、
第七夜 「シオン」 「お客様がお着きになられました。」 「わかった。いま行きます。」 受話器を置いたミロが振り返った。 「美穂からだ。ほんとに来たぜ。ついに教皇のご入来だ。」 「カルディアたちもいることだ。なんとかなるだろう。」 「だといいんだが。」 覚悟を決めたミロがカミュに続いて玄関に向かう。そう、今日はシオンがこの宿にやってくるのだ。 玄関ホールに向かう途中でやはり連絡を受けたデジェルと合流する。 「あれ?カルディアは?」 「それが…」 たまたま昨日から宿泊予約のキャンセルが入って隣の離れが三晩空くことになったので、そうしたときには内々で部屋を回して欲しいと頼んでいた甲斐があり自分たちだけの離れを手に入れたカルディアとデジェルは久しぶりに私的な時間を楽しんでいる最中だ。 そこへ突然のシオン来訪の知らせが入ったのだからカルディアが面白いはずがない。 「なんだって、このタイミングで来るんだ?あいつ、空気が読めなさすぎる!それでよく教皇なんかやってられるな!ほかに人材はいないのか?有り余る暇を使って俺達の邪魔を する気かっ?」 「カルディア!そんなことを言ってはいけない!仮にも、いや、シオンはれっきとした教皇だ。私たちが蘇生したあともなにかと面倒をみてくれて、現に日本でこんなに不自由なく過ごさせてもらっているではないか。」 「面倒っていっても、心臓移植はアテナの口利きで日本の病院でやってもらったし、その日本に付き添って来てなにかと面倒をみてくれたのは童虎だぜ。で、そのあとはミロとカミュのところに寄宿 してる。これのどこにシオンが関係してるんだ?」 「でもシオンは教皇だから全体の統括を…」 「年下のシオンを出迎えに行く義理はないね。俺達は現役聖闘士じゃないから聖域の組織図の中にも入っていない。唯一の関係は243年前に同期だったというだけだ。ここはミロとカミュの滞在地だから百歩譲ってシオンが来るってのはしかたないが、俺は出迎える気はない。滅多にないキャンセルのおかげでやっともう一つの離れを自由に使えるのに台無しにされるんだぜ、許せんな!」 デジェルがいくら言ってもカルディアの不機嫌は収まりそうにない。 「しかたがない。では、私だけ行ってくる。」 こうした経緯でデジェルだけが離れを出てきたというわけだ。 「あ〜、なるほど。カルディアの気持ちもわかるな。俺たちは現役だからシオンに頭が上がらないが、そっちは対等の同期でおまけに年上だし。」 「カルディアもいい加減でそんなことにこだわらなければいいのに…」 「シオンがしばらく滞在しているうちに気分もほぐれるのでは?温泉に入れば打ち解けられるかもしれぬ。」 「だといいのだが。」 そんな話をしながら玄関ホールに行くとたしかにシオンがいた。ムウにでも世話をしてもらったのか、ブランド物のトランクを横に置き、センスの良い現代風のファッションに身を包んでいるのでごく普通の観光客に見えるがボリュームのありすぎる髪と丸い眉が異彩を放っているのはしかたがない。 う〜ん、やっぱり違和感ありまくりだな 教皇服でないのには安心したが、そもそも私服のシオンなんて見たことないし 今から思えば、シャカが来た時のほうがよっぽど背景に馴染んでたと思う 「みんな元気でおるか? カルディアはどうした?出迎えに来れんのは、まさか心臓の具合が悪くなったのであるまいな?」 「ええと、カルディアは…」 「今朝からちょっと熱っぽいらしくて大事をとって部屋で待っているそうです。」 言葉を濁したデジェルの横からミロが素知らぬ顔で言い訳をする。 「そうか、それはいかんな。アテナも心配しておられたぞ。カミュ、検診はちゃんと受けさせているのだろうな?」 「はい、ご安心ください。検査結果はそのたびに教皇庁に転送していますが、変わりはありません。」 「それならよかった。では、わしは言葉がわからんから宿帳とやらを書いてくれい。」 「はい。」 デジェルと喋りはじめたシオンから離れてカウンターで宿帳を書き始めたカミュがミロを呼ぶ。 「どうした?」 「職業欄にはなんと書けばよかろう?」 「そうだな……宗教法人代表者のような気もするが、そこまで正直に書くのもちょとあれかな?………そうだ!団体職員っていうのはどうだ?よくわからんが、なんとなくそれっぽい。」 「なるほど、確かに。」 団体職員とは公務員や会社員ではなく、法人、政党、農協などの非営利団体に所属する職員のことだ。アテナとともに地上の平和を守る聖域の存在の位置づけについてはミロにはよくわからないが、宿帳に書くにはこの名称でいいだろう。 「シオン様はどちらの離れにご滞在なさいますでしょうか?」 これは美穂にしてみれば当然の質問だ。アメニティや浴衣などの備品、床を延べに行く都合があるので確認する必要がある。 「ええとそれは…」 ミロの胸中で一瞬の葛藤があった。 