まっくらな土の中 何年も過ごしながら まだ見ぬ太陽の光を 蝉たちは信じてる

                                          作詞作曲  : 槇原 敬之  「cicada 」


(カミュ!ちょっと来てくれ!)
夕食前の家族風呂に行こうと、離れで浴衣の用意をしていたカミュの頭の中にミロからのテレパシーが響いた。これはとても珍しいことだ。聖闘士といえども普段の生活では不要 不急のことにテレパシーは使わない。
(どうした?)
緊急事態ならばテレポートも辞さない構えでカミュが訊くと、
(いや、そこまでじゃないんだが、見て欲しいものがある。門の近くだ)
(わかった、すぐ行く)
門の近くならばホールを経由するよりも庭を抜けていったほうが近い。夏の日差しが降り注ぐ緑の庭を足早に通り過ぎて枝折り戸をくぐるとミロの姿が見えた。
「なにごとだ?」
「ほら、これ。」
ミロが門柱のそばの地面を指差した。
「ああ、これは蝉の幼虫だ。」
「やっぱり!抜け殻はいくつも見たけど、生きてるのを見たのは初めてだ。」
土の上でひっくり返ってジタバタともがいている明るい褐色の蝉の幼虫に数え切れないほどの蟻がたかっているのを見たカミュが手を差し伸べて救い上げた。かなりの蟻が落ちた が、まだ十数匹の蟻が忙しく幼虫の身体の上を這い回っており、何匹かはカミュの手のひらで右往左往している。
「助かるかな?」
「たぶん。」
「その蟻、どうすればどけられる?」
「水をかけよう。手で摘み取るのは難しい。」
手のひらでもがき続ける蝉の幼虫を落とさぬように玄関脇の水場に運んでいったカミュは、それを敷石の周りに生えているジャノヒゲの上に置くとひしゃくでそっと水をかけた。 三回ほどかけると蟻はすっかり流れ落ちて人間の目から見るときれいさっぱりとした幼虫が現れた。助けてやったという経緯もあって、つぶらな黒い瞳が愛 らしくさえ見える。
「そんなに水をかけて気管に入ったりしないか?蝉に気管があるかどうかよくわからんが。」
「大丈夫だろう。蝉の幼虫は何年も土の中で過ごす。その間に豪雨もあるが、それで溺れ死ぬはずはない。それに速攻で蟻を払い落とすにはこの方法がよい。」
「そりゃそうだ。蟻だって土の中に巣を作るが、豪雨のたびに全滅するんじゃ種の保存が図れないからな。」
ジャノヒゲの上でもがいている蝉の幼虫をカミュが再び手のひらに乗せた。
「どうするんだ?逃がすのか?」
「いや、せっかくの機会だから羽化を観察したい。おそらく明日の朝には成虫になるはずだ。」
「そうなのか?ずいぶん早いんだな。」
ミロの知識ではどうしても蝶や蛾と比べてしまう。いままで経験した幼虫たちはいずれもサナギになって一週間ほどで羽化している。
「蝉は種類にもよるが3年から17年の間 地中で過ごし、地上に出てきてから一晩で羽化する。サナギにはならない。卵→幼虫→成虫の不完全変態だ。ついでに言うと、卵→幼虫→サナギ→成虫となるのが完全変態だ。」
「ふうん、そうなんだ。しかし17年って長すぎないか?3年でも十分に長いのに。」
「昆虫ではもっとも寿命が長い。俗に地上では八日の命といわれているが自然な状態では一ヶ月ほど生きているようだ。」
「いくら17年生きてても地上が一ヶ月じゃ俺はいやだな。冥界って、あれも地中か?俺は日の光を浴びた聖域の聖闘士でほんとによかったよ。地面の下なんて性に合わん。まっぴらごめんだね。」
そこへ美穂がやってきて、カミュが手にひしゃくを持っているのを見ると、
「どうなさいました?」
と声をかけてきた。
「ああ、今そこで……」
カミュがちょっと言葉を濁す。いままでの経験で女性が虫を苦手にしていることを学んでいるのだ。チラッとミロを見るので、後はミロがあとをつぐ。
「ええと、そこで蝉の幼虫を捕まえたんだけど、もしかして虫を見るのはいやかなと思って。」
ごく控えめにそう言うと、
「あら!蝉の幼虫ですか!それは珍しいですね。ええ、怖くはありませんわ、蝉の抜け殻なら毎年たくさん見ますもの。星矢ちゃんも好きだったんですのよ。それに蝉を虫だなん て思ったことありませんわ。」
と美穂が嬉しそうにした。    

   え? 蝉が虫じゃない? 蝉って昆虫だと思うが

よく聞いてみると、蝉が昆虫だということはよくわかっているが、蝶、トンボ、蝉、カブトムシなどの知名度が高く識別が用意なものには好感を持っていて 『虫』  という言葉は使わないのだという。
「蛾は好きではありませんけれど虫だと思ったことは、そういえばありませんわねぇ。虫っていいますと、名前のわからないもの、小さいもの、たくさんいるもの、気持ち悪いも の、をひとまとめにして言うような気がします。昆虫ですと学問的ですけれど、虫ってもっと簡単な言葉ですので。昆虫採集とはいいますが、虫採集とは誰 も言いませんし。それを言うなら虫取りですわ。」
「つまり、虫けらとか、虫が知らせるとか、虫がつくとか、虫が好かないとか、そういうことかな?そう言えば一般論だ。ああ、おじゃま虫っていうのもあるな。」
ミロが笑う。 カミュに虫が付いては困るし、離れにおじゃま虫が来るのもいい迷惑だ。
「まあ、ミロ様もほんとによく日本語がお分かりでいらっしゃいます。」
ニコニコした美穂にカミュがそれではと手のひらを開いて蝉の幼虫を見せると、
「あらまあ……抜け殻はよく見ますけれど生きているのを見るのは初めてですわ。ちょっと可愛い顔をしていますのね。どうもありがとうございます。殻から出てきたときは羽が 緑色でとてもきれいだって聞いたことがありますわ。」
しげしげと眺めた美穂がそう言った。これはミロには初耳だ。
「えっ、羽が緑なのか?なんで?」
「なぜって……なぜでしょう?」
美穂が首をかしげてカミュの方を見る。どうやらなんでも知っていると思われているらしい。
「おそらく保護色だと思うが。羽化したばかりのときに鳥などに襲われることを避けるために周囲の葉と同じ緑色になっているのでは?」
「ああ、なるほどね。でもそれならそのあともずっと緑の方が安全だと思うが。現にキリギリスやバッタには全身緑色のがいるぜ。」
「それは生物の多様性であって、すべての生物が同じ進化を遂げるわけではない。キリギリスは葉を食べるので緑色のままの方が保護色になるが、蝉は木の幹にとまって樹液を吸 うので体色が褐色の方が目立たない。」
「あ、それはそうだな。」
「それはともかく、この幼虫をなんとかせねば。」
カミュの手のひらでごそごそ動く幼虫に羽化にふさわしい場所を定めてやるのが急務のようだ。