ゆとりはなかった。切羽詰まってほかのことは何一つ考えられずに無我夢中で愛し合い、それからやっと、このことを現実のものとして受け止めようという気持ちになった。
「サガじゃだめなのか?現に教皇補佐をやってる。」
「サガは……過去の経緯があるから無理だろう。仮にシオンが求めても固辞すると思う。たしかに今のサガは善そのものだが聖域の多くの者があのことを知っていると思うとサガにはとても耐えられるはずがない。補佐という立場だから踏みとどまっているだけではないだろうか。私の名が上がる前にシオンもそのことは検討し尽くしたはずだ。そして私を選んだ。今さらそれが覆るとは思えない。」
「でも……お前はまだ若い。シオンの後釜は荷が重すぎるだろう?」
「おそらくサガが教皇補佐にとどまるのかもしれぬ。 私とて、もしも教皇になったらサガにいてほしい。自分だけでは不安が先に立つ。」
ミロは嘆息した。
たしかにサガは実務にたけているし年長で、カミュが職責を果たす際におおいに力になってくれることだろう。もともとサガを尊敬しているカミュとは車の両輪のようにうまくいくはずだ。

   悔しいが、俺はそういう方面のことはからっきし苦手だ
   カミュを精神的に支えることはできても実務の補佐なんてとてもできん
   だからといって、はい、そうですか、と言えるか?

たとえミロがサガと同等の実務能力があったとしても、カミュがサガを差し置いてミロを補佐役に選任するとは考えにくい。ミロとカミュの関係を知っている者は数多いのだ。今は誰も気にしないでいてくれるが、ひとたびカミュが教皇になったらそれは通用しないだろう。ミロを補佐役に選ぼうものならカミュの前途には最初から暗雲が立ち込める。もとより公務に私情を持ち込むことを潔しとしないカミュは、ミロを補佐役には選ばない。
いずれにせよミロが補佐役になることは有り得ないのだ。

   つまりこれからの俺たちは顔を会わせるだけの関係になる
   カミュが聖域に戻れば俺も日本にいる意味がない
   宿を引き払って、一人寂しくこの天蠍宮に籠る羽目になる
   余計な噂が立たないように、カミュが独りで訪ねてくることはほとんど期待できないだろう
   来てもサガ同伴か? くそっ!

考えれば考えるほど、望ましくない未来が見えてくる。シオンがときたま愛弟子のムウのもとを訪ねて息抜きをするように、カミュも宝瓶宮を守る氷河を訪ねてくるのだろうか? そんなとき万事に気をきかせる氷河が師の親友のミロを呼ぶことも予想されるが、どうしてそんなところに顔を出せるだろう。

   口惜しくてカミュの顔も見られないだろう
   それがわかっていて、どうしておめおめと顔を会わせられるものか!
   しかし、それを拒めばカミュに会えるのは教皇宮に伺候するときだけだ
   そんな………そんな馬鹿な話があるかっ!

ミロがどんなに切歯扼腕しても、カミュが教皇になるのは避けられない事態のように思われた。逃げようがないのだ。誰かがしなければならない義務を私的な事情を言い立てて逃れることなどできるはずもない。
「俺たちには……どのくらい時間が残ってる?」
「ひと月より早いということはないだろう。みなの同意が得られてアテナの承認が下りても、引き継ぎや学ばなければならないことがたくさんあって………あぁ、ミロ……」

   なぜ私はこんなことを話しているのだろう
   教皇になどなりたくない
   これから先もずっと宝瓶宮を守って、黄金の一員として生きてゆくのだとばかり思っていたのに……

ミロと離れなければならないだろう不安と心細さがカミュを動揺させる。ミロに思いを告げられた日から一日として忘れることなく共にある日々を過ごしてきたカミュには、ミロのいない時間を想像することは難しい。
教皇には自由な時間があるとは思えない。常に聖域全体のことを念頭に置き、地上の平和と安定を守ることに心を砕くのが教皇というものだ。時として自由気儘にふるまっているように見えるシオンが実は行き届いた配慮をしているのをカミュはよく知っている。つまり、シオンはカミュがそれをできると見極めたうえでこの人選をしているのだ。
「ミロ……私はとてもお前を愛している。それを忘れないでほしい。」
「カミュ……」
「いつでもどこにいても私の心は変わらない。心の底からほんとうにお前を……」
あとは言葉にならなくてカミュはただ泣いた。あふれる涙がミロの胸を濡らし声を殺した嗚咽がミロの心を揺さぶった。
「いやだっ、カミュっ……今さら心だけのつながりだけなんて……俺はっ…」

   でもどうする? 俺にいったい何ができる?
   まさか駆け落ちもできないし……だからと言って唯々諾々とカミュが教皇になるのを指をくわえて見ているのか?
   死が二人を分かつまでと思っていたのに、これが俺たちの運命なのか?

今にも落ちかかってくる斧を待つような気がして落ち着かず、一睡もしないでついに日本では夜が明けようとする頃になってやっとカミュが起き出した。
「もう朝になる。戻ったほうが良い。」
「ん………そうだな。」
「ミロ……シオンも先の聖戦後の気の遠くなるような時間を教皇として聖域の復興と維持に努めてくれた。そして若かった童虎は五老峰の大滝のそばに座し続けてついには老師のお姿になられたのだ。それを思うとこの平和時に教皇職に就くことを拒む理由は何一つない。わかってくれるか?」
「……わかる……わかっているよ、カミュ……」
理性ではわかっていてもミロの心が、全身が悲鳴を上げた。二度もカミュを失って、今度は生きながら二度と逢えない別離の道を歩むのだ。もう人生が交わることはなくなるだろう。
「戻っても笑えないかもしれないな。もう笑う自信がないよ。」
「ミロ……」
「カルディアとデジェルになんと言おう?泣かずに言える自信がない。……だめだ…とても無理で…」
ミロの声が震えた。教皇になることを受け入れたように見えるカミュを心配させてはならないと思うものの、カミュを失うという衝撃は大きくて自分を律することができないのだ。
「ミロ……」
「ごめん……カミュ……俺…」
「泣かないで……ミロ………ミロ…」
そのままミロは男泣きに泣き、ようやく落ち着きを取り戻して宿の離れに戻ったときにはすっかり夜が明けきっていた。