「 逢 瀬 」



長い冬が去ると聖域にも遅い春がやって来る。 春の夜の気だるさが残る部屋にはほのかに灯りがともるだけで、夜明けにはまだほど遠い。
「ミロ、ミロっ!!」
心地良くまどろんでいたミロが、自分を呼ぶ声に目を覚ましたのはそんなときだった。 カミュのその声は、どこか尋常ではない響きを持っており、なんとはなしに心騒ぐものがある。
はっとしてかたわらに目をやったとき、すがり付いてきたカミュの爪が二の腕に痛いほどくい込み、思わず息がつまったほどだ。 全身が細かく震え、荒い息をついている様子はただごとではなかった。
「どうした?夢にうなされたか?」
安心させるように優しく抱きかかえ、額に軽く口付けをする。 なめらかな頬にかかる髪をかきやり、深い色を湛える瞳をのぞき込んだとき、カミュが口を開いた。
「ミロ・・・・・・・・・・私は・・・・・私は・・・・・昭王に抱かれていた・・・・」
やさしく背中をなぜていた手が止まった。
「・・・・・カミュ・・・・・・今、なんと言った?」
夢を見たのだろうが、それにしてはカミュの様子が真剣にすぎる。 たかが夢、と一言で済ませられないものがそこにはあった。
「もしかすると・・・・・・お前を・・・・裏切ったのかもしれぬ・・・・・・」
喉の奥から絞り出すような悲痛な声がミロの耳を打ち、春の夜の闇がたとえようもない重さでのしかかってきた。


