その4  プール

どの見学地でもイタリア語やドイツ語、英語を聞くことは多いのだが、全ての用事はアイオロスが済ませてくれるのでカミュが異なる言語で話しかけられたことはない。 旅の合間を縫ってアイオロスが教えてくれるごく初歩のギリシャ語を使う機会があるはずもなく、カミュの旅は平穏だった。
一方、船の中ではただ一人の小さい子供であるカミュの存在はあっという間に知れわたり、フランス語しかできないことは周知の事実だったのでこれまたフランス語以外で話しかける客などいるはずもないのだった。 この船に乗るほどの階級は自国語以外に英語、フランス語くらいは当たり前に話せるのが普通なのだ。 フランス語が母国語でない客の中には、カミュの丁寧な言葉使いときれいな発音を喜んで、なにかといえば手元に引き寄せて話しかける老婦人などもおり、聖域に着くまでに少しでもギリシャ語の学習を進めたいアイオロスを困惑させる。
「また、うちの子になってくれないかしら、って言われちゃった!」
「おやおや! それでなんて返事を?」
「もう新しい家が決まっているからだめなんです、って言って断ったの。 そしたら、残念って。」
毎日のようにそんな会話が繰り返されて、新居になるはずの大理石の十二宮を思い浮かべるアイオロスは苦笑するしかないのだ。
この船のクルーは数ヶ国語を話せるのが必須条件で、小さいカミュは美しいフランス語の発音を心がけている彼らにも評判だった。 こうした船の常連客は最高のサービスを受けて当たり前と考えているのが常で、無理を言ってもはばかることがない。 しかし、カミュの場合は飲み物を供しても図書室の高い書棚の本を探して手渡しても、それはそれは丁寧に礼の言葉と感謝が返ってくるのである。 船に平行してイルカが泳いでいるのを教えたときには天真爛漫に手をたたいて喜んでくれて、クルーの気持ちをほのぼのとさせる。
富裕な常連客の傲岸とも取れる態度に長年慣れていたクルーにとっては、この子供の自然な振る舞いが新鮮で、一気にその評判が高まったのだ。
「カミュ様、お飲み物はいかがですか?」
「カミュ様、昼食のデザートにはもう少しフルーツを多くいたしましょうか?」
なにかといえば丁寧なフランス語で話しかけられるカミュが、そこはアイオロスに教えられたとおりに礼儀正しく 「では、お願いします。」 ときちんと背筋を正して答えるものだからさらに評判は上がり、食事時には誰がアイオロスとカミュのテーブルの給仕係りになるかの駆け引きが厨房でひそかに繰り返されるほどだったのだ。

多国籍の船客を対象にしているこの船には実に立派な図書室がある。 そのクルーズの乗船客の国籍に合わせて細かく蔵書を入れ換えることも頻繁に行なわれており、アイオロスがカミュに教える教科書には事欠かない。 まだ学校に行っていなかったカミュが知っていた救済院の図書室はいささか貧弱で、慈善団体や市民が寄付してくれた児童書や図鑑しかなかったことを思うと、その規模の大きさや蔵書数にカミュは眼を丸くするのである。
かかとが沈み込みそうな落ち着いた色調の絨緞のあちこちに座り心地の良さそうな椅子やソファーが配置され、クラシックなデザインのライトスタンドが柔らかい灯りを落としているこの図書室は、本好きのものなら何日入り浸っても飽きない書物の殿堂だ。
「本がこんなにたくさん! わっ、フランス語の本もある!」
「ほら、これは昆虫図鑑だ。 これは植物だし。 カミュは図鑑が好きなの?」
「大好き! あっ、動物のもあるっ!」
どれもけっして子供向きではないのだが、手の切れるようなページを嬉しそうにめくるカミュの目が輝いてアイオロスを感心させた。

   これほど好きならアテネでギリシャ語の図鑑を買うのがいいかもしれない
   好きなことから言葉を覚えていくのが理想的だ
   私物に本が一冊もないのは、カミュにとって寂しいに違いない

アイオロスのこの判断がカミュの生来の理科好きに一層の拍車をかけることになるのだが、それはまだ先の話だ。
こうして図書室ではその日見てきた訪問地のことを書いた本を読み、翌日の訪問地の歴史を調べ、その合間にはホールでひっきりなしに行なわれるクラシックの演奏会や沿岸国の民族舞踊を見たりもする忙しい日々である。

