◆ 第二十九章 二十歳
私立異邦人学園大学の理工学部に在学中の俺とカミュは、表向きは幼稚舎以来の親友で通ってる。
……え? 表向きじゃないほうはなにかって? そんなことはここでは言えない。
11月に俺がひと足先に二十歳になり、年が明けた2月にはカミュも俺のあとを追ってきた。
誕生日を迎えて正々堂々とアルコールを飲める身分となった俺は、成人したその日に、とっくに二十歳になっていたデスやアイオリアに誘われてドキドキしながら酒を飲んでみた。
なにを今さらと思われるかもしれないが、うちの大学は未成年者の喫煙と飲酒にはことのほか厳しい。
違反したことがわかったら即刻退学、二度と学校の敷地には入れない。 その方針は全員に周知徹底しているので、二十歳前に酒や煙草に手を出すものなど一人もいないのだ。
「ミロ、お前、かなり強いんじゃないのか!」
「え?そうかな?」
「強い!間違いない!」
顔はすぐに赤くなるが、あとは陽気になるくらいのもので、量的にはいくらでも飲めることがわかり、なんだか一人前の大人になった気がしたものだ。
そのときはまだ未成年だったカミュに酔いの残る頭で初めての飲酒を報告すると、
「だからといって調子にのって深酒をせぬようにな。」
といつもの調子で忠告を受けた。
「わかってる、酒は静かに飲むべかりけり、だろ。」
これは若山牧水の短歌 「白玉の歯にしみとおる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり」 の下の句で、牧水に心酔している高校のときの現国の教師が授業中に必ず教えるため、うちの大学ではきわめて知名度が高い。
二十歳までは飲まない教育を徹底させ、いざ飲み始めた時には節度を持つようにという飲み方まできっちりと刷り込まれたというわけだ。
この牧水の短歌を知ったときは月夜に端然と正座して白磁の盃を口元に運ぶカミュを想像して胸がときめいた。 この歌の描き出す情景はまさにカミュそのものだ。 こんなカミュと一緒に酒が飲めたらどんなにいいだろう。
そして、暦の上では春を迎えて数日たった二月七日、ついにカミュのアルコールデビューのときがやってきた。
誰かが二十歳の誕生日を迎えると、気の効いたレストランで食事をしながらみんなでそいつのアルコールデビューを祝うのがうちの学校の習慣だ。 派手なことを好まないカミュに合わせて出席者は俺とデスとアイオリアだけにした。 むろん女などもってのほかだ。
「どこにする?」
「カミュはフランス人だから、やっぱりフランス料理か?」
「デビューはワインだろう。 カミュのイメージだ。」
「案外、日本酒あたりじゃないと飲んだ気がしなかったりして!」
「まっさか〜!」
「いや、わからんぞ。 ああいう生真面目なのに限って顔色一つ変えないでウワバミのごとく一升瓶を…」
「デスっ!」
「ああ、悪かったよ、たしかにカミュのイメージじゃない。 ともかく最初はフランス料理にワインといこう。」
というわけで、まだ学生の俺たちにはロオジエやマキシムといった銀座の高級なレストランは手に余るので、大学からもほど近い 『
デジェル 』 が選ばれた。 家庭的な雰囲気の落ち着いた店だ。 ちなみに俺のときはその向かいにある 『
カルディア 』 だった。
