「それは……」
「わしももう年じゃ。たしかに肉体は先の聖戦時と同じ十八歳だが精神的には年寄りじゃな。昔のようなのんびりした時代ならともかく、昨今の世界情勢の変化のスピードにはとてもついていけん。そこでかねてより今の黄金の中から次代の教皇を継ぐ者を選考していたのだが、アクエリアスのカミュよ、おぬしが人格識見ともに適任だとわしは思う。むろん、このような重大事をわしの独断で決めるわけにはいかぬ。まずは本人の同意を得て、しかるのちに他の黄金に図り、全員の意見の一致をみた上でアテナに上申する。いますぐ返事をしろとは言わぬ。一晩じっくりと考えて返事をくれればよい。」
「しかし!……わたくしのような若輩者がそのような重責を務めることはとても…」
カミュの声が震えた。カミュは黄金の中でももっとも若い年代だ。アイオロスはすでに亡いが、年長のサガもいればアフロディーテ、シュラ、デスマスクの年代もいる。
「最初は誰しもそう思うものだ。現にこのわしもまさか自分が教皇になるなどとは思いもしなかった。だが先の聖戦で生き残った者が少なすぎてのぅ。」
「は…」
「案ずることはない。先日 おぬしに聖域に来てもらって組織改革について意見を聞いた時も極めて的確な判断をしたではないか。昨今のギリシャの金融不安についての意見も聞くに値する。これなら教皇の責務を任せるにふさわしい。それにおぬしが教皇になっても凍気の聖闘士の立派な跡継ぎも居るではないか。あれはもう一人前じゃ。自分が育て上げた弟子に宝瓶宮を継いでもらえればそれにこしたことはないのだ。おぬしが教皇になるのを妨げるものはなにもない。」
「………」
「この件についてはずっと以前から考えておったが、おぬしにとっては急な話だ。すぐに結論は出ないのも無理はない。よく考えてくれい。」
「はい…」
黙って頭を下げたカミュはシオンが横になるのを見届けてから明かりを小さくすると静かに襖を閉めて八畳間に戻ってきた。
(カミュっ!)
蒼白になったミロがカミュの手をつかんで外に出た。震える手で玄関を閉めると飛ぶような速さでホールにやってきて、娯楽室に誰もいないのを確かめると目立たない隅にカミュを連れ込んだ。
「おいっ!どうするんだっ!まさかあんな話を受けるんじゃないだろうなっ!?」
声を抑えているが今までにないほど動揺しているのがよくわかる。
「私だって……それは私だって受けたくはない。しかし……」
「じゃあ、断れ!迷うことはない!教皇なんかになったら……!」
俺たちはどうなる! と喉まで出かかった声をミロはかろうじて押しとどめた。

   カミュだってそんなことは百も承知だ
   もう宝瓶宮には住めない  次の主は氷河だ
   天蠍宮に来るのも稀になるだろう
   いや! 万事において潔癖なカミュはおのれが教皇位についたら俺との関係を続けることを潔しとしないことは目に見えてる!
   もうカミュを抱けない!……二度と一緒に暮らせない!

   しかし……だからといって俺が異議を唱えられるのか?

はるかに年長のシオンが熟慮して最適の人選をしたと明言しているのに、恋人を取られるのがいやだなどという私的過ぎる理由で反論できるものではないのだ。
「私が固辞したらどうなる? 嫌がるものを無理に教皇にはできないが、私が断ったら誰が次の教皇に? シオンが私を選んだのにそんなことをしたらそれは不誠実だ。アテナにも聖域にも非礼になる。そんなことは…できない。」
「でも、カミュっ!」
うつむいたカミュの両肩をつかんで揺さぶったとき、玄関のほうでタクシーが停まり、客がやってきた気配がした。美穂が出迎えている声がする。
「ここでは落ち着いて話ができない。聖域へ行こう!」
その場でカルディアにテレパシーを飛ばす。
  (ちょっと用事ができたので二人で聖域に行ってくる  朝までには戻るから)
  (…わかった。あとのことは任せろ。)
シオンの話を聞いてから小宇宙が乱れまくっていたのでカルディアとデジェルも何事が起ったのかと気にしていたに違いないが説明するのはまだ早すぎる。カミュの意思を確認して、なおかつこの望ましくない将来を回避する手段を考え出さなければならないのだ。
「こちらが娯楽室になります。朝6時から夜は22時までご利用になれます。」
「ずいぶんたくさん本があるんですね。」
「はい、北海道の最新情報も揃っております。」
客の荷物を持った美穂が誰もいない娯楽室の前を通っていった。

日本とギリシャの時差は7時間だ。
昼下りの十二宮はいたって平穏で穏やかな時間が流れている。 あらたに二つの人影が降り立った天蠍宮を除いての話であるが。
「どうする!どうすればいい!?」
勝手知ったる自宮でミロがいらいらと歩き回っている。
「なんとか回避する手はないのか?アテナに直訴するとかは?」
「無理だ。断る理由をなんと説明するのだ?シオンはあの空白期間を除いても極めて長い年月を教皇職にとどまって聖域を統括してくれている。それにひきかえ私は……この十二宮を離れて他国で自由気儘な時を過ごしていたのだ。なおもその享楽を手放すのはいやだなどと、どうして言えようか。」
「それは…」
それはミロにもよくわかっている。十二宮から一歩も離れていなかったとしても断るのは難しいというのに、いくら最初はアテナからの内命だとはいえ日本滞在はあまりにも長くなっていた。
「どうしても断れそうにないのか…?」
「条件が良すぎるというか、悪すぎるというべきか………シオンの言った通り、私には氷河という後継者までいる。私が教皇になっても宝瓶宮が無人になることはなく、黄金の数も変わらない。後進に道を譲るという観点からいってもシオンの選択は正しいのだろう。」
「カミュ……」
もう耐えきれないと思ったミロがカミュを引き寄せた。もしもそれが現実になったとしたら、この天蠍宮でカミュを抱くことも数えるほどになるのではないかという思いが胸を締め付ける。それどころか、カミュの性格からして一切の私的接触を断つことも考えられた。
「氷河が黄金になるっていうことは、つまりアクエリアスの聖衣を手放すということだろう? 俺は……あの聖衣がほかのやつのものになるなんて認められない!そんなことがあってたまるものか!」
「ミロ…」
「あれはお前のものだ。あの聖衣の類まれな美しさもお前がいなければ色褪せる。お前が……お前こそがアクエリアスなのだから………」

   氷河はなにも悪くない
   でも俺はアクエリアスの聖衣をまとった氷河なんて見たくない!
   どうして同じ黄金の同僚だなんて思えるはずがある?
   もしも……もしもカミュが教皇服を着ることになったら 俺にはそれが葬服のように見えるだろう
   そんなカミュの前にひざまずいて話をするのか?
   俺はそんな意味でひざまずいてきたのではないのに!

「来てくれ!」
「あっ…」
沈んでいるカミュの手を引いたミロが寝室のドアを開けた。