歌の翼にあこがれ乗せて 思いしのぶガンジス はるかの彼方
うるわし花園に月は照り映え 夜の女神は君をいざなう
「歌の翼に」 作曲:メンデルスゾーン 作詞:ハイネ
「ん? これは何の本だ?」
カミュが天蠍宮に新たに持ち込んできた何冊かの本がテーブルに置いてある。 そのうちの一冊を採り上げたミロはパラパラとページをめくってみた。
「それはハイネだ。 ドイツの詩人で、叙情的な詩が高く評価されている。」
「ああ、これならギリシャ語だから俺にも読める。」
「ハイネの詩はシューマンやメンデルスゾーンなどの歌曲にも使われており、かなり有名だ。」
「ふうん………といっても聖域じゃそんな音楽は聴く機会がなかったからな。 曲の方はわからんが、詩はなかなかいいのがたくさんあると思うぜ。 たとえば、こんなのはどうだ?」
「君が瞳を見るときは たちまち消ゆるわが憂い
君にくちづけするときは たちまち晴るるわが思い
君がみむねに寄るときは 天の悦びわれに湧き
君を慕うと告ぐるとき 涙はげしく流れたり」
部屋の中央に立ち、ハイネを朗誦するミロは至極 機嫌がいい。 カミュをつかまえて一つキスをすると、キャビネットからバカラのデカンタを取り出して、ソファへ座るようにとうながした。
「俺はギリシャ人で修行地がミロス島、お前はフランス人で修行地はシベリアだ。」
「その通りだが。」
「で、俺が疑問に思うのは、シャカのことだ。」
「……シャカの?」
日の暮れたころから天蠍宮に来ているカミュにこれもバカラのグラスを渡しながら、ミロが珍しいことを言い始めた。
「ほら、シャカの修行地がインドのガンジス川流域ってのは、仏教の関係から当然だと思うんだが、出身もインドっていうのはどういうわけだ? あんなきれいな金髪なんだから、まさかインド人じゃあるまい?」
「それならば私も考えたことがある。 インドには古来より黒色・白色・黄色人種が共存しており、その中では白色人種が一番多い。 しかし白色人種といっても骨格上の分類であり、肌は日焼けしたように黒いのだ。 シャカは肌も白く金髪なので、むろん生粋のインド人ではなく、英国が長年インドを植民地にしていたことを考慮すると、アングロサクソンの血を引いているのかもしれぬ。」
「ふうん、すると英語をしゃべれるのかな?」
「私も聞いたことはないが、その可能性は高い。 たとえ両親とともに暮していなかったとしても、インドでは英語の使用頻度が高いので、、シャカも英語をあやつれよう。」
「え? そうなのか?インド語じゃないのか?」
ミロは首を傾げる。 フランスはフランス語、ギリシャはギリシャ語、そして日本では当然のことながら日本語なのだ。
「インド語というものは存在しない。 インドでは、
ヒンドゥー語を公用語とし、英語は準公用語、他に憲法で公認されている言語が17あり、方言となるとその数は800とも1700とも言われている。 それを如実に示しているのが紙幣の表記で、裏面には15の言語が記載されているという。 10億2700万人のインド国民がすべて公用語を話せるわけもなく、少なくともこれだけの表記がなされないと紙幣がスムーズに流通できぬということだ。
50km離れると言葉が通じなくなるとも言われており、インドでもっともよく話が通じるのは、外来語である英語だというのが現実だ。」
すると、あのシャカのことだから、ギリシャ語・ラテン語のほかに、
英語とヒンドゥー語、そしてあと17の公用語くらいは軽くしゃべれるに違いない
ますます近付かんほうがいいような気がしてきた………
「ふうん………インドっていうのはたいへんな国だな。 言語がそれほど多いとすると、仏教のほかにも宗教があるのか?」
「その言い方には語弊がある。 インドの宗教は、人口比でいうと、ヒンドゥー教82%、イスラム教12%、シーク教2%、キリスト教2%、その他だ。 仏教徒は1%にも満たない。」
