「 ビターショコラ 」        歌 : KinKi Kids



聖戦が終息してのち、聖域と冥界の間には相互不可侵平和条約が結ばれ、世界は平穏を保っている。月に一度は使者が事務連絡会議と表敬を兼ねて交互に訪問し相互理解に努めることが慣例となっているので、互いの接点も増してきた。左様、聖戦は過去の話となったのだ。

「ちょっと尋ねたいことがあるのですが。」
「なんでしょう?」
教皇の間の近くで呼び止められたのはカミュだ。
「これから街に行く用事があるのですが、なにしろ地上は不案内なもので、道を教えていただきたいのです。」
礼儀正しい物言いはバレンタインだ。丁寧な物腰と端正な容姿を買われて冥界からの使者として聖域にやってくることが多く、カミュともすでに顔見知りで何回か言葉を交わしたことがある。
「アテネのどこへ行かれます?初めての街はおわかりになりにくいでしょうから、よろしければご案内しますが。」
「いえ、それでは申し訳ないので地図を書いていただければいいのですが。」
なぜかバレンタインが真っ赤になった。
「では街の入口までご案内しましょう。行く先はどちらですか?」
「あの…スイーツの店に行きたいのですが、どこかよいところはありますか?冥界にはそういった種類の品がないので、たまには珍しいものを買い求めてみるのもよいかと思って。」
聞かれもしないことを早口で述べたバレンタインは、軽く頷いたカミュが他人の事情を詮索するようなタイプの人間ではないことにやっと思い当たったようで、さらに耳まで赤くなった。先に歩いているカミュはそんなことには気付きもしないで警備の詰め所に寄ると紙とペンを借りて几帳面な筆跡でアテネの有名菓子店の地図を描き始めた。

「定休日だといけないので、念のためその確認もしておきました。ところでユーロはお持ちですか?」
「え?ドラクマではないのですか?たしかギリシャはドラクマだと聞いているのですが。」
バレンタインが意外そうな顔をした。出身地のキプロスはギリシャにもほど近く、隣国のギリシャがドラクマを使用していることは知識として持っている。なお、1914年にイギリスに併合されたキプロスの通貨単位は、1960年に独立してその翌年にイギリス連邦に加盟したためポンドのままであった。
「貴方はキプロスのご出身でしたか。ギリシャは2001年1月1日からEU、すなわち欧州連合の経済連盟に加入し、通貨もドラクマからユーロに変わっています。お国のキプロスは2008年からユーロを導入していますね。ドラクマをお持ちなのでしたら、こちらでユーロに替えていくことをお勧めしますが。」
「そんなことがあったのですか!それはまったく知りませんでした。やはり冥界の情報は遅れていますね。国を離れてしまったので、そちらのほうには疎くて。地上に生きるあなた方が羨ましく思えます。」
「どうぞたびたびおいでください。なにも会議のときと限らなくても、人的交流を妨げるものはありませんから。」
がっかりした様子のバレンタインをカミュは気の毒に思う。けっして日の射すことのない冥界に今後も暮らさねばならぬとはなんと過酷なことだろう。
「そう願えれば嬉しいですね。以前は聖域を刺激しないように物資の調達も遥か離れた地域で行っていましたから、ヨーロッパの事情はよくわからないのです。」
EUのことについて話しながら財務部でドラクマからユーロへの両替を済ませると、カミュがバレンタインをアテネまで送っていった。
「どうもありがとうございます。用事が終わり次第聖域に戻り、そのあとはすぐに帰国しますからここでお別れですね。」
冥界と地上を行き来するには冥衣をまとっていなくてはならないが、漆黒の冥衣は聖域での印象がいいとはとてもいえなくて、バレンタインは用意されていたごく普通の服装で過ごしていた。冥衣に慣れていた身には地上の衣服は軽装に過ぎる気がしてならないが、目立たないのは事実だし、正直言って冥界に召請される前の普通の暮らしを思い出して懐かしくもなった。
「ではどうぞお気をつけて。なにか困ったことがありましたら私の携帯に電話してくださればいいですから。」
カミュがバレンタインの携帯に自分の番号を入力した。冥界からの使者には地上での連絡用に携帯を持たせることになっていて、バレンタインも慣れないながらなんとか電話くらいは掛けられる。ただひとつ入っていた教皇庁の代表番号に続いて、カミュの番号が二つ目の登録というささやかさだ。
「これは冥界からは通じるのでしょうか?」
「え?電波の状態は………さあ?どうでしょう?」
さすがのカミュにもわからない。距離ではなくて次元の問題だろう。中継基地局が必要かどうかも未知の領域だ。

   案外、無線LANが可能ということはないだろうか?
   いや、それでもケーブルは要るはずだ
   冥界と地上との間に有線が引けるとでも?
   それとも冥界は地上とはまったく異なる位相を有しているのか?

これまでは人が行き来して連絡をしているが、電話もしくはメールで連絡できるのならそれに越したことはない。カミュの好奇心が燃え上がる。
「地上と連絡ができるかどうか、冥界から私に電話を掛けてもらえますか?うまくいかなければほかの手段を模索してみたいと思います。」
「もちろんです。相互理解の一助となることでしょう。」
電話が可能ならメールも写真も送信できる。会話を交わしているうちに双方とも理系なのが判明したので、カミュとしては冥界の気象や地磁気のことも知りたくてたまらない。携帯のGPS機能が有効であれば、冥界の相対的位置もわかるかもしれないのだ。
一方のバレンタインも携帯の便利さには感動していたので、通信できる相手ができればこんなに嬉しいことはない。地上の情報に飢えている暮らしに明るい光が射してくる。
胸を躍らせた二人は固い握手を交わした。世間の常識からかけ離れたメル友の誕生である。


                          


  そっと覗き込む横顔はまるで知らない人だね すれ違ってく他人みたいに離れそう