◆ 第二十八章 バレンタイン
今年もバレンタインがやって来る。
日本人のバレンタインデーにかける情熱は半端ではない。官民あげて、といって悪ければ老若男女がこぞってチョコレートの確保に血道をあげる。
バレンタインにチョコレートを贈るようになったのは製菓会社の戦略だったという説もあるが、二月のチョコレート商戦の盛り上がりを見れば、もはや景気浮揚策の一環としか思えない。
それも無理なく浸透してほんの一時だが世間を明るくするけっこうなイベントだ。
そう思うのも俺が幼稚園の頃から始まって毎年かなりの数をもらっている側だからで、まったく、もしくは幾つかの義理チョコしかもらえない立場だとしたらこんな気楽な気分ではいられなかったろう。
言っておくが、俺は義理チョコなるものをもらったことは一度もない。
もらえないやつはまったくもらえない。 あまりの気の毒さに、そいつの前ではバレンタインの話は厳禁だ。
男の俺はそのへんの気配りをするが、女たちはそんなことはかまいはしない。
一月も半ばをすぎる頃からチョコレートの話題で持ちきりになり、俺をひそかに面白がらせ、もてないやつをシニカルな気分にさせるのだ。
「ねえねえ、今年はどうするの?」
「ふふふ、去年より気合入れて作るわよ〜!」
「やっぱりハート型よねぇ♪」
「ねえ、一緒に作ろっか!」
「うん、そうしよ!」
クーベルチュールだのテンパリングだの、専門用語を駆使しながらの会話が教室や廊下で盛り上がる。
俺たちの学年でいちばんもらえるのはおそらく俺とカミュが双璧だ。 ルックスがよくて特定の相手のいない男子が少ないのでターゲットになりやすい。 デスやアイオリアみたいにできあがっているやつは、もらえるのはたった一つだが、その一つを楽しみに余裕たっぷりでバレンタイン当日を迎えるのだ。
「よう!」
そのデスマスクがやってきた。 数日前のあの件以来、見る目が変わって妙に親しみが増しているのだが、それを表に出すわけにはいかないのが少々つらい。
ジョアンの体験は俺のまったくあずかり知らぬことなのだから、そこのところを肝に銘じておかないとまずいことになる。
ディズニーではずいぶん親切にしてもらったし、デスの手で高い高いをされたことは忘れられない思い出だ。
「ミロ、今年もチョコの山を築くのか?」
「築くって言われても、好き好んで集めてるわけじゃないからな。」
「それに比べて、俺なんか一つっきりしか来ないからな〜、お前には負けるよ、まあ、いいけどさ。」
言葉だけ聞くと羨ましがっているようにも聞こえるが、ニヤニヤしているところを見ると早い話が自慢なわけだ。 シャイナとの熱々ぶりはディズニーでたっぷり見せてもらったので、その辺は俺にもよくわかる。
「で、お前、毎年どうしてるんだ? まともに全部食べてるのか?」
「せっかくもらったんだからな。 チョコは痛まないから何ヶ月かかけてゆっくりと消費してる。」
これは嘘だ。 実際にはまとまったところで箱にぎっしり詰めてギリシャのソティリオのところに送ってる。 中学のときカミュに 「もらったチョコをどうしてる?」 と聞いたら 「それが多すぎて困っている。」 との返事だったので、その年からはカミュの分も一緒に贈ることになり、量は倍増した。
日本のチョコレートはきわめて上質で、東洋のデザインの珍しさもあってトラキアの村では大人気だ。 おまけに日本のバレンタインチョコは包装もパッケージも凝っていてさらに評価が高い。 毎年のこの行事をソティリオの家ではクリスマスの次に楽しみにしてる。
でも、こんなことは人には言わない。 一人に言ったら全員に言ったも同然で、口から口へと伝わり翌日には全校に知れわたることとなる。 この俺が、もらったチョコレートに手をつけないでよそにやっていることを知られるわけにはいかないのだった。
「それはご苦労なことだ。 俺なんか一つだけだから、すぐになくなるからな〜。
いや、羨ましいね、もてるやつは!」
そう言ったデスマスクは俺の背中をばしっと叩くと機嫌よさそうに歩いていった。
ああ、どうせ俺には彼女はいない
俺が欲しいのは彼女じゃなくてカミュなんだよ!
