唇は黙 (もだ) し ヴァイオリンはささやく
「カミュ、用意は出来てるか?」
「ああ、もちろんだ。」
よく晴れた秋の朝である。 空の青さも手伝ってか、連れだって宝瓶宮を出た二人の足取りは軽い。
巨蟹宮近くまで降りてくると、向こうからデスマスクがやってきた。
「よう、御両人! お揃いでどこへ行くんだ?」
「トラキアだ。 今日は収穫祭だからな!」
「収穫祭? なんの?」
「葡萄だ。 知らないのか? トラキアは葡萄の産地なんだぜ。」
明るく言って、ミロはカミュと石段を降りてゆく。
「葡萄の収穫祭って………ワインの買い付けにでも行くのか? あいつはワインには目がないからな。それにしても、カミュがそんなところ
まで付き合うというのも珍しい。」
ちょと首をかしげたデスマスクはしばらく二人の後ろ姿を見送っていたが、すぐに石段を登り始めた。
「ブドウはギリシャ全土で栽培されているが、ワイン用のブドウの生産量が一番多いのは俺の故郷のトラキアだ。 といっても自家消費用
の農家が多いんだが。 知ってるか? ブドウの産地は大理石の産地と重なるところが多いんだぜ、石灰質の土壌がブドウの栽培に向
いてるのかもしれんな。」
「ずいぶんと詳しいのだな。」
感心したようにカミュに言われたミロが、得意げに笑みを漏らす。
「俺はワインには詳しいんだよ、博識なのはお前だけの専売特許じゃないってことだ。」
「では、ワインについてはソムリエのお前に任せるとしよう。 それにしても、ほんとうにお前への誕生日のプレゼントは、なくてもよいの
か?」
「ああ、いいんだよ。 お前が一緒に来てくれたことが、俺にとっての一番嬉しい贈り物だからな。」
「ただそれだけでか……? よくわからぬが。」
「そのうちわかるさ。」
不審顔のカミュの横で、一人くすくすと笑うミロである。
二人が歩いているのは、南に向いたなだらかな斜面に沿った道である。 両側は見渡す限りのブドウ畑で、降りそそぐ午後の日差しが十一月にしては眩しいほどだ。
「ほら、あれが俺の村だ。一番高いのが教会の尖塔で、俺の育ったのは、教会の前の道をもう少し先に行ったレンガ色の屋根の家だ。」
ミロが指差す先に、緑の木々に囲まれた、規模は小さいがのどかなたたずまいの家々が点在しているのが見て取れた。
「ほんとうに私などが行ってもよいのか?」
眩しい日差しを避けるように手をかざしながら見ていたカミュがつぶやいた。
「大丈夫だよ、心配することはないさ! 従兄弟たちには、とっくに連絡してあるんだぜ、俺の親友を連れて行くって。 喜んで歓迎するって
返事をもらってあるんだからな♪」
安心させるようにそう言うと、ミロは先に立って歩き出した。 ほんとのところはキスの一つもしてやりたかったのだが、こんな場所では誰がブドウの陰から出てこないとも限らない。 余計な詮索をさせる必要など、ないのである。
今年は豊作でブドウの出来もいいらしく、村に近づくにつれ、二人にも収穫祭の活気が伝わってくる。
すれ違う男たちは二人を見て 「 ほう!」 という顔をするだけだが、女たち、とくに若い娘は頬を染めて目をそらし、通り過ぎたあとで申し合わせたように振り返るのだった。
街に出ることの多いミロは一向に気にしないのだが、カミュの方はそうはいかぬ。 困惑顔でいるのが、横を歩いているミロにはおかしくてならないのだ。
「気にするなよ。 お前が世間的にはちょっときれい過ぎるだけなんだよ。 人目を引くのは宿命だと思ってあきらめるんだな。」
「しかし………」
