古池や 蛙とび込む 水の音      

松尾芭蕉  俳諧撰集「春の日」より



「貴様っ!!下郎の分際で、俺のカミュになにをしてくれたっっっ!!!!」

ハーデス城の入り口で迫り来るラダマンティスの執拗な攻撃をかいくぐってきたミロは怒りに燃えた。
今にも絶えようとするカミュの小宇宙を辿って来て見れば、これはなんとしたことだ、見るも醜悪な冥闘士が、この世でもっとも至高な我が恋人を足蹴にしていたのである。 哀れ、いとしいカミュはもはや抵抗する力もなく、されるがままではなかったか!

この想像を絶する光景はミロの血を凍りつかせ、続いて、その全身の血は最高点にまで沸騰した。 即座に凄まじいばかりの拳圧で、そのけがらわしい輩を石壁に叩き付け、冷たい石畳に打ち伏しているカミュのもとに駆け寄り傍らに膝をつくと、あらん限りの慈しみを込めてその身を抱き起こした。

「な、なんだっ!貴様はいったい?」
激烈な痛撃からやっと半身を起こしかけた冥闘士のしゃがれた声が癇にさわったのだろう、ミロは振り向きもせず五月蝿そうに片手でそれを再び壁に叩き付けると、懐かしい恋人の身体を震える手で抱きしめた。 力を失ったその身体が、こんなにも重く感じられたことは一度もなく、のけぞった喉の痛々しいほどの白さが目につらかった。 このいとしい人を守ってやれなかった悔恨が、針のようにミロの胸を苛んでゆく。
流れる艶やかな髪ごとそっと頭を抱き、我が胸にもたせかけると、血の気の失せた頬に顔を寄せ、ミロはかつてしていたように優しく囁きかけた。
「カミュ…俺のカミュ…頼むから目をあけてくれ、間に合ったといってくれ。」
その暖かい声と懐かしい小宇宙に気付いたのだろう、カミュの色を失った唇が僅かに動いた。
「ミロ・・・・・・・・・・・・やはり来てくれたのだな・・・・・・」
カミュの手が弱々しくミロの頬に触れる。
「当たり前だ、カミュ、ああ、俺のカミュ!こんなにひどい目に合って!!!もう少し・・・・・・、もう少し早く俺が来ていたら、お前を守って
 やれたのに!!」
ゆっくりとミロの頬をなぜていた指が一瞬震えたかと思うと、その手は力なく床に落ちた。
はっと胸を衝かれ、急いでカミュの手を取ったミロは、あれほど美しかった桜色の爪が割れて赤く染まっているのに気付き、胸が潰れる思いであった。 ミロの目が涙で曇り、いとしいカミュの姿を滲ませる。
あれほどに愛し、求め、憧れた恋人がこの腕の中にいるというのに、その身は傷つき、かくも弱り果てているとは、此の世に神も仏もあるものか!
ミロの嘆きと怒りは、あまねく全銀河を蔽い尽くさんばかりであった。 その小宇宙は聖域はもとより、エリシオンの隅に至るまでくまなく届き、全ての生きとし生ける者を驚かせ、すべての死せる魂を震え上がらせた。

「さあ、カミュ、これを飲むがいい。」
ミロは懐から取り出した何かを口に含むと、そのままカミュに口づけていった。 あれほどミロを夢中にさせたカミュの唇が、抵抗することもなくミロを受け入れるのがたとえようもなく悲しかった。 熱い涙が溢れ、動かぬカミュの頬をも濡らしてゆく。
ミロの言葉も聞こえなかったのだろう、口中に入ってきた何かに気付いたカミュの長い睫毛が驚いたように震えたが、ミロに促されるままにそれをやっと飲みくだしたものだ。
すると、これはいったいどうしたことであろうか、今にも息絶えんばかりであったカミュの身体に力が満ち溢れ、全身に纏わりつき呼吸を妨げていた粘つくような冥界の気も雲散霧消したではないか!

カミュがはっと目を開けたとき、最初に見たものは喜びに輝くミロの青い目であった。
ああ、死の眠りから目覚めてより、どれほどこの瞳を見たいと思ったことか知れはせぬのだ。
「ミロ、これはいったい?私に何を飲ませたのだ??」
己が二の腕を掴むカミュの力の心地良さに、ミロは安堵の溜め息をついた。
「ここに来る途中でカリン塔に寄り、仙豆をもらってきた。なるほど聞きしにまさる効能だな!」
「仙豆だと?!そういえば、昔、老師におうかがいしたことがある。」
この危急存亡のときに、よくそんなことを思いついたものだ、とカミュは感嘆せずにはいられない。 ミロは、そのカミュににやっと笑いかけると、今度は万感の思いを込めて再びカミュを抱き寄せる。
「あ・・・・」
「さっきのは切な過ぎたからな、もう一度だ。」
さきほどまでひび割れ、血が滲んでいた唇も、今ではすっかりもとに戻っている。 柔らかい花のような感触がミロを陶然とさせたのは、いうまでもない。 ミロに抱かれたカミュの頬が朱に染まってゆくのも以前のままであった。 暫しの忘我の時が二人を包む。

「……ミロ、私だけでなくサガとシュラにも仙豆を…」
「ああ、わかっている。」
ミロは倒れている二人につかつかと歩み寄ると、口に仙豆を押し込んであっというまに回復させた。 茫然とする二人に手早く説明すると、ミロは表情をあらためた。
「さて、俺にはやらねばならんことがある。 カミュ、お前の手を汚させたくはない。黙って見ていろ。」
そう言うと、壁のほうに向き直ったミロは、這いつくばってもがいている冥闘士に続けざまにスカーレットニードルを浴びせかけた。 もはやびくりともしないそやつから目をそらしたミロがサガに呼びかける。
「下郎の姿など二度と見たくもない!次元の彼方にでも放り投げてくれ。」
重々しく頷いたサガが必殺のアナザーディメンションを放つと、もうそこには冥闘士の影も形もなかった。
我が意を得たり、とばかりにミロが肩をそびやかした。

そのころ遥か遠くはなれた五老峰の大滝にひときわ大きい水音が響いたが、気付くものは誰もいなかったということだ。






                  原作・アニメともに、誰もが衝撃を受け、誰もが涙したあのシーン!
                  それを古典に乗っ取り、美しく謳い上げてみました。
                  ミロ様の心情としてはこのくらいしても当然かと。
                  ことの本質以外は省くのが文学表現の鉄則なので、この場には青銅やラダマンティスはいません。

                  それにしても、書いててこんなに気持ちよく楽しかった古典読本は初めてです。
                  積年の恨み、晴らしたり!!

                  私にしては珍しく、シリアス&ギャグ&情緒の作品。
                  思いっきり筆が走りました♪♪



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