わずかばかり灯された枕元のあかりが、ミロの胸に突っ伏すカミュをほのかに照らし出している。
部屋の四隅は暗い闇に沈み、物の形を見きわめるのもむずかしい。 それ以上の明るさを、カミュが頑なに拒否したのだ。
「・・・・・・・・それで?」
ミロの促す声に、カミュがびくりと身体を震わせた。 なんでもないように装ってはいるが、かすかに震える語尾がミロの動揺を垣間見せている。
「・・・・・・・・私はいつの間にか外にいた・・・・月のきれいな夜で・・・・・・・・・・どこかの森だったのかもしれない・・・木々のざわめきが聞こえた・・・・・」
ミロが全神経を集中させなければ聞こえないほど、カミュの声は低かった。
「そこで・・・・・・・・私は・・・・」
カミュがミロの腕の中で切なそうに身を揉み、ミロは一層強くカミュを抱きしめた。
「私は・・・・・・昭王に抱かれたのだ・・・・」
少しの沈黙のあと、ミロが声をひそめて訊ねる。
「それは俺だったんじゃないのか?なぜ、昭王だとわかる?」
「香りが・・・・・採蘇羅の香りがした・・・それに・・・・髪の色も眼の色も・・・・・」
昭王だけが使う禁香の採蘇羅の香りを、カミュは知っている。
ミロも、銀の櫛を届けに来た昭王が姿を消したあと、カミュに纏わりついていた残り香をかすかにかいでいるのだが、とても判別のつくものではない。 しかし、あの日、昭王と三十分ほど一緒にいたカミュの記憶に間違いはないと思われた。
「だが、それは夢だろう?・・・カミュ・・・・・そんなに気にすることはない、頼むからもう考えないでくれ。」
ミロの言葉にこもる真摯な響きがカミュの胸を揺さぶった。
「ミロ・・・・・・私には、とてもただの夢とは思えない。 まことの夢なら、目覚めれば一瞬のイメージにしかすぎなくなるものだ。 だが・・・・・・・あれは・・・・あの夢は・・・・・・私には何時間も継続した記憶がある・・・・本当にあったこととしか思えない・・・・・・」
カミュの声が震えた。
「今、お前に抱かれているのと同じくらいにはっきりと、私は昭王に抱かれていたのだ・・・・・・昭王の暖かさも・・・・・・吐息も・・・・私は覚えている・・・・・あれは夢ではない・・・・」
重い沈黙を破ったのはミロだった。
「カミュ・・・・・・昭王は・・・お前に・・・・・・・・何をした?」
ミロの声がかすれた。 顔を伏せていたカミュが息を呑み、身を固くしたのがわかる。
「・・・・・それは・・・・あの・・・」
カミュがためらいを見せた瞬間、ミロは自分が言ったことを深く後悔し、押し殺した声で叫んだ。
「よせっ、カミュ!言わなくていい!俺が悪かった、何も言わないでくれっ!」
うつむいたままのカミュが首を振る。
「・・・・いや、ミロには何もかも知ってもらわなくてはならない、お前に秘密は持ちたくないのだ・・・・・・・・・・・昭王は私にやさしく笑いかけてきた・・・幾度も口付けをして・・・・・・・そして抱擁も・・・・・・」
「やめろっ!カミュ!!もう何も言わなくていいっっ!」
ミロの額に汗が滲む。
「最後まで言わせてくれ・・・・ミロ・・・・・・・・・お前が・・・・その・・・・・・・気にするようなことはしてはいない・・・・・・昭王はとても控え目で・・・・・・ただ、私を抱きしめて・・・・・ほんとうだ・・・ミロ・・・・」
あふれる涙がミロの胸を、心を濡らし、カミュを抱く腕に力を込めさせる。
「カミュ・・・・・すまない・・・・・・・・つらいことを言わせた・・・・珍しい夢を見たのだ、本当であるはずがない。そうだろう?このことは、もう忘れよう」
カミュがかすかに首を振り、哀しげに薄く笑った。
「ミロ・・・お前にもわかっているはずだ・・・・・・たとえこれが普通の夢であったとしても、それは私の心の奥底から生まれてくるものだ。 私の深層心理にそうした欲求があるからこそ、昭王に抱かれる夢を見たのに違いない・・・・・・・・」
「違うっ、そんなことはないっ!! 考えすぎるな、カミュ!! そんなことがあるはずがない!俺はこんなにお前を愛してるし、お前だってそうだろう? もう、考えるのはよせっ!普通の夢が心の奥底から生まれ出てくるとしても、お前がそんなことを考えるはずがない!今度のことは、きっと昭王の夢がお前を訪れたのに違いない!それなら話は分かる、お前には避けられないことだ!!向こうからやってくるものは誰にも止められはしない!!」
ミロの叫びにも似た声が闇を切り裂いた。
胸の鼓動が痛いほどカミュの鼓膜に伝わり、深い嘆きがカミュの心を揺さぶる。
「どちらにしても、同じことだ・・・・・・・ミロ・・・・・・まだお前に話していないことがある・・・・」
その抑えた口調がミロの不安をかき立てた。 カミュはいったいなにを言おうとしているのだろう?
「・・・・・・・・・私と昭王はいろいろな話をしていたように思う、何を話したかは覚えていないが、たった一つだけ記憶に残っていることがある・・・・・」
カミュは目を閉じた。 ミロの不安げなまなざしがつらかった。
「・・・・・・・・私は昭王の首に腕を回して自分の方に引き寄せると、『ともに一夜を過ごせて良かった』 と云ったのだ・・・・お前を裏切ったも同然だ・・・・・」
氷のような沈黙がおりた。
静寂が耳に痛い。
「私は・・・・・私は・・・昭王と過ごしていたとき・・・ミロ・・・・お前のことを思い出さなかった・・・・・・ああ、ミロ・・・・・・・・・昭王だけを見つめて・・・・幸せだと感じていて・・・・・」
「云うなっ!! もう何も云うな、カミュ!!そんなに自分を苦しめるのはよせっっ!!」
ミロの唇がカミュの言葉を封じ、罪の意識に震えおののく身体を双の手が抱きしめた。 ともすれば身を引こうとするカミュを、ミロが手放す筈もない。
「お前をどれだけ愛しているか教えてやろう。 俺の愛を確信して、自分に自信を持つがいい。 お前が眠るときには、俺が必ず起きていて見守ってやる。誰の夢も近づけさせはしない。」
「ミロ・・・・・・・」