「そんなことをいうなら、俺だって、お前を誰にも見せたくないぜ。 しかし、そうもいかんだろう、気にしないのが一番さ。」
こともなげに言うミロに、しぶしぶ頷くカミュである。
「やあ、ミロ! よく来てくれた!」
「ああ、ディミトリー、ソティリオ!こっちがカミュだ、俺の親友。 よろしく頼む!」
ミロの従兄弟たちは陽気な性格らしく、二人を分け隔てなく出迎え、握手してくれた。 どちらも金髪なのはミロと同じだが、よく日に焼けて血色がいい。
「あと1時間で夕食だ、それまでゆっくりしてくれ。 ただし、飲み食いは禁物だ、腹はすかせておくように ♪」
そう言ってミロににやりと笑ってみせると、二人は畑の方へ出かけていった。
「あの二人が亡くなった叔母の息子だ。 葬儀のときに十数年ぶりに会ったんだが、小さいころはよく一緒に遊んでいたし、叔母がなにか
につけて俺のことを話していてくれたんで、気兼ねなく付き合える。今夜は、さぞかしにぎやかになるだろうな。 俺の記憶に間違いがな
ければ、村中の人間がワインを飲んで遅くまで楽しむことになる。」
夕食までの時間、ミロはカミュとともに村の中を歩き回り、自分の記憶の中にしまい込んでいた 「銀色の魚が群れをなして泳ぐ小川 」 や 「悪戯をして隠れるのにちょうどよかった繁み」 を見せて歩いては愉快な話でカミュを笑わせることに専念した。 そして、行き会う村人には自己紹介をして 「 ああ!よく覚えてる! あのいたずらっ子の金髪のミロがこんなに大きくなったとは!」 などの台詞を引き出し、一緒になって笑いながら、横にいるカミュのことを 「 俺の親友だから、よろしく!」 と紹介するのを忘れなかったのである。そのおかげで、いざ、ブドウ棚のそばで村をあげての収穫祭が始まったときには、新来のカミュも人々の輪に自然に入ることができたのだった。
小さいときに村を離れたミロだが、育ててくれた叔母がことあるごとにミロのことを懐かしみ話題にしていたため、どの村人もミロの姿を見つけると懐かしそうに寄ってきては、その背が高くなったことに呆れ、ちょうど今日が誕生日であることを知って 「 あの子が二十歳にねえ!」 と一様に驚くのだ。
ミロの誕生日と聞いて急遽用意されたテーブルには、色とりどりの花篭が飾られて料理の皿も数多く、にぎやかなことこの上ないし、もちろん赤や白のワインの瓶がミロのグラスが空くのを今や遅しと待っているのだった。
ミロに腕を引っ張られて並んで座ったカミュにもワインを注ごうとする者は多いのだが、ミロが片っ端から 「 こいつは全然飲めないんだ。その代わりに俺がいくらでも飲むから!」 と言って、酔う方は一手に引き受けた。
それでも、断りきれずに注がれたワインを少し口にしたカミュの白い頬が紅潮するのをとめることは、ミロにも出来ぬ相談である。 困った様子でほてった頬に手を当てる仕草が、いつも見慣れているミロの目から見てもどうにも魅力的で、まずいな…と思う反面、密かに誇りたくなるのも男の性 ( さが ) と言うものだろうか?もっとも、遠くからその様子を眺めては、目を輝かせながらささやき交わしたり、頬を染めてじっと見つめる娘たちが視界に入ると、どうにもこそばゆくてならぬミロである。
宴たけなわとなり、一同にかなり酔いが回ってきたところで、少し腰の曲がった老婦人がやってきた。
「ああ、あれは俺の大伯母だ! 俺のことがわかるかな? こないだは、会えなかったからな。」
カミュにそう話しかけたミロが、挨拶するために立ち上がったときだ。 すぐそばまで来てしげしげとミロを見上げたその老婦人がこう言った。