船に乗った二日目には、カミュはとんでもない発見をした。
「あれなに?! 」
一番上のデッキに出て沿岸の景色を楽しみながら船の後方に歩いていったときだ。 目の前にきれいな青い水をたたえたプールが出現したのだ。
「この船にはプールがある。 海の上にいても誰も海では泳げないからね。 一日中、いつでも泳いでいいんだよ。」
「プールって知らない…」
むろん救済院にプールがあるはずはなく、小さいカミュの知識にプールは入っていなかったのだ。 それに気付いたアイオロスは胸を打たれずにはいられない。海を見たこともなければプールの存在も知らない小さいカミュ。
「では教えてあげよう!」
軽く合図してスタッフを呼ぶ。
「この子が泳ぎたいんだけれど、水着はありますか?」
「お子様のお召しになるサイズは用意してございませんが、今夜の寄港地で取り寄せさせていただきますので、それまでお待ちいただけますでしょうか?」
「それでお願いします。 」
「お好みのお色がございましたら承ります。」
「さて? カミュは何色の水着がいいかな?」
急に言われてどきどきしながら、
「ええと……青いのが好きです。」
真っ赤な顔をして ( 水着……水着ってなんだっけ?) と忙しく頭をめぐらせたりしている。
「明日になったら泳げるよ。 きっと好きになるんじゃないかな。」
「はいっ!」
誰も泳いでいないプールの水がきらきらと輝いて、早くおいでと誘っているようだ。
「アイオロスは………ええと、泳げるの?」
「そうだね、泳ぐのは大好きだよ。 ギリシャにも海があるからアイオリアにも教えた。 今度はカミュの番だね、うまくなったら一緒に海で泳げるよ。」
「魚みたいに?」
「そう!海の中にもぐるとほんとに魚が泳いでいるのが見える。 でも、上手にならないと溺れてしまうから、練習は大事だ。」
「頑張る!」

さすがに子供用プールがあるはずもなく、翌朝ていねいに包まれた水着が届いてからはアイオロスと一緒に足のつかないプールで泳ぎの練習が始まった。 水に仰向けに浮かぶことから教え始めると、カミュの飲み込みのよさがアイオロスを感心させる。 真剣な顔で泳ぎの練習をする子供の姿はさっそくクルーの目に止まり、「 うちのプールで泳ぎの練習をしている子供がいる!」 と話題になった。 ついにはそれを聞き伝えたキャプテンがやってきて、
「いかがですか、小さいお客様がプールをご利用になるのは初めてで光栄です。 なにかお困りのことがありましたらなんでもクルーにお申し付けください。」
とプールサイドで休んでいるカミュに声をかけた。 長身で銀髪のアングロサクソン系の容姿は母国語がフランス語でないことを証明しているようなものだが、その発音はきわめて美しい。 このクラスの船のキャプテンともなると、立ち居振る舞いから教養に至るまで超一流の人物でなくてはとても務まるものではないのだ。
「はい、とても素敵です! どうもありがとうございます。」
「雨の日や夜には室内プールもありますので、そちらもぜひどうぞ。 きっとお気に召すことでしょう。」
にっこりと微笑んだキャプテンが去るのと入れ替わりに何人もの御婦人たちがやってきてプールサイドのデッキチェアを占領し始めた。 どこからか魔法のように現われたウェイターが飲み物の注文を忙しく取り始める。
この船の男性乗客の多くを占める社会的地位のある年配の紳士はブラックタイこそ似合うが水着姿はどうにも自信がないので泳ぐことはなく、日焼けを嫌う女性客も日差しにあふれたプールよりも、最高級のサービスで定評のあるエステを選ぶ傾向にある。
そんなわけでこの船でのプールの利用者は珍しく、ましてやそれが若い男性となれば、彼女たちが洒落たサングラスの陰から小さいカミュの可愛さやら若いアイオロスの引き締まったカモシカのような体躯を惚れ惚れと鑑賞していることは明らかなのだ。 むろん二人にはそんな事情がわかるはずもなく、泳ぎの練習に余念のない様子は彼女たちの目を十二分に楽しませたのだ。 彼女たちの夫の体型は………いや、多くは言うまい。
いくら幼いカミュの将来が嘱望されるとはいえ、やはり今現在 輝くような体躯を持つアイオロスの人気は高い。
「あの素敵な若い殿方がまたプールにいらしたら、すぐに教えてもらおうかしら♪」
飲み物を持ってきたウェイターにかなりのチップをつかませて頼む御婦人が何人もいたというから、有閑マダムの考えることは似たようなものなのだ。
二人がプールから上がると待っていたかのようにジェラートやらソフトドリンクやらが届けられ、
「あちらの御婦人からでございます。」
とウェイターにささやかれたことも二度や三度ではない。
「どうしてアイスクリームをくれるの?」
「……さぁ?」
「僕、お礼を言ってくる! そのほうがいいでしょ!」
苦笑しながらアイオロスがついてゆき、カミュがアイスクリームをおいしそうに食べ終わるまでしばらくは歓談するものだから、間近でアイオロスの若い体躯を見たご婦人たちが眩しさに目を細め、その評判はますます高まるのだった。


                                 




          世界一周の豪華クルーズですから、お客は熟年の富裕層がほとんどです。
          暇とお金を持て余している老夫婦とか、夫に先立たれた老婦人がメイドを連れて、とか。
          女友達数人で、というのもあるのかも。
          そんななかにアイオロスとカミュ様がいたらどれほど目立ったことでしょうね。