与謝蕪村



ミロが目覚めたとき時計の針は正午近くを指していた。 
隣にカミュの姿はなく、ぬくもりも残っていないところをみると、ベッドから抜け出してからかなり時間が経っているのに違いない。 
半身起き上がったミロだが、昨夜の酒がまだ残っているとみえ頭が重い。 
 
    そんなに飲んだつもりはないんだが…… 
   ………カミュはどこに? 
 
足元をふらつかせて立ち上がり身支度を整えたミロはドアへと向かいかけた。 
と、そのとき、通り道になにか白いものが落ちているのが目に留まったのだ。 
特に何の理由もなく拾い上げてよく見ると、それは小さいボタンである。 
 
  ボタンだ……なんのボタンだろう……? 
 
まだ醒め切らない目でよく見ると、表側にはかすかに放射状のカットが施してあり、裏側は………今時珍しい貝ボタンだったではないか。 
 
    え?………貝ボタン? 
   ……ちょっと待てっっ!! 
   このボタンは俺がカミュに…… 
   そうだ、確か6月16日に贈ったシャツについてたボタンじゃないのか??!! 
 
シャツ自体のデザインはごくシンプルなものだったが、ボタンがちょっと洒落てるな、と思ったミロがカミュに贈ったものなのだ。 
 
   思い出せ! カミュが昨夜着ていたのは、このシャツだったか? 
   もしも………もしもそうだったら………! 
   くそっ!なにも思い出せんっっ!! 
   俺はゆうべ酒を飲んだあと、どうしたんだ??? 
 
ミロは色を失った。 
ボタンはベッドからドアへの通り道の、かなり目立つところに落ちていた。 
あの几帳面なカミュがそんなところに何日も落としたままでいることはありえない。 
するとどういうことになるか? 
本来、貝ボタンは仕立てのいいシャツにしか使われない品で、縫製もしっかりしていただろうから、自然に取れるはずなどないのである。 
そのボタンがカミュの寝室に落ちていて、カミュはそれを拾うことなく部屋を出ている………。 
まだ暗いうちに部屋を出たので、落ちていたボタンに気付かなかったのだろうか、それとも、まさか、ボタンにも気付かないほど動揺していたのか? 
そもそもボタンはなぜ落ちた? 
 
どうしても昨夜の自分のとった行動が思い出せないミロの額に冷や汗が滲んでくる。 
以前こんなことがあったときは、結局ミロが眠ってしまったため笑い話ですんでいる。 
しかし………ミロは嫌な予感がした。 
ともかくカミュを探し、そっと様子を探ってみて、だめだと思ったら詫びるしかないのである。 
静かに廊下に出てカミュの気配を探ってみる。 
廊下を伝いながら居間の近くまで来ると中から穏やかな小宇宙が感じられた。 
少しほっとして細めにドアを開けると、長椅子にカミュの姿が見えた。 
それはいいのだが、肘掛に頬杖をつき眠っているようにも見えるではないか。 
今までにこんなカミュを見たことはない。 
 
   もしかして……動揺して眠れないまま居間に来て、やっと明け方に眠ったとか…? 
   ………それとも俺の横で眠るのが嫌だったということもあるんじゃないのか? 
   そうだとしたら、俺はどうすればいい?? 
 
混乱しながらそっと部屋に入ったとき、かすかな気配に気付いたのか、カミュが目を開けた。 

一瞬、視線が絡み合い、ドキッとしたミロが口を開こうとしたとき、カミュがすっと目をそらしたではないか。 
「 あ、あの……俺………」 
ミロは言葉を飲み込んだ。 
さすがになんと言っていいのかわからない。 
当惑したまま、手近の椅子におそるおそる腰を下ろす。 
そっとカミュの方を盗み見ると、相変わらず頬杖をついたままだが顔をそむけて壁の一点を見つめたままだ。 
ミロには、もっとも恐れていた事態が起こったのだとしか思えなかった。
そうしてミロが言葉を探して苦悶しているうちに、正午を知らせる鐘の音が聞こえてきた。 
それを合図にしたかのようにカミュが立ち上がり、足早にドアへと向かう。 
 
   行かせてはだめだ!! 
   このまま行かせたら、俺たちは………! 

ドアを開ける音がした。

「 カミュ!!」 
やっとの思いで立ち上がったミロが、押し殺した声で呼び止めた。 
ノブに手をかけたまま立ち止まったカミュは、振り向きもしない。 
こんなはずではないのに、と思うミロの膝が震え、握りしめた手の中に汗が滲んでくる。 
「 カミュ………ほんとに俺が悪かったから…… お前にすまないことをした……なんと言ったらわかってくれるだろう……俺はほんとにお前のことが大事で……好きでたまらなくて…… ああ…なのに俺は………」 
それ以上の言葉が続けられずにミロは溜息をついたが、その溜息さえも喉が震えてうわずった。 
「 カミュ……カミュ……」 
もう立っていられないような気がして椅子にどさりと腰をかけたミロは、頭をかかえてしまった。 
 
   どうすればいいのだろう………こんなにカミュのことが好きなのに……… 
   なのに……なのにカミュの心を傷つけて…… 
   もしも…もう許してもらえなかったらどうすればいい……? 
   このことが、俺たちの間に埋めようのない溝を作ってしまったら………
   涙など、あの時すべて流しつくしてしまったはずなのに、なぜ目のふちが滲む? 
   カミュ………俺のカミュ……すぐそこにいるのに手が届かない…… 

