「 逢瀬 2 」
招涼伝の第三十一回を読み終わったときだ。 ミロは隣に座っていたカミュの様子がおかしいのに気がついた。
目を見開き唇が震え、膝の上に置いた手は固く握りしめられていた。
今回の内容といえば、槐の木の下での昭王とカミュとの逢瀬が続いており、別に緊張や興奮を誘うものではなかったのに、これはどうしたことだろう?
親密な二人の関係に満足していたミロには、さっぱりわけがわからない。
「 どうした?この話になにか問題でもあったか?」
なにげなく問いかけると、こちらを見たカミュの目が極度の興奮できらきらと輝き、頬が紅潮している。
え……? いったいどうしたんだ?
「 …………ミロ……」
やっとの思いで口を開いたカミュの言葉が驚きだった。
「 これは………この話は………私はよく知っている……これは私の体験だ……!」
「 なにっっっ??!!!! 」
唖然とするミロの前で蒼い瞳が閉じられ、力を失った身体がゆっくりと倒れかかり、ミロは慌てて支えなければならなかった。
「 カミュっ !! それはどういうことだ!なにを言っている ?! 」
気が動転したミロが二、三度ゆすぶったが、長い髪が揺れるのみで答えは返ってこなかった。
灯りを落とした寝室にかすかな身じろぎの気配がした。
「 気がついた……? カミュ…」
「 あ………ミロ……私は……」
ミロの腕の中にいるのに気付いたカミュが、恥じらいの色を見せて身をすくめた。
「 驚いたぜ、急に気を失うんだからな。 もう大丈夫か?」
「 ああ……大丈夫だ…心配をかけてすまぬ………今は?」
「 じき夜中になる。 お前、ずっと俺に抱かれていたんだぜ、気付かなかった?最高の愛で包んでたのに!
それともラッピングが上手すぎて中で眠り込んでたのか?」
笑わせようとしたミロの努力が実り、カミュの肩からすこし力が抜けたようだ。ミロの首筋に顔を押し付けるようにして安堵の溜め息をつく様子がいとおしい。
「 それで………さっきのお前の話だが………」
背を流れる髪を撫でながら切り出した言葉がカミュを再び緊張させ、ミロの腕に添えていたしなやかな手に力が込められる。
「 そのことなのだ、ミロ。 お前の意見を聞きたい。」
顔を上げたカミュが眉を寄せる。
「 今回の話の最後の部分を読んだときにやっと気付いたのだが、あれは……あの話は、以前に私が見た夢と同じ
なのだ。話したと思うが、昭王の首に腕を回して引寄せて、ともに一夜を過ごせてよかった、と言ったときの記憶
は今もまざまざと残っている。 そして、読んだ今となっては、それまでの二人の会話もすべて思い出すことができ
る………。
これは、どういうことだろう? あれは、本当に私が体験したことなのか?
……私は…………お前を裏切ったのか?」
カミュの口調に苦渋の色が混ざり、心なしか身体が冷たくなったようだった。
ミロの手に一層の力が加わり、カミュを我が胸にぐっと引き付けずにはいられない。
「 俺は、そうではないと思う。 お前が俺を裏切るはずがない、心配するな、カミュ。
以前聞いたときは、どこかの森の中で昭王と逢った、と言ったな。
そう聞いたときには、聖域の森のどこかにお前がさまよい出たのではないかとも思って不安になったりもしたが、
しかし、これで、その森は二千三百年前の燕だとわかったのだろう?それなら、お前が、というよりお前の心が昔
に飛んだのだ。きっと、別の存在とはいえ自分の逢瀬の首尾が気にかかっていたお前の心が、二人のようやく叶
った逢瀬に同調したに違いない。 俺は、そう思う。」
「 同調? ………すると、昔の私の心に入り込んだということか?」
「 そうだ、安心するがいい、カミュ……」
ミロのやさしい口付けが額に頬に、そして震える唇に与えられる。
「 昭王だけを見つめていたのも、幸せだと感じていたのも………そのほかの全ての感覚も……決してお前の体験
ではない。それは、昔のお前が感じたことだ。 もう、安心していいから……」
「 ミロ…………」
深い溜め息をついたカミュがミロの胸に顔を伏せる。
「 ………すると私は、このことになんの責任も感じなくてもよいと………?」
「 もちろんだ! 昔のお前が昭王に抱かれてなにを感じようと、お前には関係がない。
それを傍観者の立場で見ていただけなんだからな、ただ、自分の意識がなかっただけのことだ。」
そのとき、ミロは胸に雫が落ちるのを感じた。
え?………涙? ……泣いてるのか?
濡れた頬を隠す乱れた髪をかきやり、耳元に甘い言葉を注ぎ込んでやる。
「 ……そんなに心配してたの?……カミュ……俺がいつも側にいたから大丈夫なのに……」
「 …私は………あれからずっと……裏切ったのではないかと……お前にすまなくて………ミロ………」
七ヶ月の長きにわたり耐えてきた想いが一気に解放されたのだろう、熱い涙があふれ呼吸が乱れて自己を抑制することができないらしく、そんなカミュを見たことのないミロを密かに驚かせたものだ。
そっとあごに指を添えて自分の方を向かせると、唇を寄せ流れる涙を吸い取ってやる。震える身体を抱きしめて、暖かく包み込んで離さない。
「 カミュ………俺のカミュ……ばかだな、そんなに心配して……
俺はお前のことを信じてた………お前が俺を裏切るはずがない……そうだろう?」
「 ミロ……経験していないお前にはわからないのだ…………
あまりにリアルだったので、私には自分のこととしか思えなくて……怖かったのだ……とても……」
「 たしかに、お前と燕のカミュとは、立場も性格も変わらない。 あれなら同調するのも無理はあるまい。
その点、俺と昭王はずいぶん違う。 とても俺とは思えんほどの落ち着きと風格があるからな。
読みながらいつも、俺とはずいぶん違うな、と思っていたものだ。 あれでは同調はできん。
お前………もしかして、ああいう俺も好きだったりして?」
「 ミロ !!! 」
カミュが、非難のまなざしでミロを見た。
しかし、すぐにその目が笑っていることに気付いたらしい。
「 だとしたら…………どうする?」
「 ………え?」
「 安心しろ、落ち着きと風格が、黄金聖闘士のお前にないはずはあるまい。教皇の間での自分がどんなふうに見
えているかを知らぬのか? 昭王が見ても、きっと満足することだろう。」
「 カミュ……」
珍しいことに頬を染めたのはミロだった。
自分が恥らうときもこんなふうなのだろうか、とカミュが思ったときだ。 ミロがささやいてきた。
「 これからお前を抱いてもいい? 久しぶりに翳りのないお前を抱きたいから………」
「 ………そうだな………ただ、一つ条件がある。」
「 条件って?」
「 私の中に残る、昭王との記憶を忘れさせてくれることだ。 もう悩まなくてもいいように………私を……お前の色で
染め上げて欲しい。」
「 望むところだ。」
ミロが満面に笑みを浮べた。
苦悩の季節を終わらせるために、眠れぬ日々に終止符を打つために、二人の新しい夜が始まろうとしている。
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