◆ 第二十七章  ミロ

ムウからのメールを何度も読み直しながら、考えをまとめようと努力した。 いくら俺が即断即決を信条としているからといっても、こんな重大なことを即座に判断することなどできるはずもない。
内容をよく吟味した上で、ムウへの返信はあとにして、ミロからのメールをカミュに送ることにした。 優先順位はこっちのほうが高い。 子供の身体になってしまったのが昨日の日曜日、月曜の今日は学校の創立記念日、そして明日の火曜は建国記念の日で三連休だ。 そろそろミロが戻って来る日を知らせておかないとカミュも心配するだろう。
文章を入力してメールを送る。 あとはカミュからの返信が来るのを待てばいい。 電源を切った携帯をポケットに忍ばせて部屋に戻ると、すっかり用意のできたテーブルでカミュが俺を待っていた。 BGMにはギターのCDがかかってる。 「アルハンブラ宮殿の思い出」 だ。 一日の終わりにはこういう静かな音楽がふさわしいというもので、いくらディズニーから帰ってきたあとだといっても 「ディズニーメドレー」 なんかをかけられたら困るというものだ。 もっともカミュがその手のCDを持っているはずもない。
カツサンドにフルーツサンド、たまごサンドやポテトサンドもあってテーブルの上はにぎやかだ。 いろいろなサンドイッチをカミュと分け合って食べて、今日のことをいろいろと話した。
「ディズニーってすごいね! 面白い乗り物がいっぱいあって、すごく楽しかった!」
「よかったね、写真もいっぱい撮ってもらったからあとでもらえるよ。」
「うん!」

そうなのだ、シャイナと魔鈴がデジカメの被写体に俺を選んだのであちこちでポーズさせられて、最初は乗り気ではなかったが、途中からは開き直ってめちゃめちゃ可愛いポージングで決めてみた。
「きゃあっ、ジョアンくん、それ可愛いっ! 今度は背景にシンデレラ城を入れるわよ!」
「おい、ジョアン、このポーズをできるか?」
横で見ていたデスが得意げにやって見せたのは、腰と肩を妙にひねった独特のポーズで、それは知る人ぞ知る、あの有名な作品のポージングなのだ。
「できるよ! ジョジョでしょっ!ディ・モールト 大好きっ!」     
※ ディ・モールト   イタリア語で 「ひじょうに」 の意味
「おっ、お前、詳しいな!イタリア語を言ってくれるとは嬉しいね!」
「パパが大好きなんだよ、うちに全部あるよ!」
『 ジョジョの奇妙な冒険 』 は世界各国で人気を博してる。 ギリシャで知られていてもべつに不思議はないだろう。 かく言う俺も実は全巻持っている。
デスと一緒にジョルノやナランチャのポーズを決めたのは愉快な思い出だ。 あの写真ができてくるかと思うと、笑えてしまう。 俺たちがジョジョで盛り上がっている間、カミュはよくわからないような顔をしてこっちを見てた。 アイオリアは知ってはいるが、自分が参加するのは遠慮したようだった。

サンドイッチを食べ始めてすぐにカミュの携帯にメールが来た。 さっと目を通したカミュが俺に言う。
「ミロからメールが来たよ。 明日も一日忙しくて帰ってこられないけれど、水曜の朝一番の飛行機で帰るので、ここに10時ころに着くそうだ。 一緒にジョアンのお父さんとお母さんも迎えに来るので、そのままギリシャに帰るのだそうだよ。 それで、水曜日は私は学校の授業があってジョアンと一緒にいられないのだけれど、一人でミロとご両親が来るのを待っていられるかな?」
「うん、大丈夫だよ。 一人でも怖くないもん!」
「二時間くらいだから平気かな? ほんとは一緒にいてあげたいけど、授業にも出なくてはならないし。」
「ミロにいちゃんが来てくれるんでしょ、大丈夫! それにお父さんとお母さんも!」
ミロが来るのは当たり前だ。 俺がミロに戻るのだから。 両親のほうが後回しになったのは、ちょっと問題かもしれないが。
「そのかわり明日は一緒にいられるからね。 日本の国の祝日でお休みなんだよ、よかったね。」
ほっとしたらしいカミュがコーヒーを一口飲んだ。 俺のほうもほっとしてちょっと冷めたスープを飲み干した。 カミュがミロの携帯に了解した旨の返信を打ち始めた。