女だったら気が楽だったろう。 女が男にチョコを渡すのは当たり前で、たとえそれがどんなに高望みだろうと誰もおかしいとは思わない。
チョコと一緒に、好きだ、と告白するのも自然なことだ。
しかし、男が男にチョコを渡すっていうのはなぁ………
カミュだって当惑こそすれ、嬉しいとは思うまい
やっぱりチョコはやめにして、愛の言葉を贈るべきだろう
そう、俺は今年こそカミュに告白しようと思ってる。 ジョアンの身体でカミュに抱かれた甘い記憶は俺の想いを駆り立てた。
元の身体に戻ってほっとしたことは事実だが、二度とカミュにさわれないのかと思うと口惜しく、もう一度ジョアンに戻りたいと思ったこともしばしばだ。
だが、カミュと恋仲になりさえすればこんな想いも一気に解消される。 ディズニーで得た感触では、俺に対するカミュの印象は悪くない。
別れのときにジョアンの口からミロの想いを伝えたときも、たしかに手ごたえはあったのだ。
たとえそれが子供のジョアンに対するリップサービスだったとしても、期待する余地は大いにあった。
リップサービスかぁ………
ああっ、ほんとにカミュにリップサービスしてもらえたら嬉しいんだが
カミュに抱かれて頬にキスしてもらった記憶は鮮烈だ。 俺がぼうっとして、やわらかい唇やらやさしい抱擁を思い出し甘い夢に耽っていると当のカミュがやってきた。
「待たせた。」
「いや、さほど。」
今日の授業はもう終わりだ。 カミュがこれから図書館に行って本を借りるというので俺も付き合うことにした。
いつものパターンで自然な行動だが、これをもうちょっと発展させるわけには行かないだろうか。 たとえば空いた時間に美術館に行くとか、気の利いた映画を見るとか、たがいの部屋で時間を過ごすとか。
待てよ、部屋はまずいかな?
いや、男女じゃないんだからまずくはなかろう
でも、男二人でいったいなにをやってればいいんだ?
これが女同士なら甘いものでもつまみながらおしゃべりに花を咲かすのだろうが、男にはそういう芸当はできはしない。
カミュ相手じゃ、参考書を広げて黙々と勉学にいそしむことになりかねん。 むろん俺としてはそれでも一向に構わないし、むしろ望ましいのだが、たぶんカミュは一人のほうが集中できると言うに決まってる。
待てよ? ゲームはどうだ?
こないだアイオリアに誘われてあいつの部屋で W i i をやったがけっこう面白かった!
カミュが普通のRPGを夢中になってやるとは思えないが、身体を使う
Wi i なら面白がったりしないか?
無理かなぁ……タイプじゃないかな?………カミュが W i i ………うん、やっぱり有り得ない
いろいろ考えながら図書館に入ると、すぐ脇の掲示板にたくさんのポスターが張ってある。
カミュが足を止めて感心したように見ているのは…。
「ああ、これはよい!」
「ふ〜ん、三井寺か! いいじゃないか、今度行ってみるか?」
「付き合ってくれるか?」
「いいとも。 俺もこういうのは好きだ。」
それはサントリー美術館の展覧会のポスターで、琵琶湖を望む山の中腹にある三井寺の仏像や障壁画などの寺宝を一堂に公開するという企画が紹介されている。
「では今度の土曜日に。 混雑を避けるために午後六時に入場しようと思うがそれでよいか? 閉館は午後八時なのでゆっくり見られると思う。」
「OK!」
おい、土曜日ってバレンタインなんだが………
それに俺はこんどのバレンタインこそ告白するって決めてるんだよ!
そのバレンタインにデートの予定ができたのは実に嬉しい。 もっともカミュはデートとは思っていないだろうが。
しかし、三井寺の仏像………正直言って仏教美術はそれほど好きじゃない。 同時に展示される狩野派の絢爛豪華な障壁画ならまあまあいける。 金箔を貼った屏風に強そうな虎や龍が描いてあるのは俺の好みだし、牡丹や秋草もいい。
しかし、仏像は渋い、渋すぎる。
それでも東大寺の日光月光なんかは実にしっとりと美しく、日本人にもファンは多い菩薩立像だろうが、俺の目にはどこから見てもカミュとしか思えない。 楚々たるたたずまい、淡く微笑む口元、しなやかな身体の線を慎み深く隠す薄絹の衣。
すべてがカミュそのものだ。
しかし、三井寺といえば密教だ。 密教といえば不動明王、愛染明王、修験道、護摩法要あたりが思い浮かび、いささか硬派で緊密なイメージだ。 そんな環境でカミュに告白するチャンスがつかめるものだろうか?
