その3  フィレンツェ

最初の寄港地はイタリアのリボルノで、ここからピサとフィレンツェを見に行った。船客を乗せたバスで移動する間もアイオロスはカミュに歴史や地理、そしてギリシャ語を教え、カミュは砂地が水を吸い込むように目を輝かせながら新しい知識を身につけていったのだ。 幼いカミュが覚えなければならぬことは多いが、ギリシャ語がわからないことがやはり致命的で、サガとアイオロスが古典教養に不可欠のラテン語を学びつつ修行に励んだことを思うとこの先に待ち受けている苦労は並々ならぬものがある。 同年のアイオリア、そしてまもなく聖域に到着する筈のミロもギリシャ出身なのだから、いくら歳が同じとはいってもカミュのカルチャーショックが思われる。
「最初は言葉が通じないけれど、そのうちにだんだんと気持ちが通じるようになるよ。心配しないで勉強していこう。」
「はい!」
と元気に言うものの、カミュにはその困難さがわかるはずもない。
こうして立ち寄ったフィレンツェで優れた芸術品や歴史ある建築物、特色のある町並みを見ている間にもアイオロスが小さいカミュにわかりやすいようにローマ帝国やメディチ家の歴史などを話してやると眼を丸くして聞き入っている。

「この大きい建物がサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、つまり花の大聖堂といってフィレンツェを代表する建物だ。 デュオモと呼ばれている。」
「わぁ………」
観光客で賑わうそこは見上げるほどの高さの素晴らしい建築で、小さいカミュにもその荘厳さは伝わったものとみえる。 外側の壁の複雑な彫刻や飾りに感心しながら立派な扉を通ってまっすぐに進むと奥の中央はとても広い広場のようになっていて、はるかな上の丸天井にはびっしりとたくさんの人がいる絵が描いてある。 びっくりしたカミュが精一杯に首を伸ばして眼を凝らしていると後ろに倒れそうになり、アイオロスに支えてもらわなければならなかったほどだ。
天井の一番上はとても遠くてどうしてあんなところに絵が描けたのかとても不思議になる。
「下から壁に沿って足場を高く組んでいって、長い時間をかけて絵を描いていったんだろうね、とても根気の要る仕事だよ。 一番高いところは100メートルくらいあるらしい。 1572年から8年かかって出来上がっている。 」
「8年も!」
「描かれている絵は 『 最後の審判 』 で、この世の終わりの日に神が人間の罪を裁いているところを表わしているらしい。ほら、下の方に悪魔がいるし、上の方には神や天使が描いてある。」
パンフレット片手にアイオロスは説明に余念がない。 むろん自分も本物を見たのは初めてで感心することしきりなのである。 見聞を広めるようにと、この船旅を手配してくれたサガに感謝せずにはいられない。
「この建物も1296年から140年もかかって建てられている。 ということは、出来上がってから100年以上経ってから絵が描かれ始めたということだね。」
「ふう〜ん………」
とてつもない時間の長さがつかみきれなくてカミュは驚くしかないのだ。 建物の内部には色々な彫刻や絵がたくさんあるのだが、カミュの注意はどうしても高い丸天井に惹きつけられる。 溜め息をつきながら見上げていると、すぐそばに長い行列ができ始めた。
「どうしてみんな並んでいるの?」
「ええと………ああ、わかった! この丸い天井の壁の内側を通って てっぺんまで行けるのだそうだ。 上に出たらフィレンツェの町をぐるっと見渡せるよ。 登ってみるかい?」
「え? 壁の内側?」
壁の内側を登るってどういうことだろうと考えていると、返事も待たずにアイオロスが行列に加わった。 列はだんだん前に進んで扉を抜けると上へ登る階段が見えてきた。
「上までは464段ある。 頑張れるかな?」
「はいっ!」
こくんと頷くカミュに464段のすごさがわかるはずもないのだが、薄暗い階段を登ってゆくという冒険にドキドキしているらしく白い頬が紅潮しているのだ。
このドームは内壁が外壁を支えるような構造になっており、その内径は43メートル、人一人がやっと通れるほどの狭い通路は上に登れば登るほど窮屈な気がして閉じ込められているような感覚に襲われる。
「大丈夫かな?」
「うん、頑張る……!」
先に登るカミュはさすがに息が切れているらしいのだが、疲れた様子はおくびにも見せない。 途中に何箇所もある覗き窓からドームの中を見ることができて、はるか下からではよくわからなかった絵をすぐ近くで見ることができるのが嬉しいのだろう。 真下の床のきれいな大理石模様を見つけてアイオロスに報告をしたりしているのが子供らしい天真爛漫さだ。
むろんこのくらいのことではアイオロスの呼吸は乱れもしない。 いささか閉鎖的空間ではあるものの、十二宮を教皇の間まで毎日登っている身には楽な階段なのだ。
やがて天井の傾斜が急になってきてついに明るい光が射してきた。
「着いたっ♪」
元気な声とともにカミュが光の中に飛び出した。丸屋根のてっぺんにはさらに尖塔がついていて、それをぐるりと取り囲む通路からはフィレンツェの街が一望できる。
息を切らしているカミュの前に広がる景色はほんとうに素晴らしい。 フィレンツェの町並みは赤い屋根がほとんどで白い壁によく映える。 遠くの山の緑が美しく、空をゆっくりと流れる雲もずいぶん近く思えるのだ。
「こんなに高いところに登ったの?………すごい………」
下を見下ろせばなんと地面が遠く思えることだろう。 風に吹かれながら柵にしがみついて見ていると、地面に吸い込まれそうな気がしてカミュはちょっぴり後ずさりしてしまうのだ。
「よく頑張ったね、ここからフレンツェの全てが見える。 歴史のある美しい街だよ。」
「ん………」
遠くを見たまま返事がないのが気になってカミュの顔をのぞきこむと、少し涙が滲んでいる。
「…どうしたの?」
「あの………あんまりすごくて涙が出るの……なぜだかわかんない…」
ぽつんと言って手で涙をぬぐっている。