「さあ、お風呂に入って寝ようか。」
「は〜い!」
その前にもう一度トイレに行って、カミュからのメールを確認してからムウに返信をした。 すぐに返事が来て、これで手筈は整ったことになる。 あとは心置きなくカミュと過ごす時間を大切にしよう。
昨日の俺は不幸にもムウに身体を洗われたが、今日こそはカミュと一緒に入浴だ。 後顧の憂いなく前途の多難も退けて、俺は夢のひとつを果たそうとしてる。 

   まさか今日はコンピュータウィルスなんか見つからないでくれるだろうな
   昨日のうちに完璧な対策をしてくれたと信じてるぜ!

どきどきしながらカミュの隣りで服を脱ぐ。 何も知らないカミュには悪いと思ったが、日本人なら公衆浴場や温泉で裸になるのは当然だ。 日本人の学校で修学旅行に行ってれば、とっくに裸はお披露目してる、気にすることはない、というのは自分だけに通じる言い訳かな? やっぱり。

………天国だった。
俺は髪と身体を洗ってもらって、お返しにカミュの背中を洗ってやった。 狭い湯船でぎゅうぎゅうになって温まり、スキンシップを楽しんだ。 カミュは入浴剤を入れ、それがあいにくマリンブルーに濁るタイプのものだったのがちょっと残念だったが、すべてを望むのは贅沢だ。 見えないほうが心臓のためにはよかったとも言える。
「ジョアンはほんとにすべすべだね。」
「そぅお?カミュもとってもすべすべだよ、気持ちいい〜!」
俺はこの世の悦楽を味わった。 どこがどうって………そんなことはここでは言えない。

あがったあとは歯を磨いてベッドに直行させられた。
「私はちょっと勉強しなくてはいけないから、ジョアンは先に寝ていいからね。」
「え〜……」
そんなことではないかと思ったのだ。 勉強家のカミュが丸一日ディズニーに行ってそのまま寝るなんてありえない。
ほんとにがっかりした俺がさびしそうな顔をしたのだろう。 机に向かいかけたカミュが困ったように微笑んでベッドに腰掛けている俺のほうにやってきた。 隣りに座って俺の顔を覗き込んでくる。
「ジョアンは一人ではさびしいの?」
「ん……ぼく、男の子だから……さびしくないから…」
そう言いながら、カミュとあと少ししか一緒にいられないことを思って切なくなった。 元に戻っても、こんな関係はありえない。 たとえ思いが通じても、子供じゃないからジョアンのようにはなつけない。 胸が迫ってうつむいていたら、なんとカミュが俺と一緒に寝ると言う。
「そうだね、ジョアンはもうすぐ行ってしまうんだものね。 いいよ、今日と明日は一緒に寝よう。」
「えっ、ほんと?!」
俺の頭をなでてくれたカミュと一緒にベッドに入る。 やさしく抱き寄せてくれて背中をやさしくさすってくれて!
ああっ、こんな幸せがあっていいのか?? 俺は八百万の神に心の底から感謝した。
カミュの胸に顔を押し付けて思う存分息を吸う。 いい匂いがして夢のようで、こんな調子じゃ朝まで眠れないに違いない。

   待てよ?
   俺は恋人気分だが、カミュはもしかして親子の気分でいるんじゃないのか?

………まあいい、スキンシップを楽しめばいいんだから。 大事なのはお互いのぬくもりを感じて人間同士の絆を深めることで、そのためにはこの肌の温かさというものが………ほんとにカミュは……きれいで…………やさしく……て……

はっと気がつくと朝になっている。隣には誰もいなくて机に向かっているカミュの背中が見えた。

   しまった! たったあれだけで俺は眠ったのか?
   せっかくカミュに抱かれてたのに、あまりにも短時間の記憶しかないっ!