そして土曜日がやってきた。
うちの学校は土曜にも普通に授業がある。 公立と違って私立だからそのあたりは学校独自の裁量がきき、授業にはしっかり時間をかけるのだ。 そのくらいしないとまともな進学ができないのはわかりきっているので誰も文句を言うものなどいない。
今年もバレンタインのチョコがロッカーや机の上に、そして勇気のある女子から直接手渡されるだろうが、にっこり笑って受け取るようにしてる。
今年のバレンタインはあいにくの土曜日で午前中しか学校にいないのだから、渡すほうも限られた時間の中でチャンスを見つけるのに大変なことはよくわかる。彼女たちの気持ちに応えることはできないが、せめてこころよくチョコを受け取るくらいのことはしようと思ってる。
向こうも受けとってもらえただけで天にも舞い上がる心地らしくて、真っ赤になっているのもいつものことだ。
一方でカミュがいつまでたってもこうしたことに慣れなくて、困りながら受け取るのを面白がって見物しているやつがいるのも知っている。デスマスクがその一人だ。
「どうしてあそこまで赤くなるかなぁ、いい加減で慣れるってことがないのか?
あいつは。 まあ、そこが初々しくて可愛いっていうんで、その顔見たさにわざとカミュにチョコを渡す女もいるんだからほんとに面白いな!お前とどっちが多くもらうんだ?」
「同じくらいじゃないのか? ほら、またチョコを渡しに来た。」
きれいな包みを持たされて席に戻ろうとしたカミュがまた呼びだされて困り顔で新たなパッケージを受け取っているところである。
カミュの心が女に向くはずがないのはわかっているので俺もさして気にしない。かなりの山が机の上にできているので今年もソティリオが喜ぶことだろう。
チョコレートの攻勢を受けながら午前中の授業を終えたあと、カミュが電子物理学のレポートを仕上げるというので俺もそれに倣うことにした。
そのあとミッドタウンに出かけていって三井寺展を見て、午後八時の閉館までじっくりと見ているだろうから帰宅するのは九時近くなる。 大人ではあるまいし、生真面目なカミュはけっして寄り道などしないだろう。
すると、俺がカミュに告白できそうな静かな環境がありそうなのはたった一箇所しかなかった。 三井寺展そのものだ。 ちょっと渋い、というか、かなり渋いと言えるだろう。
まあ、この計画のとりえといえば、ほかのやつらには出くわさないところだろうか。 誰が好きこのんでバレンタインの土曜の夜にサントリー美術館で密教の仏像を見ながらデートする?
うん、これはけっこう穴場かもしれなかった。
都心にある俺たちの学校は立地条件がよく、美術館やコンサートに行くにはきわめて都合がいい。
サントリー美術館は以前は赤坂にあったのだが、俺たちの学校からもほど近く東京の新名所となりつつある六本木の東京ミッドタウンに移転してきてもう2年になる。 オープンしたての頃にカミュと国宝・鳥獣戯画の全巻展示という素晴らしい展覧会を見に来て以来何度か二人で足を運んでいるので、カミュは今度も俺と行くことを特別なことだと考えているはずもない。
ごく自然な行動だ。 あのカミュが女と一緒に美術館なんかに行ったら、一大センセーションを巻き起こすだろう。
レポートを手早く仕上げて少し早めにミッドタウンに行った。 ちょっと洒落たレストランで食事をして美術館へ向かう。 未成年のせいでワインが飲めないのは口惜しいが、これはしかたがない。
ミッドタウンは相変わらず人が多くて、いくら土曜の夕方でもどうしてこんなに人が集まるのかあきれるばかりだ。
「みんながみんな、仏像を見に来たわけじゃなさそうだな。」
「いくら美術好きの日本人でもそれは有り得ないだろう。」
広い空間の中央にあるエスカレーター目指してカミュが人波の中を縫うように進むという情景は理想的とは言いがたい。 カミュにはいつも静謐な空間に存在していて欲しいと思うのだ。
このミッドタウンでその環境に一番近いのはたしかに三井寺展に違いない。
いつも思うのだが、日本人はどうしてこうも美術展が好きなのだろう。 平日の昼間でも人は驚くほど多いし、土日の午後なんかは信じられないほどの混雑ぶりを呈して、ちっとも展示品が見えないのが常態となっている。 しかし、さすがに土曜日の夕方六時ともなるとほとんどの人間は展覧会よりも食事に時間を使うことを思いつくので、どんなに評判の美術展といえどもこの時間から閉館までは人少なになるのが普通なのだった。
「予想通りだ。」
「ああ、こんなに空いてるなら楽に見られるな。」
並ぶことなくチケットを買い、係員に導かれて上階へのエレベーターに乗る。
この美術館ではフロアが別れているので上の階から見始めて下に降りてくるのだ。
会場の中はどちらかというと地味な仏教美術のせいか、人もまばらで展示品を独占できる。
鎌倉時代の不動明王立像、狩野光信筆の桃山障壁画、黄不動尊の彫像、いずれも美術的価値の高い逸品だ。
逸品ではあるが、どうしてバレンタインの夜に俺はカミュとここまで渋いものを見ているんだ? という疑問がないでもない。
一世一代の告白をするなら、黄不動よりは歓喜天、いや、それはあんまりなのでフェルメールあたりが向いているとは思うのだ。
しかし、こないだ見たフェルメールは閉館間際でも混んでいた
やっぱり今日だ、今日のバレンタインで俺はカミュに告白する!
