◆ 第十三章 外 泊 1
去年の春に建て直されたばかりのうちの高校の寮は鉄筋五階建てでむろんエレベーターがあり、入り口は
I D カードがないと出入りできないようになっている。 指紋認証システム導入の予定だったが、設置の間際になって化学系の実験をする生徒は指先に薬品がかかり指紋が読み取れなくなることもあるという説が出て、I
D カード方式に落ち着いたらしい。
A棟のカミュの部屋から出ると外はもう真っ暗で北風が冷たく吹き付けてくる。
首をすくめた俺はここぞとばかりにカミュと手をつないだ。 せめてこのぬくもりを胸に今夜一晩を乗り切るしかないのだ。
「カミュはどんな用事があるの?」
「うちの学校には大学もあって、学校全部を合わせるととてもたくさんのコンピュータが使われていてね。 ところが夕方にそのコンピュータの調子が悪くなって大急ぎで修理をしなくてはならなくなったのだそうだ。 できるだけ早くしないとコンピュータが壊れてしまうので、直せそうな人を呼び集めているところだよ。
私が勉強しているのは電子物理学という種類のものだけれど、コンピュータのことにも詳しいので呼ばれたのだと思う。 突然のことでジョアンと一緒に寝られなくてほんとにごめんね。
朝までには終わると思うから、今夜はムウのところでお行儀よくできるね?」
「うん………」
まだショックは冷めやらないが、ここは五歳のジョアンがどんな風に振る舞うべきかを理性的に考えるしかない。 それでも一応は言ってみた。
なんでムウじゃなきゃいけないんだ?? 他にも人材はいるだろうに。
「僕、アイオロスとかサガのお兄ちゃんのおうちでもよかったよ。 とってもやさしいもんっ!」
「それが、二人とも修理に呼ばれてるそうだ。 コンピュータが得意なんだよ。」
ふうん………二人ともね………そしてカミュも………で、ムウだけ残るのか?
怪しいっ、絶対に怪しいっ!!
「ムウのお兄ちゃんはコンピュータが苦手なの?」
「それが、夕方に脚をくじいてしまって出かけられないのだそうだ。 でも、ジョアンのお世話はできるから安心していいよ。 ほんとにムウがいてくれてよかった!
ジョアンを預かってくれる人がいなかったら困るものね。」
いい年をした高校生がどうして脚なんかくじくんだ??
カミュ、お前、人がよすぎるぜ!
そいつはすごくいいことだが、将来、オレオレ詐欺なんかに引っかかってくれるなよ!
学内のコンピュータが新型のウィルスに感染してその対応に追われているということだろうが、もしかしたらそれをやったのはムウじゃないのか? あいつだってコンピュータは人並み以上に操れる。 「そのへんのハッカーなど、私の手にかかれば赤子の手をひねるようなものですよ 」 と言ってるのを聞いたことがあるからな。
ということは、自分でもハッカーの真似くらいはできるってことじゃないのか?
奴ならウィルスをばら撒くことくらいやりかねんっ、むろん目的は俺の正体を探ることに決まってる!
せっかくのカミュとの蜜月の夜を台無しにされた怒りと落胆は大きい。ひそかに溜め息をついているとカミュがムウの部屋をノックした。
「やあ、いらっしゃい! ジョアン、こんばんは!」
「急なことですまないが、今夜一晩よろしく頼む。 ジョアンもご挨拶して。」
「こんばんは。」
ほんとはカミュにくっついていってウィルスの始末をしたかったが、それができないのが口惜しいっ!
きっと俺の携帯にも緊急召集のメールが送られてきたに違いない。 もっとも俺が小さくなったからこそ、ウィルスがばら撒かれたに違いないのだが。
「パジャマと歯ブラシはここに入っている。 あとはお風呂に入れて寝かせるだけなのでよろしく頼む。」
「ああ、大丈夫。 昼間のうちに仲良しになったからなにも心配は要らないですよ。
ねっ、ジョアン♪」
「うんっ!」
なにが仲良しだっ?!
この猜疑心と陰謀と欺瞞の塊りめっっ!!
「では急ぐので、これで。 ああ、それからジョアンは抱っこやキスが大好きだそうだ。 夜は寂しがるらしいから一緒に寝てやったほうがいいかもしれない。 じゃあ、ジョアン、お利口にしていてね。」
親切にもムウに助言をしたカミュがかがみ込んで俺の額に軽くキスをしてくれたが、俺はムウとの過剰なスキンシップを思い浮かべ、衝撃で口もきけなかった。
「さあ、ジョアン、おいで。」
あっさりとムウが俺を抱き上げた。
くそっ、どうして俺が貴様なんかに!
よせっ、頬を寄せるなっ、髪に触るなっ、そんなに揺すらなくていいっっ!!
張り倒したかったが、そんなことをしたらますます怪しまれる。 完璧に五歳の子供を演じきらなくては将来に暗雲が立ち込めることは明白だ。 じっと我慢したまま抱かれていると、ムウがリビングに入っていった。
部屋の造りはカミュの部屋と同じで、インテリアは………カミュの方が趣味がいいっっ!
なんだ? この壁に張ってあるポスターは?
「 羊達の沈黙 」 、これってあの世紀の犯罪者レクター博士シリーズの第一作だろうが!
こういうのが貴様の好みか?
………まさか俺を実験台にするんじゃあるまいな?
「まだ7時半だから寝るには早すぎるね、テレビでも見てるかな?」
やっと抱き下ろされてほっとしていると、ムウがテレビをつけた。
「ほら、ちょうど 『 きかんしゃトーマス 』 が始まるよ。 間に合ってよかったね。」
「うんっ!」
冗談じゃないっ、なにが嬉しくてこの俺がこんな幼児番組を……!
NHKのクローズアップ現代を見せてくれ!
背中でムウの視線を感じていた俺は心にもないニコニコ顔を見せねばならず、精神的苦痛の中で30分が経過した。
こんなことならアイオロスの 「 こぶとりじさん 」 の紙芝居を聞いていたほうがよっぽどましだ。
あのとき逃げ出したツケが回ってきたのかもしれない。
「さあ、お風呂の用意ができましたよ。」
にっこり笑ったムウが俺の手を引いた。 血の気もついでに引いてくる。
「僕、一人で入れるよ。」
一応は言ってみた。 せめてミロの親類の子が自主自立の気風に富んでいることくらいは知らせておいたほうがいいだろう。
「初めてのお風呂で転んだり溺れたりするとたいへんですからね。 カミュから預かったのですから私には責任があります。
今夜は一緒に入りましょう。」
これがサガやアイオロスの台詞なら俺も素直に頷くだろうが、相手はムウだ。
羊のようなおとなしい顔をして俺の身体を穴の開くほど観察し、幼児化の証拠を掴もうとしてるに違いない!
ああっ、うちの学校のセキュリティーさえもっと完璧なら今ごろはカミュと入浴してたのにっ!
情けなさに涙が滲んでくる。 断るすべを持たない幼い俺は、浴室へと重い足を運んでいった。
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