「ビターショコラ」    その2


「さて。」
カミュと別れて一人になったバレンタインは手にした地図を見ながら慎重に歩き始めた。地上に来始めたころは聖域にいるだけでも緊張の極みで、神経がぴりぴりとして街に下りることなど考えもしなかったものだが、回数を重ねるごとにそれも和らいできたし、今日はとりわけ大事な用事がある。どきどきする胸をなだめながら街中を歩いていると道行く人が自分にはとくに関心を払っていないのがわかってほっとする。冥衣を身に着けていないのは妙な気分だが、この身の軽さにもそろそろ慣れてきた。
10分ほど歩いてゆくと、目指す店が見えてくる。
慣れないギリシャ文字は読みにくい。手にした地図に書かれたきっちりとした書体と看板のクラシカルな飾り文字を何度も見比べたバレンタインが 頷いた。道に面したショーケースは華やかな色の花やリボンでディスプレイされていて、色彩に乏しい冥界に慣れきっていた目には沢山の綺麗なギフトボックスが眩しく映る。
聖域にはもう何度も来ているバレンタインだが単独でアテネの街に来たのは今日が初めてだ。ましてや店での買物など得手ではない。冥界では有り得ない華やかな消費文明に圧倒されて、地上の暮らしの豊かさに羨望と嫉妬を覚えるのも無理からぬことだ。しかし冥界に身を置く境遇を嘆いてみてもいまさらどうなるものでもない。バレンタインは大きく息を吸ってから店内に入っていった。
「いらっしゃいませ!」
店の中では何人もの女店員が客の応対をしている。きれいに磨かれたガラスケース、工夫を凝らした店内の装飾、照明も家具も品がよくて手入れがよく行き届いている。
いずれも冥界にはないもので、本来美しいものが好きなバレンタインを高揚させる光景だ。地上の消費生活の豊かさが、極端に地味すぎる冥界から来た人間を圧倒し、彼我の違いをこれでもかこれでもかと見せ付ける。
ケーキやクッキー、キャンデーや各種砂糖菓子が華やかに並んでいる中でバレンタインが寄っていったのはチョコレートのケースだ。粒よりの意匠を凝らしたチョコレートが銀色のトレイの上に並び、選ばれるのを今か今かと待っている。ほかに大小さまざまの箱に詰められたギフト用の品もたくさんあって、迷いに迷った挙句やっと正方形の深紅の箱に十六個のチョコレートを詰めてもらうことにした。それから小ぶりのチョコレートケーキも気に入って、それも買うことにした。冥界では望めない豊かさにひそかに胸を躍らせる。
「ではラッピングをいたしますのであちらのカウンターまでどうぞ。」
この店ではラッピングコーナーを別に設けており、年配の店員が客の好みの包装紙とリボンで丁寧に品物を包んでくれる。
青い包み紙と金のリボンを選んだバレンタインがほっとしているとチリリンとドアベルが鳴った。チラッと視線をやると店のドアが開いて客が何人か入ってきた中によく知っている顔がある。

   あれはサガだ……
   ほう! 街で見るのは初めてだが、さすがに私服でも風格があるのだな

見るともなく見ていると、サガはケースの中を熱心に品定めしていて心なしか微笑んでいるのが離れて見ていてもよくわかる。店員となにか話しながら選んでいるのもさすがに場慣れしていて、こうしたことは縁のないバレンタインには羨ましい。
「お客様、お待たせいたしました。」
綺麗な紙袋に入れてもらったチョコレートとケーキを受け取ったバレンタインは熱心にケースの中を覗き込んでいるサガの後ろを通って店を出た。カミュが教えてくれた店はさすがに上品で客筋もよく、だからこそサガも来たのだろうと思われた。もしかしたら聖闘士御用達の店なのかもしれない。

   やはり地上はいい
   力で奪い取るよりも条約を結んでときどきやってくるほうが理にかなっている
   この社会システムを破壊したら冥界の者ではとても復旧はおぼつかない

潤いや気配りが十分とはとてもいえない冥界の日常を思いながらバレンタインは帰途についた。

「ラダマンティス様、ただいま戻りました。」
まっすぐにラダマンティスの執務室にやってきたバレンタインがすぐに聖域での会議の報告を始めた。三日間の滞在中の出来事を完璧に纏め上げて上司に報告するのは彼にとって義務でもあり喜びでもある。上司に心服しているバレンタインの報告は誠意を尽くした完璧さで常にラダマンティスを満足させる。
「ご苦労だった。慣れない地上で疲れただろう。今日はゆっくりと休むがいい。」
「は。恐れ入ります。地上からよいものを持ち帰りましたので、ただいまお茶をお淹れします。」
「そうか、すまんな。お前も一緒に飲むがいい。聖域の土産話でも聞かせてもらおうか。」
「はっ、光栄です。」
控え室で持ち帰ったチョコレートケーキを慎重に切り分けていちばん趣味のよい皿に乗せ仕上げに銀のフォークを添えてみた。いつもの金縁のティーカップに熱い紅茶を淹れるのも今日は格別な気分だ。崇拝するラダマンティスと二人きりでお茶の時間をすごせるとは、なんと幸せなことだろう。
「どうぞ。」
「ほう!これは…!」
いかにも美味しそうなケーキを見たラダマンティスの顔が輝いた。この瞬間こそがバレンタインの喜びだ。
「アテネの店で買い求めて参りました。お喜びいただけると嬉しいのですが。」
「さすがに見る目があるな。こういうものを持ち帰るのを思いつくのは冥界広しといえどもお前くらいのものだろう。」
「畏れ入ります。」
尊敬してやまない上司に賞賛されてバレンタインの胸は誇りでいっぱいになる。この言葉を聞くためならどんなことでもしようとあらためて心に誓う。
アテネの街の賑わいや菓子店の美しさに感心した話をしながらチョコレートケーキのとろけるような美味しさに舌鼓を打っていたとき聞きなれぬ音がした。いや、三日の間 聖域にいた身には多少は聞き知った音でもある。
「おっと、すまん。」
紅茶を飲もうとしていた手を止めたラダマンティスが懐から取り出したのは携帯だった。