いつまで待っていてもきりがない
次に抱かれるのはジョアンでなくてこの俺だ!
いや、抱かれるのはカミュかな、やっぱり
そんな不埒な想いで仏像や障壁画を見ながら、胸の鼓動を抑え、ひりつく喉をなだめながら機会を窺うこと一時間。 仏像鑑賞にはふさわしくない態度だったろうが、仏教徒ではないからばちは当たるまい。
ときどき声をひそめてカミュと密教美術の話をしつつ、俺の心臓は破裂しそうだ。
順路も終わりに近づいたころ、 閉館時刻を知らせる案内が静かに流れ、何人かの客が俺たちを急ぎ足で追い抜いていった。
最後の展示室の中央に重要文化財の如意輪観音菩薩坐像が展示してあった。 片膝を立てて座しているこの像のまろやかな肢体のフォルムは女性のようでいかにも美しい。
おだやかな尊顔は安らぎに満ちて、何百年もの間 衆生に注がれ続けている眼差しはどこまでも暖かい。
「ほぅ……これは………よい仏像だ。」
カミュがじっと見入った。 部屋にいるのは俺たちだけで、続いて入ってくるものもいない。
俺たちで最後だろうと思った。
「カミュ…」
「え?」
「お前に話しておきたいことがある。 聞いて欲しい。」
俺の声の真摯さがカミュに伝わったに違いない。 カミュが俺を見た。
いつもいちばん近くにいた俺の親友。 蒼い瞳、白い頬、きれいな髪、比類なき憧れの存在、俺のカミュがここにいる。
次の一言で俺は親友の座を捨てて、千尋の海へ船出する。 希望の海か、絶望の淵か、二者択一の瞬間だ。
「ずっと長い間、お前を見てきた。 俺はお前が好きだ、もうこの想いはとめられない。
けっしてうわついた気持ちなんかじゃない。 もしよければ俺と付き合って欲しい。」
口惜しくも語尾が震えた。 ずっと前から用意してきた気の利いた言葉はどこに行ったのか見つからず、途中からは心に浮かんだことをしゃべっていた。
カミュは目を見開き、じっと俺を見て、それからなにか言おうとして口をひらいた。
しかし、それは言葉にならず、唇が震えるばかりでなにも聞こえてこないのだ。 ありったけの勇気を使い果たした俺がそれ以上の言葉を思いつけなくて息を詰めていると、ようやくカミュがささやくような声でこう言った。
「自分に勇気がなかったことがよくわかった。 ミロに先を越された。」
「……え?」
すぐには意味がわからなかった。 カミュはなにを言おうとしているのだろう?
「天地神明も照覧あれ。 ミロ………私もお前が好きだ。」
「あ……」
頬がいきなり熱くなる。 頭にかっと血が昇り、胸の鼓動が高まった。
TPOの三文字をきれいさっぱり忘れ果て、俺はカミュをつかまえて生まれて初めてキスをした。
ジョアンではなく、ミロとして。
頬にではなく唇に。
俺は希望の海に船出した。
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「あの部屋には防犯カメラがあったような気がするのだが。」
「え゛………」
サントリー美術館 三井寺展 ⇒ こちら