その5  ローマ

ローマこそ、かつて地中海世界に絶大な覇権を誇った大ローマ帝国の栄耀栄華を今に伝える都市である。
いたるところに巨大な大理石の建造物があり、その大きさにカミュは唖然としてしまうのだ。
「すごい、すごいっ! どうしてこんなに大きいのっ?!」
地下鉄を降りて地上に出たとたん、目の前に見えたのは有名なコロッセオである。
「これがコロッセオ。 古代ローマの闘技場だよ。 5万人が中に入って格闘技を見物したのだそうだ。」
「闘技場って? 格闘技ってなあに?」
ガイドブック片手のアイオロスはさきほどから好奇心いっぱいのカミュの質問に答えるのが忙しい。
「今から2000年ほど前のローマ人は勇ましいことが好きで、ローマの領土内の勇敢な戦士や猛獣を集めて闘わせたのだそうだ。 そしてそれを眺めて楽しんだのがここなんだよ。」
「猛獣ってなあに?」
「ええと……ライオンとか豹とか、他の動物を襲ったりする力の強い動物のことだね。」
「え!……そんな怖い動物と闘ったら怪我しないの?危ないよ!」
「ええと、それは……勇敢な剣士は剣と盾を持っているし、大丈夫さ。 観客はその剣士の勇敢な闘いを見て歓声を上げて褒め称えたのだそうだ。」
「ふうん………でも、動物も可哀そう………人を襲ったりすると危ないから、そうするしかなかったのかな……?」
首が痛くなるほど高くそびえるコロッセオの外壁を見上げるカミュのあまりの純真さにアイオロスはどうしても本当のことが言いにくい。
どうしてこの子供に、ローマ帝国が強大な軍事力で占領した土地の兵士を奴隷にして連れ帰り、わざわざ遠くアフリカなどからつかまえてきた猛獣とここで闘わせて、多くのローマ市民が咆哮と悲鳴が交錯する阿鼻叫喚の凄惨な流血の有様に熱狂していたなどといえようか。 それも、何日も餌を与えずにわざと獰猛にしておいてから人間と闘わせたのだから、その凄惨さは想像を絶するものがある。 さらに、迫害された多数のキリスト教徒が猛獣の餌食となっているし、コロッセオの落成記念に100日続けて行なわれた闘技会では2000人の剣士と5000頭の動物の命が失われたというのだ。建築物としては素晴らしいが、その目的には背筋が寒くなる。 古代ローマの施政者たちはこうした大規模な娯楽を一般市民に提供することにより絶大な支持を集めることに成功していたともいえるのだ。
ひそかに溜め息をついたアイオロスは、カミュの興味をコロッセオの建築そのものに向けることにした。

「この闘技場はとても大きくて、4階建てになっている。 ごらん、あそこの壁が切れてなくなっているように見えるのは、ここがもう使われなくなったずっとあとの時代の人たちが、宮殿や屋敷を作るためにどんどん大理石をはがして持っていったからなのだそうだ。」
「え〜っ、そんなことしていいの?」
「そのころには、もう誰のものでもなくなっていたのだろうね、作られてから1000年以上も経っていたんだから。」
「1000年っ、すごいっ!!」
「でも、立派な遺跡がだめになってしまうことを心配したラファエロという有名な芸術家がそのときの教皇レオ10世に遺跡の保存を訴えたのだそうだ。」
「ああ、ラファエロって人、いい人だね! その教皇って誰?」
「教皇とはその土地の宗教を守るいちばん偉い人だよ、これからカミュが行くギリシャの聖域にも教皇はおいでになる。」
「ふ〜ん、あっ、あの人は?!」
この機会に教皇について説明しようとしたアイオロスの意図は挫折した。
近づいてゆくコロッセオの壁のすぐそばに、なんと古代ローマの剣闘士が立っている。 むろん本物そっくりの扮装をして観光客に写真を撮らせるという商売なのだが、カミュには大きな驚きだ。
恐々と少しはなれたところを通りながらそれでもまじまじと見て、
「わぁ〜、すごいね、強そうだね〜!鎧も立派だね!」
とやたらに感心している。 アイオロスの見るところ、手作りの鎧はそれほどの出来とも思えない。 振り返って感心しているカミュがあまりにほめるので、聖域に着いたらすぐにでも聖衣を纏ってみせようと、そこは若者らしい対抗心をひそかに燃やしたりしている。
神話の時代から伝えられている黄金聖衣の輝きは小さいカミュの眼になんと映ることだろう。 ここはなんとしてもサガより先にサジタリアスの聖衣を見せねばならないとアイオロスは考えた。 人に話したことがあるわけではないが、自分の聖衣の背の翼の美しさには惚れ惚れとしているのだ。 ダビデ像を見上て嘆声を上げていたカミュにその素晴らしさがわからぬはずはないのである。 