当日はみんな洒落た服装でやってきた。 もともと背の高い俺たちが人目を引くのはいつものことだが、カミュの誕生祝の今日は四人揃って決めているからことさらに注目された。 日本に住んでいるからには仕方がないと、もう誰も気にしない。
真っ白いテーブルクロスがまぶしい席に着き、ちょっと気取った料理を注文してワインの選定はデスに任せることにした。 自称ワイン通のデスはそういうことがうまいのだ。
誕生日が6月と早かったので、これまでの間にかなり積極的に研究を積んだらしかった。
「アルコールデビューはビールあたりから入っていくのが普通だが、お前はフランス人だからやっぱりワインが似合ってる。
フランスじゃ、子供のときから水代わりに飲んでるっていうし。 初心者に向いてるワインを選んでやろう。」
こちらで注ぐからと断って、届いた白ワインを七分目ほどグラスに注いだ。 感心したように眺めていたカミュは最初の乾杯こそ遠慮がちだったが、
「なるほど、すっきりと甘くてジュースとあまり変わらない。 こんな味とは思わなかった。」
と俺たちに倣って前菜の間にグラス一杯を飲み干した。
「だろ! お前はずっと日本にいたから今まで飲んでいなかったが、もしフランスに住んでたらとっくに酒豪の域だったかも。」
「まさか!」
俺はカミュと一緒に飲めるようになったのが嬉しくてどんどん飲んだ。 デスとアイオリアも同様だ。
カミュは白い頬を美しく染め、しばらくは食事に専念していたが、やがて俺が注いでおいた二杯目にちょっと口をつけてからグラスを置いた。
「なんとなく……身体が重いような気が……す…る。」
「え?」
いつもと違う歯切れの悪い口調にカミュを見ると、顔を真っ赤にして荒い息をついている。
「私は……酔ったの…かも……」
そしてカミュは目を閉じて右側にいる俺のほうに倒れ掛かってきたのだ!
「あっ…」
慌てて手を出して支えてやった。 もしかしてカミュって………
「下戸だ、それもとびきりの!」
幸い席は扉に近く、店の前にタクシーを横付けしてもらった俺たちは自分では歩けなさそうなカミュを支えて早々に店を出る羽目になった。 うちの学生のアルコールデビューに慣れている 『
デジェル 』 の主人に、
「弱い人もいますけど、ここまでの人は珍しいですね。」
と同情された。
寮に連れ帰って部屋に担ぎ込むとデスとアイオリアはあとを俺に任せて帰っていった。 と思ったら一度玄関を出たデスがひょいっと戻ってきた。
「それにしてもカミュがここまで弱いとは思わなかったな。 おい、ミロ、いくら惚れてるからって、意識のないやつに妙なことするんじゃないぜ、自重しろよ。」
「なっ、なにをっ……!」
ワインのせいでもともと赤かった頬がかっと熱くなる。 デスが俺たちのことをどこまで知っているのかわからなかったが、今の発言は全然嬉しくないっ!
咄嗟に反論できないでいる俺に 「それじゃあな!」 と手を振ると、今度こそデスが帰っていった。
……それはまあ、ジョアンだったときにカミュに直接言った奴だからな
アリスのティーパーティーのことを思い出し、今さら考えてもしかたがないかとあきらめて、部屋に戻りカミュの世話をした。
吐かなかっただけましだと思うことにして、服を緩めてパジャマに替える。
このあと、どうする?
せっかくの二十歳の誕生日にこの有様か?
