◆ 第四章 靴
左手で簡単にひらけるはずの携帯が小さい手では扱いにくいのにも驚いたが、慣れ親しんでいた重ささえ妙にずしりと感じられる。
内心で舌打ちしながら両手を使って広げて、震える手で電源を切ることができたのは幸いだった。
これを確保しておかないと、後々困ったことになるのは明白なのだ。
ほっとして携帯を枕の下に隠したとたん、カミュの呼ぶ声がした。
「ジョアン、入ってもいいかな?」
たった五歳の俺にさえ許可を求めるのが、いかにもカミュらしい。
玄関のほうに顔を出すとカミュが入ってきた。
「電源を切っているらしくてつながらない。 そのうちにもう一度かけてみるけれど、ジョアンはこれからどうするかな?」
「え?」
むろんカミュは小さい子供を一人にしてはいけないと考えているのだが、五歳児にそんな考えはないはずだ。
俺がきょとんとした顔で見上げると、
「ジョアンは図書館に行ったことある?」
と聞いてきた。
ふ〜ん、カミュと一緒に図書館に行くのも面白いかもな♪
そうだ! そのついでに、俺の着替えがなにもないという問題を片付けられるんじゃないのか?
「図書館は行ったことないけど、村の教会の牧師館にたくさん本があるの♪ そこでいっぱい本を読んだよ!」
トラキアは小さな村で、図書館なんて気の効いたものは車を1時間ほど走らせないとありはしない。
そのかわり牧師館には、みんなが寄付した本や教区のお偉方が揃えてくれた全集なんかがあるのだった。
なにしろ教会だから硬い本ばかりなのだが、そこには当然の如くギリシャ神話集なんかもあって、その自由奔放な内容は小さかった俺にもかなり衝撃だったのを覚えている。
潔癖症のカミュにはきつい内容もあるはずだ。
そんなことを考えながらにこにこしていると、カミュが辺りを見回し始めた。
「なにか探してるの?」
「ミロは出かけるときに鍵を掛けていったのだけど、私たちが図書館に行くとすると、その間、どうしようかと思って。」
スペアキーももちろんあるが、一人暮らしだとそんなものは引き出しの奥の奥にしまい込んであるのが当たり前だし、初めてここにやってきた子供のジョアンがその置き場所を知っているはずもない。。
しかし、この場合は、俺はどこにも出かけていないのだからいつも使っている鍵がすぐそこにある。
カミュは俺の使っているキーホルダーを知っていたかな……?
知られているとまずいことになるんだが………いや、たぶん、知らないはずだ!
ジョアンがスペアキーのしまい場所を知っているというのも不自然だからな、ここは賭けるしかあるまい!
「鍵だったらここにもあるよ。」
俺がパソコンの横に置いてある鍵を指差すとカミュが寄ってきた。
「ああ、これだ。 私の鍵と同じモデルだから間違いない 。 これなら出かけられるから、ミロが戻って来た場合に備えてメモを残しておけばよいだろう。」
よし! 第一関門突破だ。
しかし、カミュが向う図書館はうちの学園の図書館のはずだ。 考えたこともなかったが、そんなところに子供が入れるのだろうか?
疑問を感じながらカミュと玄関に向ったときだ。 俺は大事なことを思い出した。
「あっ、忘れ物! ちょっと待っててね♪」
カミュを残して部屋に戻った俺は戸棚を開けて小さいリュックを取り出した。
これは暮れの商店街の福引きで当たったもので、犬の顔がデザインしてある子供用のものなのだ。 そのときは呆れて笑ってしまったが、いずれソティリオの子にやろうと思ってとって置いたのが幸いだった。
俺はその中に携帯をしまうと、にこにこ顔で玄関に戻った。
慣れないリュックを苦労して背負うのをカミュが手伝ってくれるので、嬉しいような恥ずかしいような変な気分なのだ。
さて、出かけようという段になって、俺を新たな難問が襲った。
靴がないっっ!
靴なんてあるわけがない。玄関にあるのは俺の靴が二足とカミュの靴だけだ。
「あれ?ジョアンの靴はどこに?」
カミュが靴の戸棚を開けて探し始めた。
「ジョアンの靴が見当らないけど………」
俺は心を決めた。 五歳児がやりそうなことをやるしかない。 それもカミュの同情を引くように可愛く、だ!。
「靴がなきゃ、どこにもいけない………僕の青い靴…」
やや不本意だったが、うつむいて目をこすった。少し泣き声の真似をしてみると、小さい子の声だったので驚くほど真に迫って聞こえた。
実際に困惑したのだから、あながち演技ともいえなかったかもしれないが。
「泣かないで、ジョアン。 どうして見つからないのかわからないけれど、靴がなくては困るから最初に靴を買うことにしよう。」
かがみ込んだカミュに優しく頭を撫でられて、なんだか自分がとても嘘つきのような気がして罪の意識にとらわれる。
しかし、それも次の瞬間にふっとんだ。
「おんぶしてあげるから、さあ、おいで。」
カミュが低い姿勢でこちらに背を向けた。
えっ、ええ〜〜〜〜っっ!!
予想もしてない展開に、しかし考えてみればそれしかないのだが、俺はぼ〜っとしながら恐る恐るカミュの背につかまった。
軽々と立ち上がったカミュが頭を低くして玄関を出る。 頬にさわる艶々した髪がいい気持ちで気分は最高だ!
二月の外の空気は冷たいが、リュックを探したときにマフラーのことを思い出して首に巻きつけてきたし、思ったよりもカミュの背中から伝わってくる熱が気持ちよくてなにも寒くはないのだった。
だいたい子供は薄着でも平気な筈だから、元気な男の子のはずのジョアンはこの程度のやや春向きの服装でも不自然ではないだろう。
靴下もはいてないのは問題かもな………
靴のついでに下着や着替えも買う必要があるだろうから、そのあたりの理由付けを考える必要がある
おんぶされた記憶などないがなかなか面白いもので、回りが良く見えるし、人につかまっている暖かさと歩いている一定の揺れのリズムが快い。
それになんといっても、カミュの背である。
今までは電車で隣り合って座ったときにささやかに身体が触れ合ったくらいで、さわったことなどありはしない。
いつかは親友以上に………と思いはするものの、それが実現するかは微妙なところなのだ。
それがこんなに身体を密着させているのだからどきどきしてきて顔は赤くなるし寒さなど感じるわけがないのだった。
靴屋に向うカミュは図書館とは反対方向の学園の正門の方に歩いてゆき、そのあたりの人の多さが俺をドキッとさせた。
知ってるやつに会いたくないな、と思ったとき、門柱のそばでしゃべっていた何人かの中にデスマスクがいるのが見えた。
目が合ったような気がして思わずカミュのきれいな髪に顔を隠したときだ。
「よう!カミュ! お子様連れとは何事だ?」
デスマスクが声を掛けるのが聞こえた。
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