丹念に愛した疲れが心地よい深い眠りに誘ってくれたはずなのに、ミロが目を覚ましたときはまだ夜中を回ってもいなかった。 夏に入りかけたばかりのやや暑い空気が濃密で、ミロの眠りを浅くしていたのかもしれぬ。
隣に眠るカミュの無心な寝息が愛らしく、半ば開いた紅い唇に誘われたような気がして丸い肩に手を伸ばして引き寄せようとしたとき、ふとミロの心に途方もない考えが浮かんできたのはなぜだったろう。
瞬時迷いはしたものの、すぐに心を決めたミロの手がサイドテーブルの引き出しを開け、青い小瓶を取り出した。 ついで床に落ちていたベッドカバーを掴みあげると、 夜目にも鮮やかな瑠璃色の厚手の絹で寝ているカミュを素早く包み込み、驚く声には耳も貸さず即座にテレポートしたものだ。 あとには、 誰もいなくなった部屋を月の光が所在無げに照らしているだけなのだ。


蒸し暑い空気があたりを満たし、聞き知らぬ虫の声がそこここから聞えてくる。 潅木に交じって高い木の生えているその辺りは、どうやら水辺に面しているらしく、魚の跳ねる音が間近く聞えるのだ。
あたりに人のいないことを確かめた上で、ミロは抱きかかえていた貴重な荷物をそっと地面に下ろしていった。 包みきれなかった艶やかな髪が瑠璃の合わせ目からこれ見よがしにこぼれ落ち、ミロの心をはやらせる。 しかしミロが包みをほどこうとするより早く、白い手が絹を掴んだ。
「ミロ! いったいなにを? どこにテレポートしたのだ、 お前は?!」
あたりを一瞥したカミュは思わぬ成り行きに気も動転したのか、瑠璃の色を胸元に固く引き付けるなり声を震わせる。
「うん、ちょっとインドに来てみた、やっぱり暑いんだな.。」
「インド!」
「しっ! そこまで人里離れているわけじゃなさそうだ。 声を抑えて……」
遠くに見える異国風の建物の影は寺院なのか、途切れ途切れに風が運んでくる音色は、噂に聞くシタールらしい。
「なぜ、そんなことをせねばならぬ!それに私は、こんな………こんな格好で…」
怒りでうわずっていた声は、すぐに自らのしどけない有様に思い至って小声になってしまうのだ。
動揺するカミュを瑠璃の絹ごと抱き寄せたミロの口付けがやがてあらがう力を失わせ、甘い溜め息を誘い出すのにはさして時間はかからない。
「ねぇ、カミュ、インドに来たわけは……カーマスートラって………知ってる?」
「…え………あの……私は…」
「ふふふ……やっぱりカミュも知ってるんだ、それなら話が早い。」
「ミロ……」
思いもせぬ問いに狼狽し、暗い中でも耳まで真っ赤にしているに違いないカミュが唇を噛み顔を伏せた。
「私は…あの………名前だけは知っているけれど、けっして読んだりはしていない………そんな…そんなこと………」
「わかってるよ…………でも、知ってるだけで十分だ。」
無意識に瑠璃の絹をぎゅっと引き寄せようとした手をつかんだミロがもう一の手で絹を敷き延べてゆくと、空を渡る月がおりから銀の光を降り注ぎ、絹の青さと肌の白さを明らけく照らし出す。 はっと息を呑み、その場を逃れようとして半ば身をひるがえしたカミュを今夜のミロは逃がすものではない。
「お願いだからカミュ……今夜だけ俺の我儘を聞いて……」
「でも……ああ、ミロ……私はこんなところでは………」
後ろから抱えられたカミュが顔をそむけたその首筋にそっと唇を押し当ててゆくと、初めは身を固くしていたのが、やがてミロの肩に頭をのけぞらせて小刻みに身体を震わせる。
「ここなら誰もいない………一度だけでいいから……昭王もお前を愛したときは、木々のそよぎを聞きながら月の光の中でお前を抱いたのだろう? 俺にもその思いを味わわせてほしい………いけないか?」
「ああ………そんなことを…ミロ…ミロ………」
「大丈夫だよ……俺にまかせて………カミュを困らせることなんかしないから……約束する。」
やさしくささやきながらいとしい身体を瑠璃絹の上に横たえてゆくと、あらがうかと思いきや、恐れためらいつつ身を任せるようなのが少し不思議に思われる。