シオンは先代組なんだから当然カルディアのほうだよな だいいち俺たちのほうに来られたら話の継ぎ穂がない なにを話せばいいのかまったくわからん だからといってカルディアのほうに行ったら、もしかして一触即発か? シオンに遠慮がある俺たちと違って、カルディアは最初っから上から目線だったし 二人っきりの蜜月を邪魔された不機嫌は半端じゃないからな……う〜ん…… しかしその葛藤はデジェルの一言であっさりと片付いた。 「私のほうでお願いします。」 「ではそのようにご用意させていただきます。」 「荷物は私が持ちますし説明もするのでご心配なく。」 「まあ……申し訳ございません。ではただ今お茶を淹れに参上いたします。」 お茶くらいはこちらで淹れると言おうと思ったミロだが、日本の宿のサービスをシオンに知ってもらうのもいいかと思い美穂に任せることにした。 「荷物は俺が持つから。先代にそんなことはさせられん。」 「でも…」 いったんデジェルが持ったトランクをミロがさりげなく奪ったのはカルディアの気分を考慮したためだ。 デジェルが鞄持ちのようなことをしているのをカルディアが見ようものなら 「そんなことをする必要がどこにある!」 って、ますますつむじを曲げる可能性があるからな それに比べて、俺やカミュがシオンを立てるのは当たり前だし ミロが目くばせしたのでデジェルもミロの意図を悟ったらしい。回廊を歩きながらシオンに日本の習慣や気候のことを話しはじめた。 「そういえばカルディアたちがこの宿に来てからちょうど一年になるんだな。」 「たしかにあれは九月末だったと思う。早いものだ。」 「はじめて露天風呂に連れて行ったときの驚きったらなかったな。それは俺だって最初は思いっきり驚いたものだが。」 すると話を聞いていたシオンが口を挟んできた。 「風呂のことはサガから聞いておるぞ。実に面白い。あやつはわしの供をしたいらしかったが、それでは教皇補佐が不在になる。わしとて休暇などというものは初めてじゃからな。今回はおおいに羽を伸ばさせてもらうつもりじゃ。」 「は、どうぞごゆるりとお過ごしください。温泉も日本食もきっとお気に召すものと思います。」 カミュが殊勝にそう言ったのでシオンはいたくご満悦だ。 「ほんとにカミュは気がきくのぅ。いまどきの若いものは落ち着きが足らぬ者が多いがさすがはアクエリアスじゃ。」 「過分にお褒めいただきまして恐縮です。」 カルディアとデジェルのいる離れはミロたちの離れとは隣り合っているが、間には植込みや竹垣が巧みに配されていて独立性を保っている。むろんのこと、話し声や生活音はまったく聞こえない。 「この離れにはカルディアとデジェルがいますが、わたくしたちの離れはこの植込みの向こう側にありますのでのちほどお越しください。」 「ほう!面白い造りじゃな。ああ、これが畳とかいうカーペットか、面白い!」 玄関に入ったシオンの声がカルディアにも聞こえたに違いないのに奥からは何の答えもない。ひそかにため息をついたデジェルがシオンにスリッパを脱ぐように促した。 「最初に靴を脱いで今度はスリッパもか。サガの言った通りじゃな。すると聖衣では部屋に入ってはいかんということになるがどうするのだ?」 「…え?その時は…」 ここに聖衣でやってきたのはフェニックスの一輝だけだが、それだけであいつの傍若無人さがわかるというものだ それもいきなり室内にテレポートしてきたんだからとんでもない! むろん聖衣のブーツのままだったが、あの時は突然のことで土足かどうかなんて考える余地もなかったな ミロがその時の修羅場を思い出しているとシオンがとんでもないことを言い出した。 「実に面白い。アテナも一度はここにおいでになるべきじゃな。」 「えっ!」 それはたしかにまだアテナは来てないが、そもそもアテナは日本で生まれ育ったんだから日本旅館なんて珍しくもないだろう だいいちアテナが降臨したら黄金としてはひざまずくしかないんだが! 緊張しまくって同じ座卓で茶を飲むなんてありえないっっ! 頼むから、ここを迎賓館扱いするのはやめてくれ! 「アテナもわたくしたちと同宿ではお寛ぎになれぬのではないでしょうか。あえてここでなくとも、ヘルシーな料理や華やかな家具調度の整えられた若い女性向きの宿が日本にはたくさん用意されております。」 ミロの動揺をよそにカミュがいつもの口調で素直な意見を言い、シオンもなるほどと思ったようだ。 「そういえば、畏れ多くも261歳の年寄と同じ趣味をアテナがお持ちのはずはないか。いっそのことどこかお気に入りの土地に離宮をお建てになってもよいかのぅ。」 すごいことを言いながらデジェルに先導されて奥に入ると広縁の籐椅子に掛けていたカルディアがちらっとシオンを見て頷いて見せた。 あ〜、根に持ってる、根に持ってる 思いっきり偉そうだぜ、これで話が弾むのか? 場が白けないうちに俺がシオンを露天風呂に連れて行ったほうがいいんじゃないのか? 