そんな予定じゃなかったんだが
すやすやと眠るカミュの頬が朱に染まり、少しひらいた唇も目の毒だ。 いや、この場合は毒というより媚薬だったりなんかして。
………え? このあとどうしたかなんてプライバシーは訊かないで欲しい。 そんなことはここでは言えない。
次の日曜の朝、カミュの酔いはすっかり醒めていたが、俺に話を聞かされてずいぶんがっかりしたようだ。
「そうか………この私がそんな醜態をさらして店にもみんなにも迷惑をかけて………」
「いいさ、気にするな。 酔っ払って暴れたり吐いたりするよりは百倍もましだ。
次からはもうちょっと少ない量を時間をかけて飲むようにすればいいんだから。」
「ん………それにしても…」
ため息をついたカミュがちょっと気の毒になる。 みんなに迷惑をかけたことを気にしているカミュは、俺がこれからも陽気に楽しく飲めるというのにその輪に加わることさえできないのだ。 カミュの性格では、酔っているみんなの中でただ一人素面で調子をあわせていくことなど到底無理だろう。
朝食を摂りながら慰めて、カミュの好きなクラシックで気を引き立てて、なおも気分がすぐれなそうなカミュをあの手この手でフォローする。 しっとりとやさしい雰囲気はそれはそれで悪くない。
この関係が一挙にひっくり返る大事件が起こったのは午後遅くのことだ。
図書館に行くことを思いついたカミュに付き合い、静かな環境で二時間ほど過ごしたのはよかったのだが、その帰り道にデスマスクに会ってにやりとされたカミュはまたまた気が滅入ったらしかった。
俺の思うに、デスが笑ったのはカミュが酒に弱かった点ではなくて、俺とカミュの仲を勝手に推測したせいなのだろうが、まさかそんなことをカミュに言えるはずもない。
こっそりため息をついているカミュと寮のエレベーターに乗ろうとしたとき、後ろから誰かに声をかけられた。
「ああ、ミロ! ここで会えてよかった!」
「あ……」
「今回は時間がなくて会えないと思っていたから連絡しなかったんだが、偶然こっちの方に来ることになってちょっと寄ってみたんだよ。 そしたらIDカードがないと上に上がれないって言うし、携帯もつながらないから、もうあきらめて帰るところだったが、ここで会えてほんとうによかった!元気そうで安心したよ、大学はしっかりやってるか?」
「ええ、元気でやってます。」
図書館にいたので携帯の電源を切ったままだったのが災いだった。 ちらりと目をやると、カミュが少し離れたところから礼儀正しくこちらを見てる。
どう見ても紹介するしかない情況だった。
「彼は友人のカミュです。 カミュ、こちらはギリシャから来た従兄弟のソティリオだ。
ワインを作って日本にも輸出してる。」
「これはこれは、初めまして!」
初対面の挨拶が交わされ、すぐに恐れていたことが起こった。
「ところで、ジョアンくんは元気ですか? 今回はご一緒ではないのですか?」
「ジョアン? それは誰のことでしょう?」
「息子さんです、ジョアンくんとは三年前に日本に来られたときに仲良くさせていただいて。」
ソティリオが不思議そうに首をかしげた。
「息子はいますが、うちのはマリノスといいます。 まだ連れてきたこともないですし、なにかのお間違いでは?」
「え………でもたしかに…」
カミュがちらっと俺を見た。
「はて? うちの子がマリノスだって、ミロも知っているだろう? 」
「えっ………ああ、もちろんだとも。」
ひきつった笑顔が自分でもわかる。
俺に振ってくれるな〜〜っ!
いや、それはたしかに、この場合、証明できるのは俺しかいないんだが
一瞬の間があって、カミュがにっこりと笑った。 さすがというか恐いというか、胃が痛くなるような微笑みだ。
「これはどうも失礼をしました。 私の勘違いだったようです。」
「いやいや、勘違いは誰にでもあることですよ。」
にこにこしたソティリオは抱えていた半ダースのワインを俺に手渡すと、
「ご友人もどうぞご一緒にお飲みください。 うちの農園でできたワインです、なかなかいけますよ、お口に合うといいんですが。」
カミュにそういって握手して帰っていった。 ソティリオが角を曲がるまで見送って、それから恐る恐る振り返るとカミュが俺を睨んでる。
「ミロ………どういうことか説明をしてもらおうか。」
「説明って………あの、それは…」
たじたじである。 氷の視線が飛んでくる。
「二月の風は寒い。 長くなりそうだから私の部屋に来てもらおう。」
「カミュ、あの……」
「部屋で聞く!」
「……はい」
柳眉を逆立てるとか、逆鱗に触れるとか、仏の顔も三度とか、ありとあらゆる成語が俺の頭を駆け巡る。
君子 豹変す、っていうのもあったよな……
まさか髪の色が変わったりなんかして!
これから先の俺たちの関係って………昨夜はあんなによかったのに………
俺は盛大にため息をついてカミュのあとをついていった。 手に提げたワインがずしりと重かった。
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