   てっきり怒るかと思ったが、なぜこんなに従順なんだ?
   ……もしかしたら………カーマスートラを知ってたことが弱味になってるとか?
   カミュなら、そう考えることも有り得るな……ふうん……思わぬ効果じゃないか

人のいないことはわかっていても、カミュの恐れおののくことは一通りではない。 声を出すことはおろか、かすかな身じろぎすらすまいと必死にこらえているのがいじらしく、それがまたミロの興趣をそそるのだが、そんなことはカミュには想像もつかぬに違いない。 せめて木の葉を漏れ来る月の光から隠してやろうとそっと覆いかぶさってゆくと、感に堪えかねたカミュが小さく息をつき身を揉みこむようにすがりついてくるのだ。
「カミュ………怖くないから………誰もいないから落ち着いて……ここにいるのは俺だけだ…」
「でも……もし人に見られたら……ああ…ミロ………」
恥じらい震える身体を抱きしめると、少し汗ばんでいて額に髪が張り付いているのに気が付いた。
「カミュ……昭王との時みたいに、少し温度を下げられるかな?」
「……え?」
「だって、そのほうがよくないか? 俺もお前も。」
「ん…」
すっと気温が下がり、触れ合う肌もたちまち涼やかになるのがこころよく、ミロはカミュに口付けを贈る。 それが首筋から胸に及ぶころには震えもすこしおさまり、ミロを抱き返す腕にも余裕が見えてくる。
ほっとしたミロが遠くの水音に気付いてそちらに目をやると、すぐそこに水面の広がりが見えて、大きな葉と高く伸びた茎の先にやはり大きな花が幾つも見えるのだ。
不思議そうにしているミロの視線に気付いたのだろう、同じ方向を見たカミュがはにかみながら言葉をはさむ。
「あれは…蓮だと思う。 仏陀の誕生を祝って一斉に咲いたそうだ。 ここはインドゆえ、自生しているのだろう。」
大きな桃色の花がいかにも珍しくて、見ていたミロが、すっと立ち上がった。
「あ……」
急に一人にされたカミュが露わになった我が身を恥じらうのに気付いたミロが、敷いていた瑠璃絹をひらと返して白い身体を隠してやるのはなんともいえずやさしいのだ。
ミロは岸近い花を手の届く限り集めてくると、再び絹を広げて、大きな花弁を降らせ始めたではないか。
「今夜は特別だ。 花に埋もれたお前を愛させてくれ。」
ひらひらと舞い落ちる蓮弁に包まれてゆくカミュが頬を染め恥じらうそばにひざまずいたミロが青い小瓶を手に取ると、手のひらに数滴ふりかけ、カミュの首筋と手首に素早く塗った。
「あ……ミロ、なにを……!」
「こないだアフロにもらった香水だ。 アフロにしては珍しく、バラじゃないんだぜ。 なんとかいうエスニックなやつだ。 十二宮には向かない香りだが、この場所にはふさわしい。」
ひんやりとした感触は好ましいが、なるほど妖しいほどに濃密な香が頭の芯を痺れさせる気さえする。
「ミロ……この香りは……私は…あまり……」
「俺はとてもいいと思うな。 日常を離れたこんな場所でこそ、少しくらいは冒険してみようじゃないか。」
「でも……」
しかし、それ以上の言葉を言う隙は与えられなかった。 唇が重ねられると同時に、ミロの手が滑らかな肌をいつくしみ始め、カミュをたちまち震えさせるのだ。 瑠璃絹の上に桃色の花弁をまき散らしながらあえぐカミュの白さが、なまめかしさが、普段の様子とはまるで違う様相を呈し、見おろすミロを歓ばせ瞠目させる。
「素敵だ! さすがはインドだ! カーマスートラの国に来ただけのことはある!」
我を忘れていたカミュがその言葉に息を呑む。
「ミロ……あの………まさか、お前……?」
「安心して……そんなことはしやしない。 俺がお前の意思を100%尊重することは知っているだろう?でも………」
「………でも…なに……?」
やわらかく組み敷いたカミュが声をひそめ身をすくめてその返事を畏れているのが、ミロには可愛くてならぬというものだ。
「せっかくの異国情緒を愉しませてくれないか? ここは聖域じゃない。 なにもかも忘れて、いつもの理性も振り捨てて、俺に溺れてくれないか?」
白い月の光の下でカミュが頬を染め顔をそむけた拍子に幾枚かの蓮の花びらがはらりと舞った。 ミロの長い指が瑠璃の上を探り、一枚の蓮弁を取り上げる。 眩しげに見上げるカミュの首筋から胸にかけて桃色の花弁で撫で下ろしてゆくと、その感触が恍惚の感を呼び起こしたのか、しなやかな身体に震えが走り甘い吐息が洩らされた。
「それなら……もっと…もっと夢中にさせて………乱れていることすら気付かぬほどに、今夜はお前に溺れてみたい……思いのままに愛して欲しい……」
「カミュ………」
首にまわされたしなやかな腕がミロの心をからめとり、さながら夜の女神の虜になってゆく想いがするではないか。
遠くからかすかに聴こえるシタールの音が、高鳴る鼓動に共鳴していつまでも耳に響いていた。