「おやおや、ほんとにミロだよ、こんなに大きくなって!」
覚えていてくれたのかと、嬉しくなったミロが返事をしかけたときだ。
「その隣りのきれいな人は、花嫁さんかね?」
一瞬、時が止まった。 少なくともミロとカミュには、そうとしか思えなかった。
次の瞬間、大爆笑が巻き起こり、辺りが笑いの渦に包まれたのは当然だ。
「ち、違うっっっ!!!! 違いますっっ!!!これは、俺の親友のカミュで……!」
真っ赤になって否定するミロの声をかき消すばかりに男たちは涙を流して笑い転げ、娘たちは一斉に嬌声を上げて笑み崩れる。
カミュの美しさには村人全てが感銘を受けていたのだが、そんなことを面と向かって言うようなことは誰もしていなかっただけに、その場にいる者の気持ちを代弁するかのようなこの発言は、皆に受け入れられたのだ。 ミロの伯父に至っては 「無理もない…女房の若いときよりきれいだからな……」 と、つい呟いたのを聞かれてしまい、あとで散々な目に遭ったようだった。
挨拶をしようと、ミロにつられて立ち上がりかけていたカミュは、その言葉に 「 あっ!」 という顔をして満面に朱を散らし、絶句してうつむいてしまった。 そういえば、髪が長くて色白のきれいな顔立ちをしているところは、暗がりでは女と見間違われても不思議ではないのかもしれなかった。
気がつけば二人の前にだけ美しい花篭が飾られて、席も全体のほぼ中央なのだ。 さらにご丁寧なことに、少し肌寒さを感じていたカミュは、膝掛け用にと椅子に置いてあった赤いショールを白い絹のシャツの上からはおっていた。 これはこの地方の花嫁の衣装によく似た色あわせで、月のまだ昇らぬ夜に老婦人に勘違いされてもしかたがなかったといえる。
まわりの様子に一瞬ぽかんとした老婦人は、すぐに間違いに気付いたようだった。
「あらまあ………ほんとに男の人だよ! ミロの嫁だなんて、ずいぶんと失礼なことを………いえ、あんまりおきれいなものだから、つい。」
当惑したミロの大伯母の素直な感想が再び笑いの波を広げてゆき、カミュをたじろがせた。 宝瓶宮を守護する黄金聖闘士アクエリアスのカミュといえども、こうした率直な 「 攻撃 」 には、なすすべを持たぬのである。
「いいえ、どうぞお気になさらずに。 カミュと申します。」
丁寧に挨拶をするカミュは、はた目にはなんとも思ってないようにみえたかもしれないが、ミロにはとてもそうは思えない。笑いもおさまり、もとのにぎやかさを取り戻した中で席に座ったカミュが、ぐいっとワインを飲み干したところをみると相当に動揺しているようだ。 かなり心拍数が上がっているに違いない。
ミロはそうしたカミュを気の毒だと思いはするものの、実のところ、そんなに悪い気がするわけでもないのだ。
花嫁とはな………まったく、なんという感違いを!
俺が言ったわけではないが、あとでカミュによっく謝っておこう…………
男としては、こういう場合、やっぱり傷つくのかな??
しかしなぁ………できすぎてるぜ、まったく!
それにしても………ふふふ………花嫁か……♪
なんとなく楽しい気分でグラスを空けたあと、隣りのカミュにささやいてみた。
「すまん、あとでよく説明しておくから……なにしろ年寄りなので。」
「いや、かまわぬ。 ちょっと驚きはしたが。」
そうは言うものの、暗い中でも真っ赤な耳朶がよくわかり、今度はミロをドキドキさせる。
う〜ん………人目がなければ絶対にキスに持ち込むところなんだが、いかにも惜しいっ!