観光客の列に続いてコロッセオの中に入ってゆくと、古代ローマ人の偉大な建築が目の前に広がっている。 そのあまりの広さにカミュは眼を丸くしてしまうのだ。
「できた時には床が貼ってあったけど、今ははがされてしまって地下室が見えているね。 あそこに出番を待つ剣闘士や動物がいたのだそうだ。 普通の市民の観客席は木の椅子があったけど、昔の話だからもう残っていない。 そして、ローマの夏は暑いので、日差しが強いときには布の日よけで全体を覆う仕組みになっていたんだよ。」
「こんな広いところを? すごくたいへんみたい! 大昔にどうやってそんなことが出来たのかな?」
仕組みを作る技術そのものにも驚嘆するが、実際にその日よけを人力で動かしたのは奴隷たちなのだ。 偉大なローマ帝国は奴隷の酷使で成り立っていたのだが、それをここでカミュに説明することもないだろう。 十二宮の壮大な建築群に圧倒されたカミュが妙な勘違いをして、聖域にも奴隷がいるのかと思ったらおおごとである。
「昔の人は偉かったんだね。」
と言うにとどめておいた。
「今はこんなふうに古くなってしまって昔の様子がわからないけど、ローマ帝国の歴史を映画にしたのを見ればほんとはどうだったかがわかるだろうね。 大きくなったら見てみるといい。」
「はい!」
のちになって、この記憶をもとに映画好きのデスマスクのコレクションから 「グラディエーター」 を選び出したカミュが圧倒されたのは言うまでもない。


「ほら、これが真実の口だ。」
「わっ…」
一目見たカミュがびくっとしてアイオロスの後ろに隠れるようにした。 本の写真で見たときはこんなに大きいとは思わなかったのだ。
コロッセオから歩いて10分ほどのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会にある 「真実の口」 は、映画 「ローマの休日」 で一躍有名になった。 船内の映画館で上映される映画のリストの中にこの映画を見つけたアイオロスは、カミュが眠った夜に一人で鑑賞しに行きローマの知識を得ることにしたのである。
当初の予想とは違い、ラブロマンスだったことにおおいに慌てたアイオロスだが、ローマ観光の手引きとしてはなかなか役に立ち、今日もそのおかげでカミュに真実の口を見せている。
「嘘つきがこの口の中に手を入れると噛み切られるそうだ。」
「え……っ」
蒼ざめたカミュがアイオロスの腰にしがみつく。
「あの………ほんとに…?」
「言い伝えだよ、大丈夫だ。 ほんとうにそんなことがあるのなら、危険だから人が近づけないようにしてあるはずだ。」
「ん………そうだね…」
「心配ないよ、私が試しに入れてみよう。」
「えっ…」
かりにこの伝説が真実だったとしても、アイオロスには恐れる理由などありはしない。 すっと手を差し入れたときカミュが息を飲んだ。
「あの………アイオロス…?」
「大丈夫だよ、ほら!」
一呼吸してから無事な手を引き出してひらひらと振ってみせるとカミュがほっと溜め息をついた。
「カミュも入れてみる? せっかくローマに来たのだから。」
「え………僕も…?」
にこにこしているアイオロスとは対照的にカミュの表情が暗くなった。
「あの………ぼく……だめ………だめだから…」
「……え?」
「アイオロスみたいに偉くない………だからできないから…」
少し涙ぐんでいるらしく、それを見せまいとうつむいたカミュに合わせてアイオロスもかがみ込んだ。
「カミュは嘘をついたことあるの?」
「ん………」
「教えてくれる?」
ここは教会だ。 アイオロスはカミュの心の重荷をそのままにしたままでここを離れる気にはならなかった。 できることなら明るい笑顔の子供に戻してやりたいものだ。
「あの………寝る前にお祈りしなきゃいけないのに……忘れて寝ちゃって………………院長先生に、お祈りはちゃんとしましたか?って訊かれて………はい、って言っちゃったの…」
「カミュ………」
「ぼく………嘘をついたの………ほんとのこと言わなきゃいけなかったのに……………嘘をついたの……どうしよう…」
あとはもう言葉にならなくて泣きじゃくってしまう。
「もうあやまれない………こんなに遠くに来ちゃって………もうあやまれない…」
アイオロスがカミュを抱き上げた。 小さい子供の胸の痛みがひしひしと迫ってくる。
「泣かないで、カミュ………大丈夫だから。 あとで院長先生に手紙を書こう。 お祈りを忘れて嘘をついたことをきちんとあやまれば、きっと許してもらえるよ。 大丈夫だから泣かないで。」
そう言ってカミュの気の済むまで泣かせてやってからそっと床に降ろしてやった。
「私の手で守ってあげるから手を入れてごらん、絶対に大丈夫だ!」
「え?」
アイオロスの暖かい手が小さい手を包んだ。
「ローマの思い出を二人で作ろう。 どうかな?」
「………ん」
ごくりとつばを飲み込んだカミュがアイオロスとともに真実の口に手を伸ばす。 ぽっかりと開いた暗い空間に吸い込まれた手がやがて無事に出てきてカミュをどれだけ安心させたことだろう。
「ほらね♪」
「うん…」
頬を赤らめたカミュが小さく頷いた。 手のひらが汗ばんで心臓がどきどきする。 アイオロスに守られている自分の小ささが思われた。
「さあ、次はスペイン広場にアイスクリームを食べに行こう!」
「えっ、アイスクリーム?」
「そうだ、きっと美味しいよ!」
「はいっ!」
軽い足取りで帰ってゆく二人を真実の口が見送っていた。


                                  




                
ああ、できました、ローマ篇!
                「ローマの休日」 の知識しかないと危ぶんでいたら、
                「それで十分ですよ」 という読者様からのありがたい助言とサポートが!
 
                コロッセオははずせないと思い、かなり調べて書きました、影管もむろん行きましたしね。
                真剣に調べたので、なんだか半分くらいは実際に行ってきたような気がします(笑)。
                やっぱりイタリアはすごそうです、行っておくべきだったかな?

                      ※ コロッセオについて ⇒ こちら
                         イタリア旅行記 ⇒ こちら  極めて詳細で写真も豊富です。秀逸な個人サイト。