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そっと離れに戻ると奥の部屋からシオンの寝息が聞こえている。本当に眠っているのかは定かではないが、とりあえず起きているシオンと顔を会わせなくて済んだのには二人ともほっとした。あらかじめ打ち合わせていた通りにそっと浴衣とタオルを抱えて露天風呂に向かう。天蠍宮で入浴する時間はなかったし、離れの内風呂ではシオンが目を覚ます。家族風呂も朝は利用できないので露天風呂が最後の選択だ。 「誰もいないといいな。」 「今さらほかの客に会ってもかまわぬ。そんなに気にするほどのことではないのはよくわかっている。」 「思い切り開き直ったな。恥じらうお前もよかったんだが。」 わざと元気よく言って脱衣室の扉を開けるとはたして誰もいない。 「お前がせっかく他人にお披露目する覚悟を決めたのに貸切だぜ。」 そう言ってからカミュの 『 覚悟 』 に思い当ったミロが唇を噛んだ。 昨日までの俺たちとは違う すでにカミュは教皇になる覚悟を決めている なんてことだ……… そんな鬱屈した思いを抱えていても朝の露天風呂は気持ちがいい。何杯か湯をかぶってからざぶりと熱い湯につかると何もかもが流れ去っていくような気さえする。 「やっぱり気持ちがいいな。」 「ほんとに。」 「このままずっとこうしていられたらいいのに。」 「ん……」 流れ込む湯の音と小鳥の声しか聞こえない朝の気配が波立つ心を鎮めてくれる。そのまま無言で湯につかっているとからりと音がして誰かが入ってきた。年配の泊り客がざっと湯をかぶってから二人から少し離れたところで湯に入ってきた。 「おはようございます。」 「おはようございます。」 どちらからともなく挨拶すると、泊り客はそのまま打たせ湯のほうに歩いて行って岩の向こうに姿を消した。 「せっかくの機会だったのに、これじゃ他人と一緒に入ったとは言えないな。」 「では夕食前にもう一度リベンジを。」 「そんなに気合を入れなくてもいいと思うが。」 「そうか? なにごとも経験だ。」 そんな軽い返事さえミロには重く響いてしまう。 「その……」 「え?」 「シオンには…いつ云うんだ?……あのことだが…」 「ん……朝食後にでも言おうかと思う。催促されるまで言わないというのも優柔不断すぎるだろう。」 「そうだな……」 あ〜、また落ち込んだ……だめだな、どうしても前向きに考えられない……くそっ! 唇を噛んだミロがいきなりざぶりと湯に潜った。長い髪を包んでいたタオルがほどけて湯の中に広がった金髪がゆるやかに渦を巻く。 「ミロ、なにを…!」 カミュが注視していると水中で何度か頭を揺り動かしていたミロが顔を出した。 「あ〜、さっぱりした!いくら考えてもなんにもならん!前向きになろうと思っても、その方向性さえ思いつかないんだからな。」 長い金髪が肩を覆って身体に張り付いているのは珍しい光景だ。 「もう目は赤くないか?泣いてたって思われたらスコーピオンの沽券にかかわるからな。赤いのは真紅の衝撃だけでたくさんだ。」 「ん……大丈夫だと思う。私はどうだろう?」 「お前も大丈夫だ。いつもと同じきれいな青だ。」 「虹彩が青いのは当たり前だろう。私の言っているのは白目のほうで。」 「わかってるよ、そっちも大丈夫だ。たとえお前が教皇になっても、お前のきれいな青い目は変わらない。その目でいつも俺を見ていてくれ。どんなときでもお前のことを思ってるから。」 「ん……」 「泣くなよ。戻ってきたからにはもう泣くわけにはいかない。男が人前で泣けるか!全部この湯に流そう。」 両手で湯をすくったミロがざぶざぶと顔を洗ってぴしゃっと頬を叩いた。 「よし!行くか!」 「うむ…」 二人で湯から上がると入れ替わりに二人の客が入ってきた。知らない者同士が軽い会釈をして朝の挨拶を交わす様子は日本中の温泉で見かける光景となんら変わることがない。 「やったね!お前の温泉デビューだ。」 「ちょっとどきどきしたが。」 「ここに来てもうじき九年になるんだぜ。免疫がつくには十分だろう。」 ← でも永遠の二十歳 脱衣室で真っ白なバスタオルを使いながらミロがしきりに話しかける。 「教皇になってもたまには休暇を取れ。もちろん日本の温泉で息抜きだ。シオンだって来るんだから、なにも遠慮することはない。」 「わかった。」 「俺が護衛じゃ、まずいかな、やっぱり。」 「…さぁ?」 「スナイパーとしては一流だ。あらゆる危険からお前を守ってやるから安心してくれていい。スズメバチが大挙して襲いかかってきても瞬殺だぜ。」 「では頼もうか。」 くすっと笑ったカミュが頷いた。嘆いていても始まらない。この事態を前向きに受け止めて進むしか道はないのだ。 ミロも難しいことを考えるのはやめにした。悩んでも事態はなにも変わらない。 なにも死ぬというわけじゃないし、聖戦が勃発してぎりぎりの選択を迫られているわけでもない カミュは聖域をうまく切り盛りし、みんなをうまく導いていくだろう 俺は一人の聖闘士として忠実に仕え義務を果たす それでいいじゃないか 恋は……その時はそのときだ ともかく悩むのはやめよう 濡れた髪は一気に小宇宙で乾かしてさっぱりとした気分で離れに戻ると玄関先にカルディアとデジェルがいた。 「遅かったな。もう朝飯の時間だから待っていた。」 「ああ、すまない。あまりに朝風呂が気持ちよくて。」 言い訳しながら玄関を開けると、ちょうどシオンが部屋から出てきたところだ。 「おはようございます。よくお休みになれましたか?」 「ああ、よく寝た。フトンというものはなかなか寝心地がよい。わしの寝室でも使ってみたくなったが、どう思う?」 「え? 布団をお買い求めになりますか?そういたしますと…」 突然の話題を振られたカミュが布団を誂える寝具店の選定や布団一式を梱包して航空便でギリシャに送ることを頭の中であれこれ検討していると、 「ああ、面倒なことは要らぬ。ムウを呼んで一気にテレポートで持ち帰らせるから気にせんでいい。」 そう言ったシオンが先に立って食事処に向かう。教皇職継承の件には触れようともしないのがとりあえずはミロとカミュをほっとさせた。 玄関に鍵を掛けてから回廊を歩いてゆくと、カルディアがミロの袖を引く。 「おい、昨夜はなにがあった?俺に話せないことか?」 「え……それは…」 さすがにミロの顔色が変わる。当のカミュがまだシオンに返事をしていないのに、ミロから話せるわけがない。この様子に気が付いたデジェルがちらりとカミュを見たが、普段となにも変わりがないように見える。 昨夜のミロたちの小宇宙の動揺は激震というにふさわしく、シオンのいない離れでゆったりと寛いでいたカルディアとデジェルを驚愕させた。 「おい、今のはなんだっ?ミロのやつ、めちゃめちゃに動揺してるが!」 「カミュも様子がおかしい!こんなことは初めてだ!」 顔を見合わせて息を呑んでいるとしばらくしてミロから短いテレパシーがあり、二人が聖域へ行くのがわかったのだ。 「どういうことだ?」 「聖域でなにかあったのだろうか?」 「それにしてはシオンが寝てるぜ。緊急事態勃発ならシオンを叩き起こして一緒に行くに決まってる。それ以前にシオンのやつはまだ眠ってもいない。シオンだってあの小宇宙に気付いたはずなのに、そのシオンを置いていくんだから、もっと私的な用事じゃないのか?」 すでにミロたちの小宇宙は消えている。シオンは平静を保っていて何も変化は見られない。 「私的な用事であれほどの波乱を起こすものとはいったい?」 「ともかく朝までには帰ってくるというんだからそれを待とう。俺たちにはどうしようもない。」 「そうだな……ほんとうに私的なことで私たちにはまったく関係がないことかもしれないし………たいしたことがなければいいのだが。」 「そうだな。そうかもしれない。だが、シオンがいるのが気にかかる。あいつがここに来たこととなにか関係があるのかもしれん。」 「うむ…」 明かりを消しても漠然とした不安を抱えたままの眠りは浅く、目覚めるたびに隣の小宇宙を探ってみたが夜が明けるまで二人は帰ってこなかった。 → |
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