もっとも人目があったからこそ、あの発言があったんだからな ♪
「ちょっと飲み過ぎたかな。 少しその辺を歩いて、酔いを醒まそうぜ!」
カミュの肩を軽く叩いて立ち上がったミロがその場を離れていくのは自然なことで、好奇の目を向ける者などいるはずもない。
細い小道はやがてブドウ畑に回りこんでゆき、ほかに語らう者もいないようだった。
「さっきはすまん……気を悪くした……?」
「いや、そんなことはない。 ミロの方こそ困ったのではないか?」
「俺? 俺は別にかまわんさ、少しは面白かったし♪……あ、すまん……」
急に立ち止まったミロが、ちょっとためらってからカミュに言った。
「なあ……お前……きれいだからって、女に間違われたのは嫌だったろうが、もう一つのほうさ……」
「………え?」
心なしか、カミュの声がうわずったようだ。
「花嫁に間違われたほうだが………その…嫌だった?」
「あの……それは………私は………」
ブドウの葉を揺らす風が、ひそめた声をまぎらわす。
ミロが聞き取ろうと耳を澄ませたとき、遠くからバイオリンの音色が聞こえてきた。 誰かが持ち出してきたバイオリンで踊りが始まったらしく、にぎやかな気配がここまで流れてくる。
「私は……そんなに嫌でも…なかった………ただ恥ずかしいだけで………」
今ごろになってようやく昇ってきた月は細い眉の形で、目を伏せているカミュの表情はあまりわからない。
「カミュ………」
ミロがやさしく抱きしめた。
「この村を………俺の村を、お前の故郷にしよう……俺が帰郷するときはいつも一緒に来よう。 そうすればお前にも故郷ができるから……きっとみんな歓迎してくれる、なあ、そうしよう……」
カミュはなにも言わなかったが、ミロの背に回された指先に力が入り、震える吐息と潤んだ瞳が雄弁に心のうちを物語っていた。
弾き手の得意なのだろうか、流れてくるバイオリンが華麗なカデンツァを奏で、すぐにすすり泣くようなロマンチックな旋律へと移っていく。
それを聴きながら蜜をたたえた柔らかい唇におのれのそれを重ねたミロの目に、滲んだ三日月がちらと見えた。
ろーらん様からの 「 7000キリリク」 は、
華麗にも 「 ミロ様お誕生日記念作品」 と 「 サイト開設一周年記念作品 」 を兼ねることとなりました。
いただいたリクエストは、レハール作曲のオペレッタ 「 メリー・ウィドウ 」 の中から 「 愛の二重唱 」。
まあ、ミロ様カミュ様にぴったりね!
ここで、池田さんと納谷さんがデュエットしたCDがあったらなぁ、と思ってしまった私(笑)。
素晴らしく力強い二重唱だろうと思います、声の響きが朗々として ♪♪
レハールの曲では、他に 「 金と銀」 が有名ですね。
「 唇は黙 ( もだ ) し ヴァイオリンはささやく 」
オペレッタ 『 メリー・ウィドウ 』 は、
大富豪の未亡人ハンナと、彼女の昔の恋人で、いまや遊び人のダニロがパリで再会し、
意地を張り合ったり誤解したり、すったもんだのあげく結ばれる、というストーリーですが、
ようやく気持ちの通じた二人が歌う 「 愛の二重唱 」 のワルツが、この歌詞で始まるのです。
「メリー・ウィドウ・ワルツ」 と呼ばれて親しまれている曲です。
8月末に出した古典読本38 「 我が屋戸の」 に続く 「 ミロ様帰郷篇 」 第二弾は、
ここに見事な結実を見せたように思います。
「 見事な 」 というのは、出来栄えでなくて、
お二人にとっての事実が 「 見事である」 ということですので、念のため申し添えます。
そのきっかけとなるキリリクを下さった ろーらん様に、ミロ様カミュ様とともに、感謝です。
素敵なキリリク、どうもありがとうございました。
⇒ 「 我が屋戸の 」
レハール作曲 : オペレッタ 「 メリーウィドウ 」 「 愛の二重唱 」 より