青い眼をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
  日本の港に着いたとき いっぱい涙を浮かべてた
  「 私は言葉がわからない 迷子になったらなんとしょう 」
  やさしい日本の嬢ちゃんよ 仲良く遊んでやっとくれ
   

                                  「 青い眼の人形 」    野口雨情作詞 ・ 本居長世作曲


「あの……アイオロス…」
「なにかな? カミュ」
「ギリシャって、この車で行くの?」
「そうではないよ、カミュ。」
アイオロスは微笑んだ。 この子になんとたくさんのことを教えねばならないことか。
「ギリシャは遠い。パリからマルセイユまで汽車に乗って、それから船で海を行く。」
「え………汽車も船もまだ乗ったことがない……海も……」
「いろいろなことを教えよう。ギリシャは美しい国だ、きっとカミュも好きになると思うよ。」
「ん……」


その1  乗船

小さいカミュが救済院から外に出たのは数えるほどで、車の窓から夢中になって街を見ているうちに到着したのは、ルイ・アルマン広場に面しているリヨン駅だ。 見事な時計台のある古めかしい駅の構内は人でいっぱいで、物慣れないカミュはそれだけでどきどきしてしまうのだ。 ここまで一緒だった教皇庁の職員は一足先に空路で帰るために、二人に丁寧に挨拶すると別れていった。
「あの人は一緒に行かないの?」
「仕事があるから先に帰るんだよ。 私とカミュはゆっくりギリシャに行こう。」
「ん……はい。」
なんとなく気難しそうな大人と別れて、年の近いアイオロスと二人でいられることにカミュは内心ほっとする。 一世紀前に建てられたこの駅の天井の鉄骨で造られた幾何学模様に眼を奪われていると、窓口で切符を買っていたアイオロスが振り向いた。
「そんなに上ばかり見ていると首が痛くならないかい? さあ、行こう!」
差し出された手をそっと握って連れて行かれたホームにはオレンジとダークグレーの車体の立派な列車が止まっている。
「これに乗るんだよ。 パリからマルセイユまで3時間の旅だ。」
「3時間も?!」
「以前は半日もかかったそうだが、新しい高速鉄道ができてとても便利になったそうだ。」
乗り込んだのは一等車で、アイオロスが前の座席の背中についているテーブルを倒して飲み物を置くとカミュがあっと驚いたような顔をするのがどうにも可愛くてたまらない。
「そうか、列車に乗るのは初めてだったね、これから色々なことを教えてあげられると思うよ。」
「はいっ!」
ワクワクする気持ちと、これからどんなところへ行くのだろうという期待と不安のうちに列車はゆっくりと動き出す。
パリ〜マルセイユ間の750キロを3時間で駆け抜けるこの列車はフランス政府が威信をかけて建設した高速鉄道で最高時速300キロを誇る。7月の今は リヨン、アヴィニヨンを通ってゆく沿線の広大なヒマワリ畑や線路沿いに植えられた赤いキョウチクトウがカミュを喜ばせた。はるか遠くまで広がる丘陵地帯は緑が豊かでいかにも南仏ののどやかさを思わせる。
「わぁっ、ヒマワリが、こんなにたくさん!」
「あっ、羊がいるっ!」
次から次へと目に映る風景が美しいのも道理で、フランス国鉄は12年かけてこの沿線の美化に努め、百万本の植樹、草花の種200トンを蒔いて乗客に列車からの眺めを楽しませることに成功したのだ。 フランスならではの美へのこだわりが、今日限りでこの美しい国を離れる幼いカミュの眼を楽しませたのだ。
興奮のうちに3時間が過ぎ、着いたところはマルセイユのサン・シャルル駅だ。
「カミュは地下鉄に乗ったことはある?」
「ううん。」
ふるふると首を振るカミュの頭を撫でたアイオロスは、
「車でもいいけど、それなら地下鉄にしよう。」
にっこり笑うと真っ赤な顔をしているカミュを連れて地下へのエスカレーターに乗った。 リヨン駅では見かけたものの乗るのは初めてで、またドキドキの種が加わった。 列車でもこの駅でも聞こえるものはほとんどがフランス語でカミュを困らせることがない。 この先で言葉がわからない不安に襲われるなど、考えもしないカミュなのだ。
地下鉄から降りて地上に出ると、マルセイユの港には無数のヨットが停泊し遠くには大きな船が幾つも見える。 マルセイユは古い港で、かつてはヨーロッパの玄関口だったのだ。
「ごらん、あれがイフ島だ。」
「イフ島って?」
「あそこにはイフ城があって、フランスの有名な文学作品にも出てくるんだよ。 まだ読むには難しすぎるから、もっと大きくなったら読ませてあげよう。」
指差す先には波の間に灰色のシャトー・ディフが見えるのだが、アイオロスは昔からフランス国家の政治囚を幽閉してきたというこの城の詳細を話すのを差し控えることにした。 今は観光名所になっているとはいうものの、これからの旅に期待と不安をいだいているこの小さい子供に陰鬱な知識を与えるのは早すぎる。

   それにしても、ギリシャ語の 「モンテ・クリスト伯 」 を読みこなせるのはいつのことだろう?
   本だけでも用意しておくことにするか

カミュのために用意するべきたくさんの本のリストを考えながらアイオロスが向ったのは、港に停泊している船の中でも一番大型の船だ。
「………え?……これに?」
カミュが驚くのも無理はない。 目の前に小山のようにそびえているのは世界一周クルーズの途中の豪華船だ。 その航路の途中のマルセイユからアテネ近くの港町ピレウスまでの船室を予約したのはサガだった。

