◆第五章
なぜ……なぜ、こんなことを……ミロ………
これがミロの……望みなのか……?
……怖い……ミロがこんなことをするはずはない…
予期していなかった、といえば嘘になる。
そうだ、この部屋にいざなわれたときから、そのことをカミュが予想できなかったはずはない。
幼い子供ではあるまいし、いくら世間から隔絶された聖域に暮らしてきたといっても、素肌を触れ合わせるということがどういうことなのか、わからなかったはずがないではないか。
それでも現実的な欲求を持っていたミロとは違い、今 直面している現実はカミュをこのうえなく恐怖させ、おののかせるに十分だった。
すべてに受け身だったカミュには、ミロのいだいていた願望など知るよしもなければ理解することも難しい。
今日に至るまで長い時間をかけてミロが施してきたやさしい愛の動作は、カミュを安心させミロに狎れさせてきてはいたが、それだけに今夜のような急激な進展はミロを信頼しきっていたカミュを恐慌に落とし入れたのだ。
初めて触れるミロの肌は、熱いというよりも焼け付くように感じられ、ゆっくりと加えられる身体の重みは脅威にも似て息苦しさを感じさせる。
実際にはミロは、カミュの負担にならぬようにと極めて慎重にしていたのだが、カミュにはなにもかもが恐れにつながり、悲鳴を上げたいのをかろうじてこらえているのだった。
そんなことをすれば、このことを望んでいたミロが立場をなくしどれほど困惑するだろうか……その思いがカミュをこの場にとどめさせ、生まれて初めての試練に臨ませていた。
ミロは……このことを望んでいる……
もし……もし私が悲鳴を上げれば、それは拒絶となりミロは傷つくだろう……
ミロはやさしいから、私を傷つけたと思い込んで身を引くにちがいない
そして明日からの私たちは、口もきけずに目をそらす関係になってゆく…………
そんな………そんなことはいやだ……
私は黄金聖闘士としてミロと並び立っていたい………
そして……いつまでも共にありたい……
ミロを理解し 一刻も早くこのことに慣れ ミロと想いを一つにしたい
ああ……でも………ミロ………私は…
このことに比べれば、聖域に来てからの訓練などなにほどのこともない。
どんな試練にもたじろぐことなく全力で立ち向かっていけたのに、今の自分はなにもできずに、ただひたすらにミロのなすがままではなかったか。
先も読めずに横たえられたカミュは、ただミロを信じて、しかし、そのミロにすがることさえできずに肌を重ねているのだった。
いまや、やわらかく抱かれているカミュのすべての感覚はただ一点に集中し、もうほかのことなどなにも考えられなくなっている。
恐怖と羞恥をないまぜにした感情が心の中で激しく渦を巻き、何も知らなかった昨日までの自分がひどく遠いものに思われた。
身体の震えは止まらない。
それはカミュ自身にもなんともならぬことで、修行中の幼いころに極寒のシベリアで震えたことはあったものの、それ以外のことで震える日が来るとは想像もしないことだった。
今となってみれば、寒さの震えなどいったいなにほどのことがあろうか。
怖い……怖い…………どうしていいのかわからない……
こんなことがあっていいのだろうか………これから私はどうなるのだろう………
ミロ………ミロ………私を……助けて……私にはもうお前しかいない…
早く…………早く…私を安心させて………
硬直している手をやっとの思いで口元に押し当てたカミュは、叫びだしたい気持ちを必死で押さえ込む。
すがりたい人にすがれないつらさがカミュをこれまでにない苦境に追い込んでいたのだ。
「大丈夫だから……カミュ……ほんとに怖くないから……頼むから落ち着いて……カミュ…」
これほどにおののかれると、初めて抱いた喜びよりも、不安のほうが先に立つ。
震えのやまぬカミュを案じるミロのささやきが、はたして聞こえているものかどうか?
動揺したミロがそむけられた顔をそっと盗み見ると、固く閉じられた瞳からすっと涙が流れるのが見えたではないか。
……カミュ…………
もう待てない、と気ばかりはやって迎えた今宵だったが、やはり性急過ぎたのだろうか?
機は熟したと思ったのに、もう二度と取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか?
もしや……もしや、カミュを傷つけたのか………?!
もしかして、俺にこんなふうに抱かれることを望んでなかったとしたら?
返事がなかったのが、暗黙の了解ではなく無言の拒絶だったとしたら、
明日からの俺たちはいったいどうなる……?
胸の中の不安が際限なくふくれ上がり、いても立ってもいられない。
「あの………カミュ………抱かれたくなかった?……俺のこと……嫌いになった…?」
迷いはしたが、おそるおそる聞いてみた。
声がうわずり、とても自分の声とは思えなかった。
問われた蒼い目が見開かれたときはらはらと涙がこぼれ、なにか言おうとしたのか紅い唇が震えるのだがとても言葉にはならないのだ。
「カミュ……」
この世で一番美しくて清らかなものを傷つけたような気がしたミロが激しい後悔に襲われたとき、かすかに首が振られたのだ、そうではない、というように。
息を飲み、見間違いではないかと目を凝らしたミロに、こんどははっきりと、カミュがゆるゆると首を振ってくれたではないか。
透き通った涙の粒が左右に流れ、艶やかな髪の中に吸い込まれていった。
ミロの目に涙が滲む。
不安が喜びへと姿を変え、これまで秘めた想いがようやく実を結ぶ。
「それじゃ……あの……俺のこと……好いてくれる…?」
思い切って訊いてみた。
カミュとのはじめての夜の成否は、ひとえにこの点にかかっているのだから。
かたずを飲んで見守るミロの腕の中で、あいかわらず顔をそむけたままのカミュが小さく頷いた。まだ震えてはいたけれど、はじめて見せた許しの仕草。
それを見たミロの目に涙があふれてこぼれ落ち、カミュの白い胸を濡らしてゆく。
あとからあとから止めどなくこぼれる涙が嬉しくてミロはカミュをかきいだく。
やさしさといつくしみにあふれた抱擁が震えるカミュを包み込み、その温かさがいたわりがいつしかカミュの中の恐れを消し去っていた。
「カミュ……カミュ………こんなに…こんなにお前が好きだ……」
熱い口付けが額に頬に唇に与えられるたびに小さく喘ぐカミュはまだ不安そうで、落ち着かなげにみえるのも無理はない。
昨日までは誰一人として一指も触れることを得なかった身体を、今宵は自ら許したこととはいえ、ミロに露わにされて肌を合わせているのだったから。
生まれて初めて知る感覚がカミュを圧倒し、恥じらいと困惑の只中に置いていた。
口をきくことはおろか、自分からは指一本動かすことさえとてもできるものではないように思われて、ただ頬を染めることしかできないのだ。
そんなカミュがいとしくも可愛くも思われてミロはどうにも嬉しくてならないのだった。
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イラストは Neo Miro Miro のなぎさ様からいただきました