ドアを閉める音が響いた。 
豊かな金髪に覆われた肩が震え、かすかな嗚咽が漏れる。 
カミュの態度からみて、昨夜のミロが、してはならないことをしたのは間違いがなかった。
それは、酒の上のことだから、というような言い訳が通用するものではなかったし、覚えていないからという不面目な理由でカミュに、教えてくれ、と言えるような性質のものでもなかったのだ。
そんなことをしようものなら、さらにカミュの心を傷つけてしまうことは火を見るより明らかだった。
自分の中にある密かな願望を、これまでずっと押さえつけてきたミロである。
理性では納得していたけれども、そのことが時々頭の隅を掠めていたのは事実だったのだ。

   それを踏み越えてしまっていたとしたら…………

取り返しのつかないことをしたという喪失感がミロの心をさいなみ、カミュを追う力を失わせる。
出会ってからの様々な思い出が走馬灯のように頭をよぎり、ミロの胸を締め付けた。
ともに笑い、涙した日々、勝利に笑みし、地に倒れ伏した日も互いのことを片時たりとも思わぬことはなかったのだ。 

   それを……それを……俺は……………

一筋の涙が流れたとき、震えのやまぬ肩に手が置かれた。
「 ミロ………」
額を押さえていた手の中でミロが大きく目を見開いた。

   カミュ………部屋を出たのではなかったのか……

「 そのままで聞いてほしい………ミロ……お前はいつも私にやさしくて………出会った最初のときからとても大事にしてくれた。 私はいつのまにかそれに狎れてしまい、お前に甘えていたのだろうと思う……私が望むことはなんでもその通りにしてくれて、それなのに私がお前にしてやれることはとても少なくて…………」

   そうじゃない、カミュ………
   お前はもともと、自分からなにかを望むことがめったにないから………
   だから俺はそれを叶えてやれることが嬉しくて……それこそが俺の喜びで………

唇が震えるばかりで、思う言葉が紡げない。
カミュの手が金髪を掬い上げ、白い指の間から黄金がすべるが如くに流れ落ちてゆく。
「 それであのときも…そう……最初のときも…」
語る声は低くなり、途切れ途切れにミロの耳に届く。
「 私が望まぬことは、お前はすぐに理解してくれて………私は嬉しかったし……お前もそれでかまわぬのだと、ずっと今まで思い込んでいた……でも……」
椅子の後ろからかがみこんだカミュが波打つ髪に頬を寄せ、耳元でささやく。
「 昨夜……そうではなかったことを知ってどれほど驚いたことだろう……何年もの間……ミロ………お前は私の意志を尊重してくれて、自分の思いを押し隠していたのに私はそれに気付きもせずにいて………お前のことを考えてもいなくて………」
「 カミュ………そんなことは……俺は……………」
白い腕がミロを抱き、黄金の髪に口付けが繰り返される。
「 そしてお前は……こんな私のことをやっぱり大事にしてくれて………すまない……ミロ……」
その言葉にミロがはっと顔を上げた。

   するとカミュ………俺は……

「 お前が眠ったあと……どうにもいたたまれなくてここに来た……ミロ………ミロ………私はどうすればいい?……お前の顔が見られない………」
顔を伏せたカミュの重い吐息が、ミロの心を揺さぶった。
「 カミュ……そんな心配はしなくていいから……俺はどんなときでもお前のことが一番大事で……お前の望みは俺の望みだ。 それは、俺も聖人君子じゃないから時には踏み外すこともあるかもしれん、だが……」
ミロは立ち上がると、うつむいているカミュを引き寄せた。
「 覚えていて欲しい。お前の気持ちを尊重することが俺の一番の喜びだ。昨夜はほんとうにすまなかった、心から詫びる………俺を許してくれるか?」
そっとかきいだくと、ミロの腕の中でついた溜息が先ほどとは違い、安堵のそれのようだった。
「 ミロ……許すなどと………詫びるのは私の方なのに……」
「 では、おあいこということでどうだ?そして、このことは忘れよう。俺たち、元通りになれる?」
潤んだ瞳でカミュが頷いたのは、唇が震えてうまく返事ができないためらしかった。
「 ……あ、そうだ!今度から、俺が飲みすぎてるとお前が思ったら、すぐに外に叩き出してくれていいぜ!」
「 そんなことは………そんなことはしない。その代わりに、それ以上飲めないように私がその場で凍らせてやろう」
「 え……それはちょっと………まあ、しかたないか、身から出た錆だ。ただしその時はお手柔らかに頼むぜ。
 絶対零度だけは御免こうむる。」
「 なにを勘違いしている?」
カミュの青い瞳が笑いを帯びた。
「 凍らせるのは酒のほうだ、誰が大事なお前を凍らせるものか。」
「 それはそうだ、俺を凍らせたら、お前を抱く人間がいなくなるからな♪ あとが淋しいぜ。」
腕の中で赤くなったカミュのいとしさに、ミロの胸は踊る。

   カミュ……お前をいつまでも守り、いつくしんでいこう……俺の宝……俺の大事なカミュ………

目を閉じたカミュに与えられた口付けは、たとえようもなくやさしかった。




                     日記の「ボタン小説」が古典読本に昇華しました。
                     俳句も背景も、なんとふさわしい!!

                     ミロ様カミュ様のお互いを思い遣る気持ちは深く、
                     これまで培ってきた関係もやや独特なものなのです。
                     今回、その一端が、はしなくもほの見えましたが、
                     雨降って地かたまるのたとえの通り、
                     ますます仲睦まじきお二人になれたようです。
                     めでたしめでたし ♪
                     でもミロ様、お酒には気をつけましょう!
                     

                 この作品を、書く契機となった言葉をくださった小貫ひろみさんに献呈します。
                 もらってもお困りでしょうけれど、無形の財産ということで!


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    牡丹散って うちかさなりぬ 二、三片