       
古典読本初のハイネです。
       メンデルスゾーンが旋律をつけたこの曲は、教科書にも載っていて有名ですね。
       歌詞をよく見ると、これ、インドの情景です……考えないで歌ってました。


          
歌の翼に恋しき君をのせ  ガンジス河の美しい花の野に運ぼう
          静かな月は映えて  花園の蓮の花は いとしいものの訪れを待っている
          すみれはほほえみ星を仰ぎ  薔薇は密かに耳をそばだてる
          彼方には清い流れのせせらぎが聞こえる
          そこに茂るやしの樹のもとにおりたち   
          君とふたり 恋と安息を味わい 幸せの夢を見よう


       
蓮に、すみれに、バラに、やしの木って………
       どれも植物学上はインドにあるもかもしれないけれど、一緒に書き込まなくてもよいのでは?

       たしか、なんとかいうインドの古典文学があったはず。
       なんか妖しいムードの漂ってるのが………ラーマーヤナ?
      
       検索したら違います。 これはわりと普通の王子と王女の悲恋っぽい叙事詩みたい。
       で、ほかの幾つかの単語で検索したら出てきました。
       「カーマスートラ」
            古代インドの性愛書。4世紀ごろのバラモンの学者バーツヤーヤナの作と伝えられる。
            性愛に関する事項をサンスクリットの韻文で記し、文学的価値も高い。愛経。(大辞林)
       
       学校では教えませんが、参考書の 「豆知識」 や 「ミニコラム」 にはありそうです。
       で、その名前と内容を知っていたカミュ様は、とても恥ずかしく思ったし、
       知っていることをミロ様にも知られてしまい、さらに身動きが取れなくなったのでした。
       ほんと、カミュ様、どこで覚えたのでしょう?
       聖域図書館に 「東洋史詳説」 でもあったのかしら?
       まさか、蔵書の中に原典はなかろうと思います。

       MIDIつけてみたかったんですけど、メンデルスゾーンは完全にミスマッチ……。
       シタールの演奏を聴いてみたい方は ⇒ こちら
       二曲のうちの下の 「duo」 が向いているかと。
       シタールとギターの合奏ですが、これを別窓で開いて聴きながら読むと、
       そのシーンもなかなか風情が出るかと思います。
       リピートされないので、途中で終わっちゃうのが、ちょっと残念。

              メンデルスゾーン 「歌の翼に」 ⇒ こちら  「名曲スケッチ」 からお入りください