その2
その宿は、湯治場というくらいだからかなり古い宿で、場所も便利とは言いがたい。
最寄の駅からバスに1時間乗り、その終点から山道を2時間歩くというのが主人がダウンロードしてくれた地図に書いてある行き方なのだ。
むろん車でも行けるはずなのだが、この季節は道が雪に埋もれて車はまったく使えないという。
「え? それでは食料とか日用品の配達はどうするんだろう?」
「こういった雪深い土地では昔から雪への備えは万全でして、保存食料や生活必需品の備蓄をする習慣がありますから2、3ヶ月くらいは外部との連絡を断たれても大丈夫なようになっております。
普通は冬期には湯治場を閉ざすところが多いのですが、この宿だけは3月から営業しておりますね。
宿の周辺の積雪は現在3メートル40センチです。」
「ほぅ、そいつは秘湯といってもいいのじゃないか。 ますます楽しみだ。」
俺の理解するところでは、古くからの湯治場というのは湯質がいいから病気療養などに効くというので評判になり、今に続いているところが多いのだ。
きっとこの宿の湯もいいに違いない。
JRの駅前から数人しか乗っていないバスに乗る。 終点まで行ったのは俺だけで、バスから降りたそこには数軒の温泉宿があるばかりだ。
ふっ、ここに泊まるのは素人だな
この先まで足を伸ばさなきゃ、ほんとの温泉通とは言えん
もとよりたびたびのシベリア行で雪と氷には慣れている。 湯治場の在り処を示す看板の先を目指して地図を片手に歩き出せば、郵便配達でも通ったのか、ちゃんと歩けるだけの道筋はついている。 吹雪だったら多少は考えたろうが、幸い、今日明日はうす曇という予報なのだ。
背にしたリュックの二人分の荷物も、あの聖衣櫃に比べれば何のこともありはしない。
それにしてもあの聖衣櫃はかさばりすぎる
かついで行くくらいなら、聖衣を身につけたほうがよっぽど楽なんだがな
噂に聞くアテナの聖衣のように、ミニチュアサイズになってくれればどれほど便利なことか
必要なときにはすぐに身につけられて、普段は書斎のデスクとか寝室の暖炉の上において置けばいいのだからな
水瓶座の聖衣と蠍座の聖衣のミニチュアを並べて鑑賞したらどんなに楽しいだろう
そんなことを考えながら歩く山道は何の苦でもない。
これで隣にカミュがいれば最高なんだが………
まあいい、それは帰りだ、帰り
こうして、普通の日本人なら躊躇する雪道を歩き通した俺が目当ての宿に着いたのは夕方4時過ぎのことだ。
「ふうん……たしかに鄙びてるな。」
渓流沿いのわずかな土地に張り付くようにして細長く伸びている平屋の建物はかなりの年代物で、あちこちから湯煙が上がっているのはなかなか風情があるものだ。
入り口や窓の建て付けは、今の日本では当たり前のアルミサッシではなくて、すっかりこげ茶色になった木製のものである。
京都や奈良の寺社仏閣ではそれが当然だし、格式を誇る京都の老舗旅館あたりでもよく見かけるのだが、ここのはともかく古い。
ガタピシ言わせながら玄関の戸を開けるとフロントらしきところにいた老人が目を丸くした。 名前を告げてなんとか意思を通じさせると荷物を預けてカミュを待つこと1時間。 こんな山深いところでもさすがに玄関の前はきちんと雪かきがしてあるので、そこに置いてあるベンチに座っているといかにも深山幽谷に迷い込んだ気にもなろうというものだ。 俺が着いてからというもの、ほかに泊り客も現われず、宿の老人もフロントの奥に引っ込んだまま出てこない。 ときおり木々の枝からばさっと雪が落ちる音がする以外は全くの静寂な白い世界が心よい。
やがて日が暮れかかったころ、道の方からカミュがやってきた。 久しぶりに見るカミュは雪道の寒さに頬を幾分赤らめて、それがかえって生来の色の白さを引き立てて見える。
2時間の山道はずっと上り坂なのに、いささかも息を切らしていないところはさすがに聖闘士だ。
まあ、それは俺も同じことなのだが。
「ああ、お疲れさん!」
「待たせたか? 少し予定外の融雪があり、少々手間取った。」
「1時間くらい待ったかな、のんびりしてよかったぜ。 じゃあ、部屋に案内してもらうとするか。」
宿の老人が荷物を持とうとするのを、なんだか気の毒になり、断って自分で持つことにする。
通る廊下は渓流沿いにガラス窓が続き、雪景色がなかなか美しい。 温泉が湧いているらしく、岸辺のところどころで湯気が上がっているのも面白い。
「あれ?この窓ガラス、ちょっとゆがんで見えるぜ。」
「これは珍しい! まだガラス製造技術が確立していなかったころに作られた板ガラスには、このようなものが多い。
」
ふと見上げると廊下の天井に幾つもランプが吊り下げられている。
「ふうん、ランプだとは今どき珍しいな!」
「ほぅ! シベリアでは今も使っているが、日本では初めてお目にかかる。」
「骨董品のインテリアにしては手入れが行き届いてぴかぴかだな。 ここのオーナーがよほどきれい好きなんだろう。」
そんなことを話しながら俺たちは部屋に通された。
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