「なにしてるの?」
「ああ、おはよう、ジョアン。 昨日は早く寝たからね。 早起きしてレポートのまとめをしていたんだよ。」
「わぁ、お勉強してすごいね!」
ああ、そうだった。 俺も流体力学のレポートをかかえてる。 ギリシャ語通訳をやっていて時間がなかったと言って、一日だけ提出を遅らせてもいいだろうか。 まさか単位をくれないってことはないだろうな?
あのレポートさえ出してしまえば卒業は決定だ。 とっくに進路は決まってる。 ちょっと不安になりながらカミュの手伝いをして朝食を食べた。
「これから図書館に行って本を借りてきたいのだけれど、ジョアンも一緒に来る?」
「う〜んとね、今日はお留守番してる! 図鑑を見てる!」
カミュの本棚には植物図鑑や昆虫図鑑があって、子供の興味を引くには十分だ。
「それじゃ、一時間くらいで帰ると思うから、ごめんね。 今日は子供の絵本も借りてくるからね。」
「行ってらっしゃ〜い!」
朝食の片づけを終えたカミュが出ていった。
部屋にとって返した俺はすぐにメールを打った。 五分ほどしてチャイムが鳴って待ち人が現れた。 ムウだ。
「で?」
腕組みをした俺が見上げるムウは、悔しいほど背が高い。
一昨日の夜、ムウの部屋に泊まったときにミルクを飲まされたコップに付いた指紋を採取照合されて、ミロだという確証をつかまれたのだ。 去年の春に寮を建て替えたとき指紋認証システム導入のために全校生徒から指紋を採取したという経緯があり、ムウのことだからコンピュータに侵入して俺の指紋を入手したのだと思われた。 単純な手に引っかかったのは不本意だが、そのおかげで元に戻れるのだからいいとしよう。
「カミュが戻ってくるといけないので挨拶は省きます。 これがそうです。」
ムウから手渡されたのは無色透明の液体が入っている栄養ドリンクほどの大きさの瓶だ。 俺が飲まされたのとよく似てる。
「いつ、飲めます?」
「入れ替わるためにはカミュが出かけていなくてはならないから明日の午前中にする。 それで大丈夫か?」
「ええ、室温で保管できます。 味は保証できませんが、効果はシオン教授のお墨付きです。 ほんとにこのたびは申し訳ないことをしました。 こんなことになるとは思わなかったので。」
「過ぎたことだ。 元に戻れるなら、とりあえず文句を言う気はない。 もっとも、落ち着いたところで言いたいことは言わせてもらうからな。」
「ええ、わかっています。 元に戻るときなんらかの副作用が出ることも考えられますが、おそらく一時的なものでしょう。 悪寒、発熱、嘔気があるかもしれないとのことです。」
「次は自分でやってみるんだな。 貴鬼と名乗って現われたら存分に可愛がってやろう。 スペースは乗りでがあるぜ。」
「……え? スペースって?」
「たいしたことじゃない。 じゃあな。」
頭を下げたムウと握手をして、重要な会見は5分で済んだ。 台詞はミロだが、五歳児の可愛い声では迫力がなかったろうと自分でもおかしくなった。

そのあとは、きっちり一時間後に帰ってきたカミュとゆっくりと過ごした。俺は図鑑や本のページをめくり、カミュは勉強をしたり俺と一緒に昼飯を作ったりして二人の息はぴったりだ。 午後には、ジョアンが明日離日するとカミュが連絡したのでデスとアイオリア、シャイナと魔鈴がケーキを持ってお別れに来た。 みんなカミュの部屋に入るのは初めてで、きれいに整頓されているのに感心したようだ。 ディズニーで撮った写真も持ってきてくれて、場はおおいに盛り上がった。スタッフに撮ってもらった全員の記念写真もあって、ジョアンの大事な思い出はみんなの記憶に永遠に残ることになった。
「また来いよ!遊んでやるからな!」
「待ってるからね、ジョアンくん!」
「う〜ん、可愛いっ!キスしてあげる!」
「あたしも、あたしも!」
ほんとによしてくれ! おい、カミュ、笑ってないで俺を助けろっ!

