その2 ジャグジー
翌朝目覚めたときには船はすでにマルセイユを離れていた。
「アイオロス?」
ベッドの上で一人でいることに気付いたカミュがあたりを見回すと、明るい窓の方から光が射して薄いレースのカーテンが風になびいている。
「起きたかい? ここにおいで、いい眺めだよ。」
カーテンの向こうからアイオロスの声がして、ほっと安心したカミュは室内履きを履くのも忘れてそっちに行ってみた。
「わぁっ! もう動いてる!」
カーテンをよけて出た先は部屋の幅いっぱいのデッキになっていて、目の前に広がっているのは地中海に面したフランスの南岸なのだ。 海の匂いがいっぱいの風がデッキを吹きぬけていく。
アイオロスが寄りかかっている手すりのそばにおそるおそる近寄って下を見下ろすと、青い海がはるか下の方に見えた。
首を伸ばして後ろの方を見ると、船の航跡が斜めの長い線になってずっと遠くまで伸びているのが珍しい。
「これを見てごらん、この船はマルセイユを出て地中海を進んでいるところだ。
この先は何ヶ所かに寄港しながら五日かけてギリシャまで行くことになる。」
デッキには真っ白いテーブルと椅子が二脚あり、テーブルの上にはすでにヨーロッパの地図が広げられている。
カミュが起きたらこれからの旅程を説明するつもりのアイオロスが部屋の書棚から見つけておいたのだ。
「ギリシャってどこ?」
「ここだよ、これがイタリア半島、歴史と美術の宝庫だ。 フィレンツェもローマもナポリも見せてあげよう。」
「……フィ…レンツェ?」
「みんな都市の…街の名前だよ。 イタリアという国があるのは知っているかな? 船が港に着いたら上陸して街の様子を見に行こう。 フランスとはだいぶ違っていて、きっとびっくりすると思うよ。」
「えっ、この船から降りるの?」
カミュは目を丸くした。 ギリシャまではずっと船に乗っていると思っていたのだ。
「ああ、そうだ。 この船は世界中を回って色々な国を見て歩きたいお客を乗せている。
港に着いたら上陸して、観光をするためのバスに乗り換えればいいんだよ。 これからギリシャに着くまでは忙しい。
君には教えてあげなければいけないことがいっぱいあるからね。」
にっこり笑ったアイオロスが小さいカミュの頭を撫でた。
「さあ、朝食まではまだ時間がある。 昨夜は疲れてしまってすぐ眠ってしまったから、お風呂に入るのはどうかな? もう用意ができたころだ。」
「え?……朝ご飯の前にお風呂に入るの?」
カミュにとっては不思議なことなのだ。 救済院の入浴は午後の早い時間に決まっていて、朝にも夜にも入ったことはない。
昨日 夕食を終えてから部屋に戻ったときにアイオロスに入浴のことを聞かれたカミュが首をかしげて断ったのも、夜に入浴するということが想像できなかったからなのだ。
「ここでは 一日中、いつ入ってもいいんだよ、ほら、もうお湯が入ってる。」
室内に戻ったアイオロスが開けたガラスのドアの向こうには真っ白い大きな浴槽に湯が張られ静かに湯気を上げている。 波穏やかな地中海を航行するこの船のあまりの大きさが湯面を鏡のように滑らかに保っていた。
水栓金具は磨きたてられた金色で、海に向いた大きな窓がカミュを驚かせる。
白と水色の内装も爽やかで美しかった。
「きれい! 外も見える! こんなお風呂、見たことない!」
あまりにカミュが感激しているので一人では上手に入れないだろうと考えたアイオロスは一緒に入ることにした。 いずれにせよ救済院の入浴とは差がありすぎるに違いない。
「長くてきれいな髪だね。」
「ん〜……よくわかんない。」
髪を洗ってやりながらいろいろな話をしていると新しい発見があるものだ。
「え? 今まではシャワーだけだったの?」
「そう。 こんなお風呂に入ったことないから………あったかくて気持ちいい! それに、とってもいい匂い!」
備え付けの入浴剤は5種類あって、カミュに好きなものを選ばせた。 初めての入浴剤に首をかしげながら選んだのはオレンジで
「 おいしそうだから……」 とはにかんで言うのがなんともいえず可愛いのだ。
入浴剤一つで驚いているカミュに悪戯っ気を起こしたアイオロスが 「 このバルブをひねってごらん。」
と言ったときはたいへんだった。
「きゃっ!!」
いきなり浴槽内にジャグジーの激しい水流が沸き起こり、突然のことにびっくりしたカミュは思わずアイオロスにしがみついた。
「大丈夫! 大丈夫だから。 驚かせてごめん! これはジャグジーといって……」
小さい手でアイオロスにぎゅっと抱きついたままのカミュの心臓がドキドキと脈打っているのがはっきりとわかる。
ほんとにこの子はなにも知らなくて……アイオリアと同じ年なのにずいぶん違うものだ
背中を撫でながらジャグジーの説明をしてやると、真っ赤な顔をして水流に手をかざして感心しているのがいかにも子供らしい。
未来のアクエリアスもまだ水で遊ぶ年頃なのだ。 弟のアイオリアと一緒に入浴したのはいったいいつのことだったろうと考えながら、子供特有の身体の柔らかさに感心したりする。
「君と同じ年の弟がいるんだよ、アイオリアという名前だ。」
「え、そうなの! お友だちになれるかな?」
「きっとなれるよ、でもそのためには少しギリシャ語を覚えなくてはいけないね。」
「うんっ、頑張る!」
浴室に元気な子供の声が響くのは、この船では滅多にあるものではない。 とくにこのロイヤルスイートに泊まる子供などこれまでにいたためしがないのだ。
こうしてカミュは浴室のアイオリアの膝の上で、ギリシャ語学習の第一歩として挨拶や物の名前を教わり始めたのだった。
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なにが問題って、これを読んだときのミロ様の反応が一番問題で………。
ヨーロッパの入浴の歴史については ⇒ こちら
いささか長いですけれど、とても啓蒙されます。