「ええっ! 俺は、インドといえば仏教とばかり思ってたぜ! 違うのかっ?仏陀が生まれた国だろう?」
「インドは、日本では仏教発祥の地として特に知られているが、5世紀から12世紀の間にインドから仏教はほぼ完全に消滅していった。 最終的には13世紀初頭のイスラム軍の侵攻により仏教は姿を消すのだが、その後、東南アジア、東アジアに仏教が広まったのは、インドで弾圧された多くの仏教関係者が避難したことが理由ともいえる。 なお、ヒンドゥー教は多神教で、その多くの神々の中には仏陀も包含していることが多い。」
「……え? よくわからんな?」
「私もその深いところは未だに判然とせぬ。 以前、シャカに疑問点を問いただしたところ、七日七晩たっても講義が終わらず、後悔したことがある。」
「えっ、そんなことがあったのか!さすがに宗教談義は奥が深いな! 俺はそんな危険なことは絶対にせんぞ!」
カミュだから七日間ももったので、自分だったら半日が限度だろうと思うミロである。 だいたい、そんな危険な話題をシャカに振ること自体有り得ないのだが。
「そうすると、お前もフランス、ギリシャ、シベリアと移動距離が長いが、シャカもインド、ギリシャとかなりな移動距離だな。」
「アルデバランもブラジル出身だ。 聖闘士には遠隔地の出自の者も多い。」
「俺なんか、ほとんど移動がないから、もう少し変化を切望するね。 違う土地のことを知りたいよ。」
「そうか? 故郷が近いというのは、私から見れば……そう………恵まれているかもしれぬ。」
グラスを揺らしたカミュが、澄んだ氷の音に聞き耳を立てる。 ことによると極東の地を思い浮かべたのかもしれなかった。
「今年の収穫祭もトラキアへ行こうぜ、あそこをお前の故郷にするんだからな。」
そう言ってグラスを空けたミロが、カミュを引き寄せやさしい口付けを贈る。 それと心得て、力を抜いてしなだれかかってくる身体が少し熱っぽくて、ミロの気をはやらせた。
「固い話はもうやめよう、せっかくのブランデーが台無しになる。 俺は柔らかいお前が好きなんだよ。」
カミュの手からグラスを取り上げてまだ少し残っているのを認めたミロは、ちょっと迷ってから琥珀の液体を口に含むとカミュを横たえながらそっと口付けてゆく。 蜜をたたえた唇が琥珀とともにミロを迎え入れ、艶やかな髪は今にも床につかんばかりにさらと流れ落ちるのだ。
あ………ミロ……
逡巡していた白い喉がやっとそれを飲み下したところを見計らって薄朱の耳朶を軽く含んでやると、返ってくるのは甘い吐息ばかりなのだ。 白かったはずの頬はすでに朱を刷き、先の予感に瞳が潤む。 それを見た上で、三つばかりボタンをはずして喉元から唇を滑らせてゆくと、ゆるゆると首を振るのだが、それは一見拒否しているように見えて、その実、誘っているのにほかならぬ。 熱を帯びた肌の火照りが好ましく、ミロは満足の溜め息を洩らす。
「あ……いや……そんなこと……」
吸いつくような肌に魅了され、ついもう少しと唇を進めると、わずかに身をよじりながらミロの頭を抱くようにしてうわずった声で訴えてくる。
灯りを落としてもいない部屋ではこれ以上のことに及ぶはずもないのだが、喜悦の表情を見られることは避けたいのだろうか、身体の奥ではミロの仕打ちを歓迎しているだろうに、なんとかしてのがれようと身をそらすのがかえってミロを歓ばせていることには気付かぬらしい。
「俺にこうされるの……嫌いなの?」
「そんな……そんなことは…私は………」
わかっていながら訊いてやるのもいつものことだが、そんな慣れているはずの問いかけにすら身も世もなく恥じらって身をよじるところなど、またなんともいえぬのである。
「そろそろ向こうに行く……?」
しばらくそうやって羞恥の色に染まるカミュを愉しんだあと、耳元でささやいてやると、いつの間にか背中に回されていた指に一瞬 力が加わった。
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