「いったん聖域に入ってしまえば、おいそれと外の世界には出られない。 黄金になれば多少の自由は効くが、それも任務の上でのことだ。 基本的には我々黄金はこの聖域を離れることはないと言っていいだろう。 だから、」
サガが机上のチケットを示した。
「帰りはこれにするといい。 未来のアクエリアスの見聞を広め、歴史や美術に触れさせよう。 ついでに君も、」
チケットを手にしたアイオロスが眼を丸くした。
「最高の休日を楽しむといい。」
それが、マルセイユ〜ピレウス間の特等船室のチケットだったのだ。

「うわぁっ! すごい部屋!」
カミュが驚くのも当然だ、いや、驚いたのはアイオロスも同じだった。
専有面積が90u近くありそうなその部屋は洗面室と立派なバスルームがついている上、豪華な応接セットも見事ならシングルを二つ合わせたベッドがどっしりと置かれていて、贅沢極まりないのだ。
「ねぇ、アイオロス………僕、こんな部屋に入ったことない………ほんとにここでいいの?」
喜びと不安が半々でカミュはどうにも手放しでは喜べないのだ。 救済院での質素すぎる生活に慣れてしまったので、信じられないといった風情だ。
「間違いなくここだよ。 もっとも私もこんな贅沢な部屋は初めてだけど。」
カミュがおずおずとベッドに寄って手で押してみた。 シルクサテンのベッドカバーが美しく、あまりにもきれいにメーキングされているのでそこで眠るというのが有り得ないことのように思えるのだ。
「ギリシャに着くまでは二人で楽しく過ごそう。 君も未来の黄金聖闘士なのだから、価値のある美しいものに触れておくべきだ。」
小さく頷くカミュには、むろん黄金聖闘士のなんたるかはわかろう筈もない。 ただ目の前の美しい家具調度にひたすら見惚れているのだった。

明日の朝、マルセイユを離れるこの船には昼間の観光を終えた客が次々と戻ってくる。 部屋に荷物を置いた二人は夕方五時半からの早い時間の夕食を摂るためにダイニングルームに向った。
この小さい子供のテーブルマナーをひそかに案じていたアイオロスだが、救済院ではきちんと仕込まれていたものと見え、どうやらそれは杞憂に終ったようだ。 背筋を伸ばして緊張しながらナイフとフォークを上手に使うカミュは、当たり前のことながら、その年頃の子供が一人もいなかったのであっという間に乗客やクルーの注目の的となった。 いや、その年頃どころか三十歳前の乗客などいるはずもない。いずれもリタイアした年配客か贅沢に慣れきった富裕層の旅行客ばかりなのだったから。
「ねえ、見て御覧なさい! あそこにいる子供のきれいなこと! 色が白くて髪が長くて、まるで女の子みたいね!」
「あら、こっちを見たわ! なんてきれいな青い目なのかしら! 小さいのに、なんて気品のあること!お人形のようだわ!」
「一緒にいる青年も素敵よ、きっと貴族のご兄弟じゃないかしら?」
こんな調子でどこに行っても人目について、話しかけられることも一回や二回ではないのだった。
そのたびにドキドキして真っ赤になるカミュに替わって、アイオロスが、
「いいえ、兄弟ではありません。 用事があってギリシャまで行くのです。」
と、当たり障りのないことを言ってその場を切り抜ける。 暇を持て余したご婦人たちの相手は、若いアイオロスには少々重荷なのだ。
「カミュが可愛い子供だというので、みんな誉めているんだよ。」
「そうなの?」
首を傾げるカミュはたしかに可愛くて、この子供が慣れない土地で聖闘士になるためのつらい修行に励むことを思うとアイオロスの胸はちくりと痛む。 フランス語しかわからないというのに、聖域での暮らしで回りから聞こえてくるのは耳慣れないギリシャ語だ。
救済院を出る子供が行くのはどこかの家庭なのが普通だが、カミュの行先は家庭とは言いがたい。 うまく黄金になれたとしても、その先の住居は大理石の宝瓶宮だ。 あの広い空間にただ一人住まわせるのが不憫でならないが、それもまた水瓶座の星の下に生まれた者の宿命であるには違いない。

   せめてそれまでは、
   ギリシャに着くまでは、せいぜい慈しんでやろう   今までも、これからも天涯孤独の身の上なのだ

豪華な夕食から戻った部屋の大きなベッドは、二人にはあまりに広い。
最初は少し離れていたのだが、いつの間にかカミュがそばににじり寄ってきた。
「寂しいの?」
「ううん、そうじゃないけど……」
生まれ育ったフランスを離れて知らない国に行くのはカミュにもよくわかるのだ。 アイオロスに聞こえないようにしたつもりの溜め息が小さいカミュの思いを洩らす。
「今日は疲れたろう、ゆっくりお休み。」
「ん………おやすみなさい。」
胸元に抱き寄せてやさしく包んでやると、やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。


                                  




          古典読本 「 赤い靴 」 の続篇です。
          思わず長くなったので、まずは前編を。
          リヨン、マルセイユの様子はすべてネットから。
          事実と違いましたら、どうぞ御容赦くださいませ。

          作詞者の野口雨情は、
          「赤い靴」 と 「青い目の人形 」 を同年同月の大正10年12月に別々の雑誌に発表しています。 
          どちらも不思議な哀しさを秘めた曲です。

                                     詳しくは ⇒ こちら