ジョアンの俺は昨日と同じくカミュとの入浴を楽しみ、一緒にベッドに入り、最後の幸せを心ゆくまで味わった。
翌朝は学校が始まる日だ。 いつもより早起きしたカミュと荷物をまとめて隣の俺の部屋に移る。 カミュは俺が寒くないようにとエアコンをつけてくれて、ほんとにどこまでもやさしいのだ。
「それじゃ、ジョアン、これでお別れだね。」
「うん……」
涙が出てきた。 わかっていることなのに、カミュとそれから5歳のジョアンと別れることが悲しくてたまらない。 どうしても我慢できなくて袖で涙をぬぐったらカミュに抱き上げられた。
「ジョアン、ジョアン、泣かないで………私も泣きたくなってしまうから。 すぐにミロとご両親が来るからさびしくないよ、大丈夫だよ。」

   そうではない、そうではなくて……

「カミュのことが大好き………大好きだよ、ほんとうに………」
あとは声にならなくて泣くしかなかった。 二度とジョアンは現われない。 こんなにジョアンの存在を信じてるカミュを俺は裏切っている。 今だけじゃなく、これから先も。
「私もジョアンが大好きだよ………一緒にいられてよかったよ……いつまでも友達でいようね…」
「ん……」
神経が高ぶってる、それは自分でわかってる。 自分では大人のつもりでも、小さい身体は自律神経系が未発達なのだろう。 喉が震えてうまく声が出ないような気がしたが、精一杯自分を励ました。
「あのね……秘密を教えてあげる……ぼくがカミュを好きなのと同じくらいに……ミロは………カミュのことを…………好きだからね………ほんとだよ……」
「……え?」
「ほんとだよ………ほんとにほんとだよ……」

   大好きなカミュ、俺が唯一愛しているカミュに俺の心が届いてほしい!

「わかったよ、ジョアン……」
小さな声でささやくように言ったカミュが涙に濡れた俺の頬にキスをしてくれた。

ベランダに向いた窓から登校するカミュを見送った。 カミュは角を曲がる前に振り返って俺に手を振ってくれた。もちろん俺も千切れんばかりに手を振り返す。
姿が見えなくなったところで、例の小瓶を取り出した。 すぐに元に戻って学校に遅刻する旨の電話をかける必要がある。 部屋の鏡を見て小さいジョアンに最後の別れを告げた。 くりくりっとした青い目がちょっとさびしそうにこっちを見てる。
元の身体に戻ったら服がきつくなるのは目に見えているので、全部脱いで最後の準備を終えた。
「お別れだ、ジョアン!」
たった三日間の小さい身体に別れを告げて、俺は一気に瓶の中身を飲み干した。

三時間目が始まる三分前に俺が教室に入っていくと、カミュが、ああ、という顔でこっちを見た。 ちょっと手を上げて合図をしてから自分の机に鞄を置いてそばに行く。
「ほんとにありがとう、急にジョアンを預かってもらって申し訳なかった。 いたずらとか、しなかったかな? 行儀よくできたか心配だよ。」
「大丈夫だ。 ジョアンはとってもいい子で、なにも手がかからなかった。 では、ジョアンはもう……?」
カミュがさびしそうな顔をした。 ちくりと胸が痛む。
「ああ、今頃は両親と一緒に成田に向かってる。 ほんとうに世話になったとソティリオも心から感謝していた。 直接会って礼を言うべきなのに、飛行機の都合でそれができないのをとても残念がっていたよ。」
「いや、私のほうこそ、とても楽しかった。 こちらから礼を言わせていただきたいくらいだ。」
「それなら、よかった! で、三日間、どんなことを?」
「それは…」
しかし、このとき始業のチャイムが鳴った。
「じゃあ、話はまたあとで。 といっても、俺は今夜は徹夜で流体力学のレポートだけど。」
「そんなことだろうと思って、今朝、要旨をまとめておいた。 少し手を入れれば提出できる。 余計なお世話だったかもしれないが。」
「それはありがたい!」
それから思い切って言ってみた、感触は悪くないはずだ。
「ほんとうに大好きだ、カミュ。」
「え………それってまるでジョアンで…」
カミュが はっとして俺を見た。 そのとき教師が入ってきて俺も急いで席に着く。
植生地理学の授業を聞きながら、俺は遠いギリシャに帰っていくはずのジョアンの顔を思い浮かべていた。


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