その夜のミロの、どれほどカミュを慈しみ、愛し抜いたことだろう。
奔流する熱い想いを込めてその身を強く抱きすくめ、時には駘蕩する春の海のように穏やかに柔らかく包み込んでいく。
初めはかすかにあらがいの色を見せたカミュも、悩み嘆きつつやがてミロの意を迎え秘めやかに惑乱していくさまを惜しみなく見せてゆき、その思い乱れた姿はひときわミロの心をとらえて離すことがない。
いくたびも自らの罪を責めては、そのたびにミロに言葉を尽くして慰められ、心乱れて涙を滲ませる。
過ちを詫びる気持ちがカミュを心弱くさせ、想いそのままに乱れた髪が打ちひしがれた身体に幾筋も纏わりついていった。
やがて明け方近くなり、カミュがようやく眠りについたのを見届けると、ミロは深い息をついた。
「昭王・・・・・そんなに俺のカミュを悩ませてくれるな・・・・ほんとに困るんだぜ?見てみろよ、こんなに憔悴して・・・・」
ミロは、傍らに打ち伏している想い人の長く乱れた髪が床に届きそうなほどに流れ落ちているのに目をとめると、気付かれぬようにそっと掬い上げ白い背中に添わせてやった。
「どうして昔のカミュの夢に現れない?お互いに自分の領分を守ろうじゃないか、俺は昔のカミュに手を出す気はないぜ。」
ミロは、遥か遠い時代の燕、今はもう、歴史書に名前を留めるだけのその国に思いを馳せた。
取り巻きが多く、行動にあれほど制約のある昭王のことだ、きっとカミュとの逢瀬も思うに任せなかったに違いない。

   もし、一度もそんなことがなく別れたとしたら?

叶わなかった想いを果たそうと、あの時代だろうと、二千三百年後の今だろうと、昭王の夢は繰り返しカミュを訪れるのかもしれなかった。
「冗談じゃない。」
ミロは唇を噛んだ。
もう一度こんなことがあろうものなら、今度こそカミュは耐え切れないに違いない。
眠るカミュに、ミロのまなざしがそそがれる。
「先の見通しがつくまでは、俺がお前の夢を見守ろう。安心して眠るがいい。」
穏やかな寝息がミロの微笑を誘い、張り詰めた心をなごませた。
「お前が目覚めたら、今度は俺が寝かせてもらう。なんなら子守唄を歌ってくれてもいいんだぜ?」
射し染めた朝の光の中で、ミロがほろ苦く笑った。



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南都さくら様からのキリリクから二次発生した黄表紙作品です。
        書いているうちに、途法もなく重いテーマを含んでしまいましたが、
       ここに描かれているのは当サイトでは第二世界、一つのパラレルワールドです。 
       招涼伝及び副読本が私の世界の本筋なので、
       この作品は副読本その21「春の夢」 の「パラレル版」となっています。
       副読本とリンクしてはいるものの、全くの別物とお考えください。
       本筋のミロ様カミュ様にはなんの翳りもありません。

        もちろん、この世界のお二人もこのままではなく、続編があります。
       しかし、それはまだ先の話、ミロ様には今しばらく不規則な睡眠をお願いせねばならず、
       カミュ様にも辛い日々が続きます。
       あまりの重さに、最後の部分は強引に明るくしました。
       どんなテーマでも、救いのある、良い読後感を大切にしたいのです。
       ミロ様なら、本当に云いそうですしね。

       なお、この作品をお読みくださったあとに、副読本その21「春の夢」を
       もう一度お読みいただけると幸いです。
       両者の違いを、よりお楽しみいただけるものと思っております。


                                         2004.3.17




                                  ⇒「春の夢」