その1
融雪に忙しい日を送っているカミュに会うため、新潟の山間の小さな湯治場に俺が着いたのは3月6日のことだ。
カミュが俺と別れてこの作業にかかってからは会うことも少なくて、いささか業を煮やした俺は、今日はここの宿を取って一緒に泊まることになっている。
ひなびた温泉宿というのに一度は泊まりたかった俺は、宿の主人に頼んでとびきり
「 鄙びた 」 ところを探してもらったのだった。
「新潟県北部の山奥のほうでとびきり鄙びた宿に泊まりたいんだが、いいところを探して欲しい。
いまカミュがそっちにいるんでね。」
俺の注文を聞いてパソコンに向った主人は、やがてほっとした声を上げた。
「ああ、一軒、ありました。 ほんとうにとびきり鄙びておりますが、よろしいですか、ミロ様?」
「ああ、かまわない。 せっかく日本にいるんだから、滅多にできない経験をしたい。」
「滅多にない経験でございますか。 それは間違いございませんな、私も話には聞いておりますが、まだ泊まったことはございません。
なにしろこの宿の特徴は…」
「ああ、それは聞かなくていい。 現地に行ってからわかったほうがサプライズで面白いからな。」
「さようでございますか。 では予約を入れておきます、3月6日に2名様。 チェックインは3時になっております。
カードは効きませんので、おそれいりますが現金でのお支払いになります。」
「ふうん……それはまた珍しいな。 で、幾ら?」
「お一人様8800円でございます。」
「8800円?」
ここの離れは、確か、一人一泊5万円だから五分の一以下ということになる。
それはまあ、この宿はグラード財団が所有する 「 都会人の隠れ里 」 と称されるくらいの高級な場所なので、比べるのがこれは無理というものだろう。
「それからタオル・石鹸・浴衣は用意してありませんので、どうぞ当方のをお持ちくださいませ。」
「え?」
訊いてみると、そのほかにもドライヤー・シャンプー・リンス・櫛など、俺が思いついたものはすべて用意していないという。
面白いっ、こんな宿は初めてだ!
食事とフトンはさすがにあるというから、べつに問題ないだろう
日本の伝統や文化に興味のあるカミュも、きっと喜ぶに違いない
こうして俺はワクワクする胸を抑えながらその日を迎えたのだ。
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