミュにはもっと教えて差し上げたいことがある。」
少し震えの残るか細い身体を抱きしめてそっと耳元でささやいてやると、はっと息をのんだのはこの先のことをまったく予期していなかったのかもしれぬ。
「……いかが?」
重ねて問うと、一つ息を吸ってから、
「どうぞ……いらして…」
やっとの思いでそう答えると恥ずかしさのあまり突っ伏してしまい、もう少将の顔を見ることさえできぬのだ。
身の丈に余る美しい髪をかき寄せていとおしげにととのえてやった少将が名残惜しげに立ち上がり身支度を整えている間もじっとして息をひそめているのがわかり、その愛らしさが少将を微笑ませる。
そのままでは去りかねて、伏している姫にもう一度身を寄せ、上気した頬に口付けた。
「今宵も参ろうぞ…」
そうささやいて、まとっていた二藍 ( ふたあい ) の衣をふわりとかけて真心の証しとすると、後ろ髪を引かれながらその場を離れたのだった。
その後ろ姿をそっと見送りながら、少将に贈れるような衣のないことを悲しく思った姫の心を伽羅の香がやさしく満たしていった。
⇒ 続く