   きっと、とても感受性の強い子なのだ
   悲しいのでもなく嬉しいのでもない  大きなものに触れた感動が涙を出させるのだ………

アイオロスがいきなりカミュを抱き上げた。
「きゃっ…」
「いい子だ! きれいな心は宝物だ。 きっとよい人になれるよ。」
よくわからないままにカミュは頷いた。 アイオロスの肩越しにフィレンツェの街が見えている。 吹きつける風がとても気持ちよかった。



「ほら、あれがダビデ像だ。ゆうべ本で見たのを覚えてるかな?」
「うわ〜っ、どうしてあんなに大きいの? すごいっ!!」
フィレンツェの市庁舎前に置かれている大理石の彫刻を見たカミュがそばまで駆け寄って上を見上げる。
「これは100年前に作られた複製で、本物はこれから行くアカデミア美術館に置いてある。 作られたのは500年前で、これ以上雨や風で痛んでしまうといけないからね。 高さは517センチ、私の3人分より少し低い。」
平気な顔で説明しているが、アイオロスにしても実物の大きさを見るのは初めてで、頭で理解していた大きさに台座の高さを加えたこの像の存在感には圧倒されるものがある。
「こんなに大きいなんて思ってなかった! 普通の大人と同じだと思ってたのに!」
「この方が遠くからでもよく見えるからだろうね。 」
「大理石の塊りからどうしてこんなに上手に人間そっくりに作れるんだろう? 世界一うまい彫刻家の人なのかな?」
「これを作ったミケランジェロはもともとは彫刻家だけど、絵も描いたし建物の設計もした才能のある人だよ。 」
「すごいな〜、どうしたらそんな立派な人になれるんだろう?」
台座の周りをぐるぐる歩きながらカミュはおおいに感心する。
「君だって、大きくなったらきっと!」
「え?なぁに?」
アイオロスは思うのだ。
いま目の前にいるこの幼い子供がアクエリアスとなったなら、いったいどれほどのことを成し遂げられることか!
地上を救い人の命を救い人類の平和を築く礎となる可能性があることも知らずに不思議そうに自分を見上げ、ダビデ像を見上げているこの子供を大切に育て上げなければならない。
「ダビデは旧約聖書に出てくる人物で、これから巨人ゴリアテを倒そうとしているところだ。 ダビデには知恵と勇気と力があって、自分よりはるかに大きい巨人を少しも恐れていない。 ほら、しっかりと前を見据えているだろう。 君は彫刻家にはならないだろうけれど、ダビデのように勇敢な人にきっとなれる。」
「え……僕が?」
「ああ、そうだ。 君がなろうとしている黄金聖闘士はそんな人なのだから。」
「え?……え?」
困った顔をしながらもう一度上を見上げて考え込んだカミュがアイオロスの手をおずおずと引いた。

   巨人と闘うのが怖くなったかな?
   まあ、小さい子だから無理もないが………

「なんだい?」
「あの………黄金聖闘士って………ダビデみたいに裸なの?」
意表を突かれたアイオロスが吹き出した。
「違う、違うよ、カミュ! そんなことはない! ちゃんと服を、金色の鎧を身に纏うものだよ。 ダビデが裸なのは、神の創造物である人間の身体は完成された美しさを持つという考えを表現したものだ。 実際のダビデは服を着ていたはずだ。 そうでなければ闘えない!」
「ああ、よかった! それなら黄金聖闘士になる!」
「心配させたね、さあ、アカデミア美術館に行こうか。 そのあとウフィツィ美術館にも。」
アイオロスの気付いたことには、カミュは小さい子供のわりには彫刻や美しい建物を見るのが好きで、それにまつわる歴史や神話を話してやると眼を輝かせて聞き入っているのだ。
「これから行くギリシャの歴史も古い。 きっと好きになれると思うよ。」
「はいっ!」
すぐは無理だが、いずれはアテナ神像を間近で見るときが来る。 神話を受け継ぐ者の一人となる定めがカミュを待っているのだった。

                                    




            
「フィレンツェに行きました、ナポリを見ました」 では簡略化しすぎていると思い、
            ドゥオモと、あの有名なダビデ像の見学も企画することに。
            そうしたら小さいカミュ様が面白いことを言い出して!
            ええ、心配するのは当たり前です、聖衣があってよかったわ♪

            アイオロスにいい思いをしてもらうのが目的になったこのお話はもうすこし続きます。

               ※   フィレンツェ市庁舎前のダビデ像 ⇒ こちら
                   本物のダビデ像 ⇒ こちら
                   ドゥオモ  ⇒ こちら と こちら と こちら