時代考証 第三十一回
箱根の夜は冷える。
昨日まで滞在していた北海道よりはかなり南に位置するのだが、周りの木々の葉の色も秋めいて、朝夕の冷え込みはかなりのものだ。
本人たちはさほどにも思っていないのだが、贅沢な夕食を時間をかけて楽しんだあと、ミロは早目に寝室へとカミュを誘うことにした。
なにしろ、起きていても何もすることがない。
日本のテレビを見ていても、そもそも言葉がわからないので、どうにも内容が理解できないものがほとんどだ。
ミロは、日本に来てから、温泉紹介の番組が気に入って何回か見ることに成功しているのだが、今夜はそれもないようである。
とすれば日本のフトンを楽しむことに時間をかけようというのが道理だろう、というのがミロの論理的思考なのだ。
「しかし、今夜は第三十一回の時代考証をせねばならぬ。」
「いいんだよ、それは。 項目が少ない、って言ったのはお前じゃないか。 すぐに終わるから、どうせならフトンの中でやったほうが、
移動しなくてすんで合理的だろう ♪」
渋っているカミュをフトンに引き込むなど、ミロにとってはお手の物なのである。
「どう? ここの方が暖かくていいじゃないか。 終わるまで何もしないって約束するからさ ♪」
「そう願いたいものだな。」
カミュがいささか疑わしそうな目で見たが、ミロに動じる気配はない。
「俺を信用しろよ、はやく頼むぜ!」
「うむ………今回は、お前にも想像がつくだろうが 『 五体投地 』 、これ以外にはない。文中にもおおよその説明があるので、
少しだけ補足をする。
五体投地はチベット仏教で広く行なわれており、聖地への巡礼でも、しばしばおこなわれる。 聖地カイラス山は標高6656m、
カイラスとは 「 尊い雪山 」 の意で、誰も登ってはいけないことになっている。巡礼者は、この山の標高5000m付近を13周して
帰るということだ。できることなら、一周は五体投地で回るのが夢だ、という巡礼者もいるという。」
「なにっ?! 標高5000mといえば空気も薄くて、とてつもなく大変じゃないのか?」
「聖地への巡礼というのは彼らの夢であり喜びなのだから、苦ではないのかも知れぬ。
半年かけて歩いてくる者もいるという。
ちなみにこの山を一周すると52km、それを一日で回る。」
「………え? 標高5000mで一周52kmを五体投地で進むといったいどのくらいかかるんだ??本当に可能なのか?」
「さすがに私も計算しかねるが、体力さえ許せばやってみたいのだろうな。」
ミロは唸らずにはいられない。
「体力なら俺たちも十二分にあるが、あの五体投地で52km進みたくはないぜ、俺はチベット仏教でなくてよかったな。」
そこでミロはふと考えた。
「もしかしてシャカもやったことがあるのかな? 五体投地……」
「さあ………ただ、五体投地というのは、膝や額をかなり激しく大地に打ち付けるようにも思われる。そのために、遠方から五体投地
で巡礼する者は、専用の皮のエプロンや額の保護具をつけるらしい。あのシャカがそのようなことをしたかどうか?」
「ふうん……どちらかというと、シャカは瞑想タイプだからな。 しかし、こんなことを訊こうものなら何時間宗教談義に引き込まれるか
知れたものではないな。 それにシャカは、チベット仏教というよりはインドで修行したはずだから違うのかもしれん。」
天井の木目を見ながら話していたミロが、ふと黙った。
「どうした?」
「いや、ちょっと思ったんだが……俺たちのいる聖域十二宮も、当然だが聖地だ。 ただ、結界があり普通の人間は足を踏み入れる
ことはできん。 もしも、結界がなければ、そのカイラス山みたいに巡礼が来るのかと思うと不思議な気がする。」
「そうなれば、お前も天蠍宮を留守にするわけにはいかぬな。 澄ました顔をして自宮に鎮座していなくてはならぬということになる。」
「う〜ん、そいつは今さら無理だ、俺は今のままでいい。 外に出るたびに五体投地で拝まれるのはかなわんからな!」
「私もだ。 どう考えても恥ずかしい……」
「ふふふ、お前はすぐ恥ずかしがるからな!」
カミュが、あっと思ったときには、もうミロの腕が伸び、抱き寄せられている。
「あ……ミロ……ちょっと待って……」
「いやだ♪ 俺はお前を抱きたいんだから、待たない♪」
慣れた手つきで浴衣の襟元をくつろげさせたミロが唇を押し当ててゆくと、もうカミュはひとたまりもなく浅い息をつくしかないのだ。
「でも………まだ……あ……」
「ううん、もう時代考証は終りだ………これからはカミュ考証をさせてもらう ♪♪」
くすっと笑ったミロの手が、それでも律儀に灯りに伸ばされた。
あとは闇の中でひそやかな声がするばかりある。
開けてあった窓から、金木犀が甘く匂ってきた。