その4


露天風呂へ行くべく美穂が用意してくれた包みを開けると、二人分の浴衣のほかに半纏 ( はんてん ) や暖かそうな靴下も入っている。縮緬の風呂敷にそれぞれの着替えを包み、ランプに灯をともして廊下に出ると、
「ほぅ〜、これはきれいじゃないか!」
廊下の上に吊り下げられたランプにはすでに灯が入り、そのあかりにやわらかく照らされた廊下がずっと奥に伸びている。
「シベリアでは廊下の天井にランプを吊るすという発想がなかったが、これは美しい!」
カミュの言うとおりで、シベリアでは俺たちはランプを手に持って移動していたから、誰もいないときの廊下は真の闇だった。 間取りはわかっているのだから灯りがなくても困らなかったし、カミュも無駄な燃料の消費を好まなかったのだ。
しかし、ここではさすがに客相手の施設だけあり終夜の照明をしているようだ。
「ちょっといいじゃないか、 シベリアではあまりの寒さに、ランプを愛でるまでにはいかなかったからな。 どっちかというと俺はお前を愛でてたし。」
「え…」
ランプの下のカミュを絶句させておいて、肩を抱き寄せ素早く唇を重ねる。

   大丈夫だよ………誰も来ない……そんなことはお前にもわかっているだろう…

ランプの真下の暗がりでカミュが頬を染めた。


廊下の突き当たりの脱衣室で互いに背を向けながら服を脱ぐ。 此の頃ではやっとカミュも納得して一緒に着替えたりもするが、双方ともに相手を見ないのは不文律だ。 雪明りがあるのはわかっているので、ランプは棚に置いたまま外へ向う。
「あっ……」
先に戸を開けた俺は息を飲んだ。 俺の背中の後ろでカミュが驚く気配がわかる。
「おい……これは…川だ!」
目の前を流れているのは確かに川で、しかし温泉である証拠に湯気が盛んに立ち昇っている。 川幅は4メートルほどで、目の前の箇所は淵のようになり湯の流れはそんなに速くない。
「ミロ、ともかく早く入らぬと冷え切ってしまう!」
「あ……ああ、そうだな!」
後ろの声に押されるようにして足早に進むとかたわらに屋根囲いをつけた小さな湯桶置き場があったので、急いで何杯か湯をかぶり ( ほんとに湯なのか、実は半信半疑だった ) 急いで川に入る。
川といってもゆっくり浸かれるようにそのあたりの川底には平たい石を並べてあって、川岸には寄りかかれるような手頃な大きさの石もあるのだった。
「信じられん! これは明らかに川だろう?!」
あとから入ってきたカミュに声をかけると、
「よほどに湯量が多いのだろう。 湯の流れに浸かるというのは不思議なものだ。」
そう言いながらほっと溜め息をついて俺の隣の岩に背をもたせ掛ける。
あたりはたしかに4メートル近い積雪で対岸は緩やかな斜面になり、葉を落とした木々の幹が美しい。 雪明りのためランプも要らず、俺たちはほんとうに自然の中にいるのだった。
「信じられるか?銀世界の中に裸でいるんだぜ。」
「ほんとに誰もいなくて……」
遠くでリズミカルな瀬音がするほかは、静かなばかりの温泉なのだ。 感心してあたりを眺めていた俺は目の前の淵の方が深いような気がしてちょっと先に進んでみた。
「あ……!」
「…え?」
いきなり深くなって、なんと立位で肩まで湯に浸かるではないか!
「すごい! ここだと立てるんだぜ、来てみろよ。」
「ほんとに?」
慎重に川底を探りながら淵の中央まで来たカミュが目を見開いて足元を見る。
「こんな感覚は初めてで……とても愉快だ。」
淵の中央はいくぶん流れが速く、寄りかかるものがないので少々こころもとない。 同じことをカミュも感じたようで、湯の中で浮力のついた身体を揺らめかせながらどうにも落ちつかなげだ。
「こうすればいいんだよ……」
「あ……」
湯の中でカミュを抱いた。
立っているのに身体は湯に包まれていて、快い暖かさが周りをゆき過ぎてゆく。
「でも……ミロ…私は…」
言葉の終わりは小さくなり、カミュはうつむいてしまった。
髪をひとまとめにしてタオルでくるんであるので、真っ赤に染まった耳がよく見える。
「最初のときは指一本触れないって言ったけど、そろそろ解禁にしてもらえるかな?」
その耳に口寄せてささやくと、
「ん……」
小さい返事が聞こえ暖かい手が俺の背に回される。
「どう? 俺の選んだ温泉は?」
花の唇を楽しんだあとで聞いてみた。
「似合っている……」
「…え?」
「ミロの日にふさわしい趣向だと思う……この日を忘れない。」
俺は嬉しくて、湯を楽しみ、カミュを楽しみ、雪景色を楽しんでいた。
このときがいつまでも続くようにと心に願っていた。