教皇と裸の付き合いというのもすごすぎるが、サガから詳しく話を聞いているらしいシオンは案外順応性がそうだ。 離れの間取りをデジェルが説明していると美穂がお茶を淹れに来た。カルディアは籐椅子に座ったままなので三人で座卓を囲む。シオンは日本家屋が珍しくてならないらしく、天井や床の間をしげしげと見ていたが、白磁の茶碗に美穂が丁寧に入れた煎茶の緑が気に入ったらしい。勧められるままに興味津々で飲んでみてしきりに感心している。デジェルに通訳させて、日本女性の入れるお茶はとても美味しい、きっとあなたが美しいからだろう、と持ち上げたものだから、頬を染めた美穂が恥ずかしそうにお辞儀をして、それがまた可愛いと褒めちぎる。思いがけないシオンの社交性に一同唖然である。このごろは美穂と話が弾むことも多いカルディアの眉がピクリと上がり、ますます不穏な空気になってきた。 「ええと、一息入れたところで露天風呂にご案内したいのですが。」 「おお!待っておったぞ!サガにぜひ入れと勧められておるのだ。写真を facebook に載せてもかまわんか?」 「えっ!教皇が facebook を!?」 「なあに、ちょっとした手慰みじゃ。いまどきそのくらいのことができんでは世の中に対応できんのでな。」 「はぁ…そういうものですか。」 こんな活発なやり取りをカルディアは面白くなさそうに聞いているばかりだった。 露天風呂のあとの食事でもシオンはたいそう機嫌がよかった。ほとんど口を利かないカルディアを気にするようでもなくて、先の聖戦のことをデジェルと話したり、ギリシャの政治経済のことをカミュと検討したりして場を賑わせ、次々と出てくる美しい吹き寄せや天麩羅に舌鼓を打った。 「これは旨いのぅ!日本のステーキの柔らかさときたら世界一間違いなしじゃ。日本酒というのも気に入った!金箔が入っているとは黄金仕様じゃな、こんなものを毎日飲んでおるのか?許せんな。お前たちはここに何年居る? なに!じきに九年になる?贅沢じゃのう、羨ましすぎるぞ、わしと替わってくれんのか?アテナにお願いしたら御赦しをいただけるといいのだが。」 「いえ、あの…」 「まあ、わしが教皇でいるうちは無理じゃな、そんなに頻繁に聖域を空けられん。それにしても羨ましすぎるぞ!」 こんなふうにミロとカミュの肝を冷やしながらシオンは大いに飲み大いに食べ、その健啖ぶりをいかんなく発揮した。 「ではおやすみなさい。」 「大変だろうがあとはよろしく。」 いい気分で離れにもどったシオンを床の間付きの奥の十畳間に敷かれたふっくらした布団に押し込むと、あとはデジェルに任せてミロとカミュは自分たちの離れに戻ってきた。カルディアはシオンの世話をデジェルに任せっぱなしでマイペースのままだ。三晩は独占できるはずだった離れを一晩楽しんだだけで二日目にシオンが闖入してきたのをよっぽど根に持っているのだろう。 「なんだか気の毒だな。」 「明日の晩は私たちのところに来てもらったほうがよいかもしれぬ。」 「俺もそう思う。あれだけ飲んで寝てしまうんだから、同じ離れにいても別に困ることもないしな。だいいちカルディアがあの態度じゃ、いずれシオンが臍を曲げるかもしれないし。いくら年上だからといって現役の教皇に対してその態度はなんだ〜っ!とか言ってちゃぶ台をひっくり返されたらまずいだろ。」 「もっともだ。」 その次の日はたまたま金曜日だったため、薔薇風呂を経験できたシオンはますます上機嫌だった。 「アフロディーテから勧められたときは、このわしがそんな風呂に入れるか!、と一蹴したが間違いじゃな。教皇たるわしにふさわしい豪華さじゃ。」 うんうんと頷くシオンにカミュが、 「今晩はぜひわたくしたちのところにお泊り下さい。部屋の造作や浴槽も違いますからお楽しみいただけると思います。」 と誘うと、 「うむ、それがよい。ここだけの話だがカルディアが不機嫌で参っている。といって、あいつに、このわしに逆らうのか!とは言えんから困る。」 と愚痴をこぼすのでカミュも返答に窮してしまう。ときどきはシオンがカルディアに話しかけてもろくな返事もなくて、あまりに不毛な会話をみかねたデジェルがなんとか話を取り繕っているのが丸わかりなのだ。 「それにわしも大事な話がある。では、今夜は寄せてもらおうか。」 「では美穂に伝えてきます。」 会釈をしたカミュは、大事な話とはなんだろうと思ったが深く考えることもしなかった。 その日の夕食が終わって部屋へ戻ると、布団に入る前にシオンがカミュを呼んだ。ミロはとくに気にもしないでパソコンに向かっているところだった。 「御用は何でしょうか?」 膝に手を置いてきちんと正座したカミュにシオンがこう言った。 「おりいって話がある。」 「は、承ります。」 「そちを見込んで頼みがある。教皇職を継いでもらいたい。」 空気が凍った。 → |